木星回帰と進行新月 迷わない素直な人だけが幸運を得る

今日、用事で人と会ったのですけれども、以前お会いした際に誕生日を聞いており、木星回帰と進行新月が近いことに気がついていましたので、それぞれの配置の説明をした上で、最近新たに何か始めようと思ったり感じたりしていることがあるのではないか、と伺ってみました。

実は、職場などでもまだ誰にも話をしていないのだけれども、ということで少々話を渋りながら、実はこの秋に入籍を済ませて、春くらいからは一緒に住むことになっているのだ、というお話でした。

このようにホロスコープ上で大きなイベントが重ねて示されるような時期には、生涯の中でもかなり大きな目立つイベントが実際に起きることが普通と考えられますので、突っ込んで伺ってみたところ、やはりそのようなことだった、ということでありました。

先週、職場でお会いした際に、特に注意していたわけではないのですけれども、23歳という年齢の割に、ヒップとバストの辺りのラインが強く丸みを帯びている印象があり(故意にそういう目線で見たわけでは決してありませんので念のため)、何となく違和感を憶え、この人は結婚が近いだろうというように感じていたのですが、女性は新婚の時期などのホルモンバランスの大きな変化が、誰の目にも明らかになるレベルで独特の雰囲気の変化として現れることが多いので、それに近い雰囲気を感じ取ったものだろうと思います。

単なる恋愛関係に過ぎない時には、営みが多くてもそのような大きな変化は出ないことが通常であると考えられますので、恐らくは子どもを作るという本気度や、相手との心理的な結合度合いに格段の差があることから、そうした差違が出てくるものではないか、と感じられます。

その人の人生は比較的守られていて概ね幸運の星のもとに生まれているな、と感じられるような方の場合は、ホロスコープ上のイベントと実人生上のイベントが、誤差なく綺麗に出てくるような印象を強く感じます。

そうでない人というのは、性質に素直さに欠けるようなところがあり、やたらに運命的な出会いを求めたり、天職などを求めすぎる結果、視野が極めて自己中心的で狭くなり、現実にフィルターをかけて物事を見てしまうので、実際に縁に恵まれた場合にも、そのことに気づかずに運を逃す結果となってしまうことが多いようだ、というように感じます。

人生というのは、目前の物事に対して、如何に誠実に対処するかという心掛けだけに徹していれば、結果的にはすべてが順調に推移するものであり、目の前のことを疎かにし、心の焦点を今から離して乱してしまい、あれやこれやの願望や妄想を思い描こうとすることで、エネルギーのすべてが無駄に費やされるとともに、只今の現実を創造する方向には一向に力が働かない、ということになってしまいます。

願いや祈りというものは、見当違いな方向に発してしまうと、かえって人生を混乱させ、破綻させるような方向にしか作用しないものだという法則性が絶対的なものとしてあるにも関わらず、そうしたことを度外視したような開運法が昨今は巷に溢れていることは、大いに問題であると言えるだろうと思います。
そうした不自然でゆがんだ精神的エネルギーによって、神社や聖域などが汚染されてしまうことの被害というのも決して小さいものではないかも知れません。
もっとも、神社自らが率先して縁結びなどの商法を大っぴらに展開しているケースも多いので困ったもので、実際に神域がすっかり汚され切ってしまうケースもあると感じています。

けれども、端から見ていても幸運に思えるような人というのは、そのような願望などをあらためて持つまでもなく、徒に迷ったり不平を言ったりもせず、その時々の目前の事柄に対して自分で最善と思える道だけにコツコツと心乱さずに努力を怠らない結果として、運命の用意した幸運を、適切な時期に自然な形で受け取っているということが言えると思います。

また、そうしたこととは別に、運命通りの幸運を返上して、更に高い目標を志して生きる、という道もまたあるものです。
人間というのは本来的には、ホロスコープで示されるものを超えて、自らの真の主体性を発揮して生きるような生き方が本道ではないか、と考えられます。
ホロスコープを超えて生きる、というのは、天与の使命を超えた、更なる高い志を持って意識的に生きるということであり、そうした際にこそ、人間の真の本来性というものは発揮されるものであろうと考えられます。

しかしながら、現在の地球上の人類の標準的なレベルでは、ホロスコープどおりの幸運を得る人すらがである、というのが現状であるようであるということになるでしょうか。

禅語録「無門関」の中に、百丈禅師の言葉として「不昧因果(ふまいいんが)」というものがあります。
これは、因果をくらまさない、という意味で、悟ったからといって、世の中の当たり前の法則を度外ししてよい訳ではなく、むしろより誠意を持って因果というものに忠実に生きるべきである、ということであり、実際の生活上においてはこの世の法則に忠実に則ってこそ、そこに禅的境地が「用」即ち「働き」として活かされるのだ、ということを殊更示されたものではないかと感じます。

同様に、ホロスコープを超えて生きる生き方というのは、ホロスコープ上の運命に対して受動的に生きるのではなく、主体性を持ってホロスコープを意識的に使って生きる立場に立つ、ということであり、ホロスコープを超える生き方というものが、ホロスコープに示される宇宙の法則性から離れて生きるということを意味するのではなく、かえってよりその法則性に即した形で、積極的に活用を図ることで、人間の持つ本来的な力を普通程度以上に発揮することを志す、ということになります。

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