立花山へ登る(瞑想と登山)

わたしの住む福岡北部では、この数日間は薄曇り勝ちで四重心地よい風が吹きわたっています。

このところ運動らしい運動もしていないので、こんな日和であれば低山とても凌ぎやすいだろうと思い立ち、一昨日、近くの立花山(367.1m)に登ってきました。写真は山頂から博多の街の方の景観です。

いつもは三日月山へそのまま縦走するのですが、山頂についた時間が既に17時でしたので、そのまま大クスを観るルートで下山しました。ゆっくり歩いても登り小一時間程度の、ピクニック気分で登れる低山です。

一昨年は毎週の様にあちこちの山に登りに行っていましたが、昨年の夏に左膝関節に偽痛風(軟骨石灰化症)を発症して、二日間はトイレに立つのすら覚束ない状態になりましたので、その後も膝が気になってなかなか運動をする気になりませんでした。

自分が山に登る時に意識していることは、それは「瞑想」です。登山以外の運動、例えばランニングなどでも、思考を停止して黙々と走り続ける中で、似たような精神状態は得られるのだと思いますが、自分が登山を好むのは主に次のような理由があるからです。

山中というのは人間の生活には極めて適さない場所であり、交通をはじめとするあらゆる人間の人為的活動から遠ざかることができる場所です。そこは自然と生物だけが生息するテリトリーであり、人間はそこでは余所者であり闖入者の様な存在となります。
そこには便利さも保証された安全もなく、有害な昆虫や、時には動物による攻撃を受けるといったことが起こりえます。このような環境下に身を置くと、自然と人はエゴ的な在り方をやめることになります。
ここでは、人間の肉体と五感に頼ることだけが自己の存在の安全を保証します。全身を耳となし、目となさなければ、何時降りかかってくるかも知れない危険を回避できないかも知れません。
そのような状態の中で、自分の五体や五感と、思考を交えずにリアルタイムにコンタクトしながら、目前の一歩いっぽに意識を集中しなければなりません。そうしないと、身近な低山といえども足をちょっと踏み間違えただけで、怪我を負って山中から脱することもままならなくなってしまいます。

また、登りがあり下りがあり、岩や滑りやすい濡れた地面が不規則に続いていく路が、意識を刺激し続けて、決して単調になることがありません。「瞑想」というと一般的には眠りに近いイメージがありますが、それでは単に意識がなまくらになっているだけとなり兼ねません。「瞑想」というのは、むしろ本当の意味で「目を醒まし続ける」ということに他ならないと気づいていることは、瞑想を続ける上で欠かせない意識であるでしょう。

こうした不規則性に富んだ山路は、身体のあらゆる部位をまんべんなく刺激して、体幹を太くし、バランスを俊敏にとるための平衡感覚を養いますし、非常にバリエーションに富んだ体重移動は上半身を同時に鍛えてくれることになります。

昨年膝に炎症を得たのは、実は皮肉にも瞑想を欲張る気持ちが強くなって、坐る時間を長くしていった結果、膝に大きな負担を得たからでした。
その際に大きな気付きとして得たことというのは、瞑想というのは、坐るという行為にあるのではなく、一日24時間のすべてをなるべく瞑想に近い状態で過ごすために、一定の時間坐って深い瞑想状態を得ているのだ、ということです。

人より長く瞑想を続けられることを自慢に思ったり、そのことに自己満足を憶えるような感覚を持ってしまうと、それはもうエゴの助長のために坐っているようなものなのです。(笑)

だから、生活のあらゆる場面において、それが瞑想であるように工夫を怠らないということが肝心なわけであり、瞑想的に、すなわち本来の自己として目覚め続けているために生きるための工夫の一環として、坐して行う瞑想もあるのだと、最近ではそういう風に考えるようになりました。

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