本当の自分が目覚めるのは「夜」

日々、ますます昼夜の逆転を強めて生活しております。

時間や季節には、陰を主体とする局面と陽を主体とする局面の二つのものが、並行して存在するということに昨日も触れました。一つのものが終わりを告げるとき、新たに立ち上がってくるものがあるのです。
昼から見れば夜は昼の終わりにしか見えないでしょう。けれども、夜にしか生み出されないものや営まれないものというものもあるのです。

昼には目に見える、顕在意識が主体となった活動がなされ、夜にはもう一つの違った側面が主体となります。顕在意識というのは、分かっているもの、知っているものだけの世界です。つまりそれらはすべて過去のものということができます。何故なら既知のものや当たりまえのものしかそこにはないからです。そこは主にエネルギーの消費の場です。

しかし、昼間の世界において表現されるものは、すべて夜にその根源を持つのです。身体や知力など、昼間の活動において育まれるものもありますが、夜だけが真に人間を作り育むと言えます。そこには精神の世界があり、無意識の世界との深いつながりがあります。

これが自分だと思っている自分は自分の影に過ぎません。人間は絶えず変わり続けます。世の中には、変わり続ける自分というもの以外に、確かなものは何一つありません。そして変わり続けるものとは、そのもののことに他なりません。
昼間の自分というのは、いわば本来の自分の影であるということが言えます。反対の世界から見ればそうなるのです。人間は幽霊を見て実体のない訳の分からない怖いものだと思うでしょう。しかし、存在の真実性という観点から言いますと、昼間の人間こそが幽霊のような実体のない虚像であるとも言いえるのです。

 

自分自身も半世紀にわたる長い習慣において、一日の始まりは朝だということが心身にすっかりしみ込んでいるために、現在、次第に夜を中心とした生活サイクルに移行してきていることに、戸惑いや不安を覚えなくもありません。

けれども、そうした長い習慣によって身に沁みついてしまっている錯誤を振り払うためにも、今、自然に夜型中心の生活にシフトしてきている生活について、当面の間は逆らわずにそのまま過ごしてみようと考えています。

昼間の明るくて活動的な時間帯に目覚めていると、つい従来の生活習慣に従った行動パターンに従いたい欲求というものが出てきます。
しかしながら、そこには自分が望んでいた深い精神的生活というものはありません。どうしても顕在意識を主体とした活動をすることになってしまいます。

日没以降の時間帯であれば、正体不明に酔っ払っていようが、深く眠り込んでいようが、そういう正気を失った状態というものがはじめて許容されます。昼間は社会が活動する時間帯であり、そういう中で、顕在意識を眠り込ませてぼおっとしているような人が存在していては迷惑なだけの話です。

昼間の活動的な時間帯を避けて夜の非活動的な時間帯を中心とした生活を試みることは、これは一つの荒療治であると言えます。長いこと社会システムに組み込まれ、知らぬうちにシステムの部品の一部のようになってしまっているところがあるので、あえてまったく反対の生活をして、眠り込んでしまっている人間性を呼び起こす必要があるのです。それが成功するかどうかは定かではありません。けれども、社会生活によって失ったものを取り戻さなければ本当の生活ははじめられません。

平日の朝皆さんが目覚めるのは、そして目覚めてからあわただしく食事や着替えをして出かけるのは、あなたという人間がそのようにしたいと感じているからでしょうか? 多分そうではないでしょう。それは社会の部品として機械のように働くために、仕方なく機械的に行っている行動である部分が少なからずあると言わざるを得ないのではないでしょうか。

何も極端にそうした規則正しい生活を放棄する必要はないでしょう。けれども、本来の自分が目覚めるのは日没からの時間帯であることを、明確に意識することが必要です。あなたは機械ではなく、創造性を持った人間である筈です。であれば、本来の人間性を十分にまっとうするためには、そのための時間というものが必要となる筈ではないでしょうか。

若い頃には体力もあり、仕事上の責任も少ないので、本来の自分であるための時間や気力が確保できるかも知れません。しかし、何れは責任も重くなるとともに、組織のしがらみにとらわれていき、やがては自分というよりは、自分が負っている役割を機械的に無感情にこなすだけとなり、やがては自分が本当にしたいことのための時間も気力ももはや残されていないようになるかも知れません。

わたしもサラリーマンでしたので、同僚の多くが40代を過ぎた頃から、それまでは人間らしさを前面にした付き合いができていたものが、何か他のものに魂を売り飛ばしてしまい組織の奴隷として振る舞うようになる例をたくさん見てきました。
急によそよそしくなり、絶えずその場にいもしない誰かの意向を気にしてそわそわとし、自分の立場の保持に無関係な場からは足早に立ち去ろうとするのです。

社会というシステムと個人のスピリチュアルな生活はバランスしていなければなりません。個人の本来の豊かな人間性が保持されることを妨げるようなものであれば、そうした社会システムが持続的に発展していくことはとても難しいでしょう。

わたしの所属していた組織は、最早如何なる見込みもないような状況に思えました。世の中の組織という組織が全部そんな風ということはないでしょう。
けれども、一旦退いては傍から眺めていると、世の中の実に多くの人たちが、自分たちでは気づかないままに、洗脳されたロボットのように生きているのかということが、その表情や素振りを見るだけで、実によくうかがい知ることができるのです。

先月、退職の辞令を受け取りに久しぶりに職場へ赴いた時、廊下を歩いていて、職場のドアの向こうはあたかも監獄であるかのように感じられました。そして、手かせや足枷をはめられた人々がその中で働いているようにイメージされました。決して批判的な気持ちではなく、ごくニュートラルな気持ちでそのように感じられたのです。

どれほどの人が自分の持つ肩書に満足し得ているのか分かりませんけれども、肩書というのはある面では人を縛り付けている足枷であるということにもなります。それが立派であればあるほど、重くて大きい立派な枷であるとも言えるのかも知れません。

ということで、今日も取り留めのない駄文を連ねてしまいましたが、今は人間としてのリハビリ中の身ということでご容赦いただければ幸いです。

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