眠り込もうとする意識

人間の中には真に目醒めていたいという欲求があります。

しかし、顕在意識が認識している日常性というのは、現実を素材にして脳内で構築された虚構の現実でしかありません。

人間は時に、意識的であろうとしながら、如何にも現実的に思える思考パターンの中に眠り込みます。

社会の常識に従って学歴を得たり、勤勉に組織で働く、ということをはじめとして、信仰を待つことやその他のスピリチュアルな世界にはまり込むことも、ひとつとして例外はありません。

わたしは日課として毎日、朝晩の瞑想を行いますけれども、それも習慣化してしまえば、何と言うことの無い日常に堕してしまいます。

例えば、ある時登山を志すとしてみましょう。
はじめは近所の低山から挑戦するかも知れませんし、普段運動習慣を持たない人からすれば、それもちょっとした冒険的な経験に感じられるかも知れません。

けれども、何度か同じ山に登って入れば、それは程なく慣れ親しんだ運動の一つでしかなくなります。
もちろん自然に親しむことはとてもよいことであるし、四季の移ろいを肌で感じることは、とても健康的で楽しいことには違いありません。
ですから、ひとつのことをずっと続けることに意味はあるのだと思います。

瞑想なども、毎日決まった時間を坐っていると、ある程度の瞑想状態に辿り着くことは非常に容易になって来る筈です。
すると、それは単なる日課となり、心を一時的に鎮めることに役立つだけとなってしまいます。

人間というのは、騙しだまし段階的に進んでいくもののようです。
もし、何かをとことん追究しようとしてそればかりに囚われたとしたら、この地上で生活を継続させることに著しい困難を伴うでしょう。

人間は食事をしたり睡眠を取ったりしなければなりませんし、やはり何らかの手段でお金を得ていくことも考えなければなりません。

あまり極端に無理に物事を進めていこうとすると、結局のところすぐに破綻してしまう結果にしかならないということも事実です。

道というものの厄介さがここにあります。

あるときは非常に新鮮な気持ちで、それまでに取り組んだことのなかった新しいことに挑戦し、やがてそのことに習熟していきます。
そのことは別段何も問題はありません。

しかし、しばらくすると、どこか退屈で何かしら停滞してくるものを感じます。
その時に、自分はこれだけのことをしているのに、何がおかしいのだろう、と疑問が生じてきます。

その時は、また、次のステップへ進む段階が来たのだと悟らなければなりません。
そして、あることをクリアしたのに、それでも満足できるものがないと思うに至ったと言うことは、それはそれだけ自分が前の自分より進歩したのだと認めてあげることも大切なことのように思えます。

今日は、何だかそんなことを感じました。
決まり切った日常に安閑としている自分自身に対して、何だか無性に腹立たしく思ったのです。

若い頃読んだ時宗の開祖である一遍上人の語録に次のような道歌がありました。

「とにかくに 迷う心をしるべにて 南無阿弥陀仏と申すばかりぞ」

迷いがあるというのは、その人が目覚めようとしているからこそ生じてくるものなのかも知れません。
ただ毎日を何の考えもなく、食べて、抱いて、寝ることだけを考えていて、それで済むという人には、そもそも迷いなど訪れもしないのではないでしょうか。

人間というのは、どこでどんな暮らしを送っていようとも、結局は本質的な中身は大して何も変わらないのだということを今日はつくづく感じました。

必要とされるのは、常に前進してゆく勇気だけです。
昨日できなかったことができるようにと今日を生きること以外に、人間が有限な生の中ですべきことは見当たらないということではないかと思えます。

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