宮地嶽神社~長月のついたち参り~

昨夜は先月に引き続いて、宮地嶽神社のついたち参りをして来ました。
長月に入って、夜には気温もすっかり涼しくなってまいりましたが、今月も後残り4ヶ月となりました。

個人的には、昨日をもってサラリーマン生活に終止符を打ち、今日からは新しい第二の人生がはじまりを迎えました。
人生上の非常に大きな変化ではありますけれども、すでに精神的に乗り越えるべきものは乗り越えて、淡々とした心持ちで現状を迎えています。
当面は、先々に収入を得ていくための諸々の準備をしなければなりませんが、気分的には、季節がにわかに秋めいて来ましたので、生産的活動というよりは、どうしても心が内側の方に向かい勝ちであるように感じます。

収入がなければ生活が成り立たないというものの、自分が職を辞して新しい生活を始めることの第一義は、自身の霊的な部分を先立てて新たな生活を創造するということですから、現実的な物事を先立てて動くのではなく、自分が本来生まれ来たった存在理由というものに密接にリンクした方向性を見いだしていくことを第一にしなければなりません。

これまでの長いサラリーマン生活時代に身に染みついた習慣や物事の捉え方というものを、まずは払拭することが必要です。
人間は食べていかなければなりませんが、食べる為に生きるのだとしたら、それは動物に近い在り方といいますか、機械的に非創造的に日々を過ごすだけということとなり、最早人間としての”生”を生きてはおらず、死したるも同然の状態ということになります。

物事は高いところからはじまり、それが現実化していくのでなければなりません。低い次元の物事を優先すれば、そこから段階を上がっていくということは、物事の順序としてはあり得ないのです。

物事は単調ではなく、表に見えているものは、全体のほんの一片に過ぎないのです。
現実的な意味で、確かなものにすがりつこうとすることは、全体の中の極小的な世界ですべてを全うしようということになりますが、それはまったく自然に反していることは言うまでもないことでしょう。

生命というものは、もとより人間の創造の範疇を超えたものであり、生命の真のまっとうということの為には、全的なものに卑小な自己を委ねるという姿勢が必ず必要となります。
近年のスピリチュアル志向やオカルティズムの追求は、どちらかというと、全体を局部的な価値尺度で表現し切ろうという、本来の在り方とは逆行するものが横行しているように思えます。

 

今月は、後3週間ほどですが秋分を迎えます。心霊的にはこの秋分はとても大切な日となります。西洋では大天使のミカエル祭が秋分の後に斎行されます。
秋分の日というのは、陰の極大である冬至へ向けた流れへと、宇宙規模で地球全体のエネルギーの方向性が転換する潮目であり、エネルギーが凪いでゼロとなるポイントでもあります。

春分は、その反対に陽の極大である夏至へと向かう境目のポイントとなりますが、何れにしてもエネルギーが方向転換するため、一旦エネルギーが凪いだゼロの状態が生じます。
日本ではこのふたつのタイミングで古来から先祖祀りをして来ました。それは、エネルギーが方向性を持たないゼロの状態の時に、あの世との通路が開かれて霊が行き来をできるというように、古来から人が感じていたからであるようです。

人間が精神を研ぎ澄ませて集中力を最大にするためには、呼吸を止める、ということが必要となりますが、冬至と夏至を頂点とするエネルギーの大きな流れは、人で言う呼吸のサイクルの拡大版に他なりません。
こうした人間の通常の意識範疇を超えた宇宙規模のエネルギーの流れを感じなければ、人間の生命というのはまっとうできないことになります。

人間の人生や世界の在り方も、本来はそうのような極大的サイクルに基づいた中で織りなされなければならないものですが、極めて人為的なノイズが強まってしまい、自然とのつながりが至る所で断ち切られるようになっていると感じられます。

むしろ、人工的な環境こそ安心をもたらすものだと、人々は閉ざされた虚無的世界に、こぞって身を投じている現状にあると言えるでしょう。生きることのすべてが競争となり、安全と安心は魂を売り飛ばした代わりに得られる物質的特権によってのみ得られると、人々は洗脳され切ってしまっているかのようです。

最後に、今月の主立ったイベントを備忘録としてメモしておきたいと思います。それぞれの詳述は後ほど折りをみてしたためたいと思います。
・9月6日16時頃:満月
・9月9日:重陽の節句
・9月20日14時半頃:乙女座28度の新月
・9月23日05時頃:秋分の日

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