再びの愚者~愚の如く魯の如し~

昨日、愚者のカードについて敢えて触れましたのは、このカードが現在自分に対して非常に強く何事かを示しているカードであることを直感したからですが、今朝も昨日と同様に、78枚のカードから5枚を引いて、その真ん中にこのカードが示されました。今回も正位置です。

愚者のカード自体が、非常にパワフルと言いますか、その中に78枚すべてのカードを包括していると言ってもよいようなカードですので、こうしたものが連続して正位置でメインのカードとして示されるということは、長い人生の中でもそう滅多には起こらないことでしょう。

自分の中で、そろそろ何らかのアクションを起こした方がいいのではないだろうか、という現実的な思考が立ち上がってきたのを、ぴしゃりと打ち据えるかのように示されたカードでもあるように思えます。

何かをはじめる前に、それまでの流れをきっちり終わらせることの大切さというものを、頭では分かっていても、漫然として無為に日々を過ごすということは、何かを頑張ること以上に勇気と忍耐力が必要と感じます。

タロットカードは西洋の文化ではありますが、このカードに愚者の名を冠していることは、東洋思想との親近性として、非常に注目するに値するものではないかと思います。

この愚者のカードに関して、昨日は「無用の用」ということについて触れましたが、もう一つ、このカードに関して連想される言葉が禅語にあります。

それは、中国の曹洞宗の宗祖である洞山良价が「宝鏡三昧」という書に示した次の言葉です。

「潜行密用は愚の如く魯の如し、只能く相続するを主中の主と名づく」

わたしは10代の終わり頃から20代の前半の間は、もっぱら禅に関する書物ばかりを読んでいましたので、この文の中の「愚の如く魯の如し」という言葉が、何となく頭の中に残っていて、折に触れて思い出されるのです。

愚というのは、言わずとも分かるでしょう。もっとも平易な言い方をすれば莫迦ということです。そして魯というのは、魯鈍の語でも分かるように、鈍くてのろまな者を指します。

その他の部分について解釈することは、ただただ文意を損ねるだけですので割愛したいと思いますが、誰でも自分の信条に従って、人が見ていようと見ていまいと、決しておざなりにできない物事というものがおありかと存じます。
自分でも何とはなしに、そうしないと気持ちが落ち着かない、納得がいかないという、合理性や効率性というものからは理解できない類の行いで、人としての素行の部分と言えばいいのでしょうか。

その人の本当の姿というのは、実はそういうところに顕れます。というより、そういうところにしか顕れないと考えるべきでしょう。それは人間としての本心や良心が発露する瞬間と言えるでしょう。それを仏心や仏性の発露と言い換えても構いません。とにかく、そういうところをもって潜行密用と言い、そうしたことは世間の目などに捕らわれずに、愚の如く魯の如くになすべきだと言うのです。

人間というのは、社会に適応するための仮の人格の自分と、人としての本来性を持った自己の二つに分かれてしまっています。そして、本心が発露するような時に、良いことをしている筈なのに、何だか気恥ずかしいような、ばつが悪いような気持ちになる、というようなことがあるでしょう。
それは、仮の者が本来の主人であるかのように居座ってしまい、本当の主人が遠慮をしているような本末転倒した人の在り方の姿であると言えるのではないかと思います。

しかし、ここで洞山は、人からみて莫迦と見えようが愚鈍に見えようが、己の信ずるところに従って、即ち自らの本性である仏心に従って、淡々となせばいいのだよ、と仰っているのです。

後段の「只能く相続するを主中の主と名づく」の部分は、如何に仮象の自己に惑わされずに、本来の自分で有り続けられるかが肝要であるのだよ、と仰っておられるのです。

 

ことわざにも「大賢は愚なるが如し」という言葉がありますね。大いなるものに従って生きる者は、小さなせせこましい、目先のことに終始する人間から見ると、一見莫迦であるかのように見えるものです。目先の小さなことばかりに夢中になって日々を過ごしていればいれば、中長期的な大計を立てるような暇は見いだされないことになるでしょう。

また、老子には「君子は盛徳ありて容貌愚なるが如し」の語もあります。

今日は実は、日課を終えて愚者のカードを引いてから、ぐっと上から押さえつけられるようなものを感じて身動きがとれず、リクライニングソファで4時間ほども仮眠をしてしまいました。
何と愚かな醜態でしょうか(笑)。

今自分は、一つの生まれ変わりの時期を過ごしているのではないかと思います。羽化する前の蛹のような状態なのではないかということです。
これまでの四半世紀の間に強く意識して来た事柄や、エネルギーの使い方というのを、一遍全部捨て去らなければ、新しい人生のスタイルを生み出すことはできません。
そして今度新しくはじめる生活は、物質的な生活の必要性などというものではなく、一個の人間としての本性に根ざしたものであることが必要と考えます。

毎日をもっぱら家の中で非活動的に過ごしている現在の自分の様は、人から見れば本当に滑稽で無意味な、莫迦のような生活に見えるかも知れません。
しかし、わたしはそういう人達の過ごしている日常を捨て去った訳ですから、そんなことを気にする必要もないわけです。愚の如く魯の如くといっても、それは通常の世間的な人の価値観から見たものに過ぎません。
自分という存在や自分の送る生活に意味があるか否かは、結局は自分の本心にしか分からないのです。そして、その本心がどこにあるのか分からないので、道というものが必要になってくるわけですね。

もしかすると愚者のカードは、お前は本当の役立たずの馬鹿者だ、と示している可能性もある訳ですが、そうならないように気をつけて、日々を過ごしていきたいと思います。

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