愚者のカード

毎日、目覚めたら瞑想を行い、その後にマルセイユ版のタロットカードを引くというのを、ずっと一日のはじまりの日課にしています。

この日は愚者のカードを引きました。マルセイユ版の愚者には数字は割り当てられていません。

実はこのカードは、半月前に辞令をもらって退職をした日の朝と、その2、3週前に退職辞令の内示の連絡を受けた日の朝にも引いていました。
何れも大アルカナを含む78枚を用いた5枚引きスプレッドの真ん中の位置に示されたものです。

タロットは毎日引きますが、示されるカードは長短様々なサイクルのものが渾然となって示されます。
そのため、中長期的なスパンを象徴しているカードや数は、一定の期間のうちに間をおいて何度か現れるということが頻繁に生じます。

まだお前は、こういう流れのサイクルの中にいるんだよ、ということを、時折り思い起こさせるようにカードが示されます。そうすると、とかく近視眼的になって、日々の卑近な出来事のみに捕らわれ勝ちになっていた視点が、もう少し大局的な物事の流れを意識することができるように引き戻されます。

ついつい泳ぐという動作だけに夢中になってしまい、目指すべき方向を見失ってしまうようなことが、人生という大海の中では生じ勝ちであるということができるのではないでしょうか。
なので、ホロスコープやタロットなどでしょっちゅう軌道修正を行うことが必要であり、そういうところに、自分が様々な神秘的なメソッドに親しんでいることの主な理由があります。

 

中長期的な人生の展開というものを意識しないでいると、タロットやホロスコープを読んでも、その真に意味するものは読み取れないことになるでしょう。
一般的な占いの世界では、人間が通常的な意識で捕らえている狭い範囲の時間的空間的感覚の枠組みの中で、すべてを捉え切ろうとすることが意図されているように思われます。
しかしそのようなことは、人生のすべてをコントロールしたいという、無謀で現実離れをした欲求の表れと言えるでしょうし、そのような意識の下においては、神秘的なメソッドも最早、宇宙の神秘を繙くツールではなくなってしまいます。

 

愚者のカードは、様々な広範な物事を象徴している訳ですが、このカードに描かれる人物が、世の中の何にも属さない存在であることは確かです。それははじまりであると同時に終わりであり、また、時間と空間を超越している存在であると言ってもよいのでしょう。

この人物は、ただ存在しているだけです。
彼は何者でもなく、あらゆる二元的な対立から離れています。
何も志しておらず、如何なる意図も持ち合わせません。

しかし、ただ存在することの中には、非常に大きな価値あるものが秘められています。
それは何にでもなり得る存在であり、あらゆる可能性を有しているとも言えるからです。
潜在しているあらゆる可能性の象徴であり、未だ形に現れることのない力の塊であり、始原的エネルギーといったものと言ってもいいのかも知れません。

わたしはこの愚者のカードを見る度に、老荘思想の「無用の用」という言葉を思い出します。

わたしは現在、この世的に言うと何者でもない存在であり、何にでもなり得る存在です。わたしという人間としての存在以外の存在意義は、今のところ存在しないのです。
ただ一個の人間として純粋に在る、というだけです。そのことの価値は、そのような状態に身を置かないと中々実感できない部分が多いなと現在感じています。

職にある間、私はわたしという一個の人間としての存在である前に、役職に雁字搦めにしばられた存在としてありました。
中高年ともなると、組織の中では完全に体制側の存在であり、人としての自由度はほとんどなくなってしまうものです。そうでないのだとすれば、その人は単に社会に適応できていないだけということになるでしょう。
わたしは機械的に役割を果たすことに時間と労力のほとんどを費やしている状態というものに疑問を感じ、精神的にも限界を感じていました。

今のわたしは、愚者のカードによって示されるとおりの自由な身となりました。
この先のことがどうなるかは知りませんが、愚者はそもそもそんなことなど考えはしないのです。

前回は、経過の木星がネイタルの月に合していることについて書きましたが、この愚者のカードが象徴していることも、そのことと通じているようにも感じます。
今は何かを志したり、そのためにあくせくと頭や身体を動かす時期ではないのだということなのだと思います。

休むことの勇気というのは、非常に大切なものですからね。

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