新月のサビアン(蠍座27度) 

明日の18日土曜日の20時40分頃に、蠍座27度で新月を迎えます。

こうして毎月の新月のサビアンを読むことに、どのような意味があるのか、ということなのですけれども、物事そのものはすべて本質的には中立ですので、それ自体には本来的には何の意味も含まれない、ということがまずひとつあります。

けれども、そこに一定の意味づけを行うことによって、宇宙に対して固有の意志を宣言したということになるのではないかと思います。
それは、自分の未来をその瞬間に創造しているということであるとともに、個人の未来を意図するという形で、宇宙全体の創造にも参画しているということにもなるのではないかと思います。

新月というイベントは、パーソナルな形で訪れるものではなく広く共有されているものですけれども、それに向かう一人ひとりにとっては、それはどこまでも極めてパーソナルな体験でしかありません。

物事の節目とすべきものにはグレゴリオ暦の1日をはじめとして、様々なものがある訳ですけれども、その中で新月を基準とする約一ヶ月間を意識してみるということには、どういう意味を持たせることができるのでしょうか。

新月というのは、太陽と月が陰と陽のペアであり、その二つが和合する時であると考えられます。顕在意識で生きている部分と潜在意識で生きている部分の、お互いの歩み寄りやバランスの調整ということが必要となります。

もし、新月の陰陽和合する時に、顕在意識側の働きが圧倒的なのであれば、潜在意識的な自己が、顕在意識的な自己によってレイプされる、というようなことが心理的に起きている可能性があります。

また反対に、潜在意識的な部分だけがあり、顕在意識的な部分がしゃんとしていないような状態であれば、そこでは和合そのものが成り立たず、何も受精されるものはない、ということになるだろうと思われます。

自分の持っている潜在的可能性というものを無視して自己実現を図ろうとすることは極めて無謀であるとともに、潜在的な可能性を放置して何も志すことがないということは、堕落的で退廃的なあり方である、ということになるのではないかと思います。

また、新月が個人にとって極めてパーソナルな体験であるといっても、新月という事象自体はパーソナルなものではない、ということを意識することは、この世に起こるすべての現象が、他者との無意識的な共同作業によってはじめて成り立っていることを認識することに通じていくのではないか、と思われます。

誰かが得をするためには一方で誰かが損をしていなければならない、というようなことは、例えば金融の世界などではゼロサムゲーム(儲ける人がいる一方で必ず損をする人がいて、その総和は常に0となるということ。)などといって明確に起こることだと言えると思いますが、何が言いたいかと言えば、ある個人が経験する体験には、意識されようといまいと、必ず多くの他者が関与している、ということが忘れられてはならないのだろうということです。

新月という、非パーソナルなイベントを、極めてパーソナルな形で体験するにしても、そこから産み出されてくる事象は、あくまでも他者との共同作業の結果として生まれてくるものである、そのようなことが意識されていることが非常に大切なのではないかと思われます。

この新月のタイミングに同時に天に向かって放たれた想いというものは、見えない世界で様々な人の想いと複雑に絡み合って、やがて共時的な体験を引き起こす可能性を持っているのではないだとうか、ということが考えられます。

さて、蠍座27度のサビアンを自分流に読んでみたいと思います。

(SCORPIO 27 °): A MILITARY BAND MARCHES NOISILY ON THROUGH THE CITY STREETS.
(私訳):軍楽隊が騒々しく街路を行進している。

この度数の解釈は非常に難しいと感じます。自分の感覚としては、示されているものと正反対のものを感じます。
蠍座は8室が定位置で8という数字との関連があるということとともに、支配星である冥王星との強い関連性を持っています。これらは圧縮と爆発、破壊と再生という非常に極端な二面性を持っています。

そして、これらの二面性が、一般的には等価的に語られることが多いと感じます。
けれども、個人的には蠍座というのは、爆発的な要素を含んでいるとはいっても、基本的にはどこまでも内に入り込んでため込んでいくような部分の方が、圧倒的にサインの固有の性質を占めているように感じられます。
爆発や破壊という側面は、閾値を超えた場合の表現手段であるけれども、それはあくまでも物理的な限界性というものに即して自動的・不可避的に起きてくる現象に過ぎず、サインの特性の一つであるといっても、サインの性向の中にそうした働きが内在している訳ではない、というように感じています。

軍楽隊が通りを騒々しく練り歩くというのは、一見、ため込んでいたエネルギーの爆発的表現といった側面のもののように感じ取られますが、今のところ自分は、それとまったく正反対のイメージを抱いています。
表通りの喧噪によってかえって、自室にいて深く自分の中に閉じこもる自分がいる、というようなイメージを感じます。ここぞとばかりため込み、引きこもりの方向へ向かう方が、自分の持つサインのイメージには近いということです。

ため込む性質を持っている以上は、どこかで感情を解放する段階というのはなければならないのですけれども、少なくとも、軍楽隊が騒がしくパレードをするという27度から受けるイメージのものとは自分には違って感じられます。
ただし、ここでイメージされている軍楽隊というのが、非常に威圧的な雰囲気を持ったものだとすると、自分の解釈の方が違っている可能性があると思います。

また、正反する度数である牡牛座の27度では、(TAURUS 27 °): AN OLD INDIAN WOMAN SELLING THE ARTIFACTS OF HER TRIBE TO PASSERS-BY.(通行人に部族の工芸品を売っているインディアンの老女。)というイメージが示されていて、こちらも解釈が難しいと感じます。

自分としては、無言で自分の価値感を臆面もなく人に押しつけることができるようなイメージを感じています。正反する度数が裏表と考えれば、蠍座の方では反対に騒々しく世間に対して訴えているのだ、と解釈することも出来そうです。

けれども、今の時点ではそのようには感じられず、自分というものの価値をどこまでも自分の内深くに求めようとする姿勢を蠍座の27度には感じてしまうのです。

と言うことで、今回はまだ検討途上の解釈に留まることになりました。

何れにしても価値感というのは人それぞれであり、一定の共有はできても、それをまったく普遍的なものとすることは不可能なことです。
一年の節目についても、自分は冬至にもっとも重点をおきたいと感じますけれども、人によってはそれが春分点や夏至であったりするでしょう。
最も尊ぶタイミングが冬至である人と夏至の人、あるいはグレゴリオ歴の一月一日である人とでは、その価値感が反転したり異なっているのだということになります。
ですから、ある人には陰が陽として、陽が陰として感じられるというようなことは、普通にあることなのだと考えられます。

周りの人がどうであろうと、あくまでも自分の価値感に固執して考えようという自分のこの精神態度は、明日の新月のサビアンシンボルのイメージと実に近いですね。期せずしてそうなりましたが、非常に面白いことではないかと思います。

ということで、自分にとっては、明日からの一ヶ月間は、世間がどう言おうと、自分の価値感に拘り抜いてみる、ということを課題にしてみたいと思います。

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