筑後國一之宮 高良大社 おくんち

長らく修復のため参拝のかなわなかった御拝殿も漸くお披露目となりましたね。
ずっと家に籠もりがちでしたので、今日は久しぶりに遠出をし、三ヶ月ぶりに久留米の高良大社へお参りをしてきました。
ご祭神の高良玉垂命は、記紀に神名がない神ですので、その正体については、古来より謎が多く諸説あるそうですが、中でも武内宿禰説が有力だそうです。

 

こちらが境内の末社として武内宿禰を祀る印鑰社(いんにゃくしゃ)です。印鑰とは印判と鍵を意味するそうです。
高良山の麓の宗崎にある大宮司邸内に祀られていたのを明治になってから移したもののようですが、武内宿禰の後裔が神代という姓で高良大社の大宮司を務めていたという深い関係性があります。

 

また、同じく境内の末社として、武内宿禰の甥にあたり、中臣烏賊津の子である壱岐真根子も祀られております。

壱岐真根子は、武内宿禰が殺されそうになった際に、容姿がそっくりであったことから、身代わりになって自刃されたとされている方で、壱岐直主の祖と言われており、父の中臣烏賊津の方は対馬直の祖となっていますが、こちらは香椎宮でも本殿左右に武内宿禰と対に祀られる、神功皇后の重臣中の重臣でした。

高良大神は、そもそも神功皇后が征新羅の必勝を7日7晩祈り、旧暦の9月13日に、月天使として示顕したと言われており、月神とされています。
高良山では元々高木神(高皇産霊神)が祀られていたのを、高良大神が乗っ取ってしまったということが社殿で伝えられているのですが、どちらかというと同族の中での古い勢力と新興勢力の交代といった趣なのではないかなという気がします。

まあ、この手の話はいくらでも広がって切りがありませんから止めておきましょう。

拝殿上に飾られる額も立派に塗り替えられて、黒光りして神々しいですね。

元々、近くの大善寺にある玉垂宮が本宮だったと言われ、こちらより古いらしいのですが、玉垂姫という女神だったらしいのですね。

まあ、神様の性別を論議するなんていうことは、そもそも馬鹿げた話なのでどちらでもよろしいかと存じます。
天孫以前には、きっと九州全域で月神信仰、女神信仰だったのではないでしょうか。

 

奥の院へもお参りさせていただきました。

こんな風な平坦な山道を行って千五百歩も歩けば行かれます。

ちょっと早足で歩いて、行って帰って軽く汗がにじむ程度の道のりです。

手軽に自然浴ができますし、自然も濃いのでこの道を歩くのは毎回とても楽しみです。

 

お堂の脇では有り難い霊水が湧いております。

特に奇特を経験した覚えはないですが、大変清らかな水と思います。

こちらの奥の院まで訪れる方というのも結構いらっしゃって、大抵は誰かとすれ違って挨拶を交わします。

でも、以前、この付近でレースクイーン姿の初老の男性に行き当たったときは、本当にびっくりしました。最初、えっ、こんな山中に肌もあらわな妙齢の女性が、と思ったのが、よく見るとピチピチのレースクイーンみたいな服を着て、ミニスカートからこんもりした股間をのぞかせているおじさんだったのです。今でも元気に際どい女装で山中を歩いているのかと、あの叔父さんのことがたまに思い返されます。

奥の院では毘沙門天が祀られています。寅の日には結構な人が訪れます。

今日は、いつも月に関することを書いているので、月神というものを通して月について考えてみたいと思ったのですが、ちょっと時間が遅くなってしまいました。

世界的に言っても、まずは月神信仰が先立って、その後に太陽信仰に移っていくパターンがあるのだとも聞きますが、古代人が月に対して何を祈り、どのように崇めていたのか、大変気になるところです。

そういえば海人族の別れである隼人も月神信仰であったようで、今年の正月に行った桜島の麓には月読神社がありましたね。

忘れていましたが、ページタイトルも偶然ハーベスト・ムーンにしていたと気がつきました。
まったく無意識なのですけれども、どんどん月にばかり関心が向かっているようにも思われ、大変不思議な気がします。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です