冬至の風景 志賀島より再誕した太陽を拝む

冬至が来て宇宙の新年を迎えました。明けましておめでとうございます。

今日は冬至の瞬間から数時間後の、新生した初日の出を拝みに、志賀島の汐見公園展望台へ行ってきました。
あいにくと太陽そのものは拝めませんでしたが、陰の極まりが底をついて、いよいよ生じた新たなる陽の兆しの中に、宇宙とつながる霊的エネルギーが胎動しはじめたのを感じ取ることができました。

 

朝靄の中、福岡平野がとても綺麗に初日によって照らし出されています。
要するに、街の方にいればちゃんと初日が拝めたっていうことですね(^^;)
けれども、人気のないこういう場所でこそ、冬至を迎えた地球の厳かな雰囲気にゆったり浸ることもできるというものです。

 

麓へ降りて、志賀海神社を早朝参拝しました。

ご祭神の綿津見大神は、伊弉諾尊のみそぎ祓いの後に、一番最初に生まれた非常に尊い清浄な神様ですから、冬至直後の初詣にはうってつけの神様であったに違いありません。

 

 

 

 

楼門前の左手にある山之神社には、大山津見神が祀られています。
志賀海神社に今も残っている珍しい古式神事には、「山ほめ祭」や「歩射祭」をはじめとして、1万本以上の鹿の角を納めた鹿角堂など、山の神や狩猟に関係すると思われるものが多くあります。

通常は、鹿の骨が釣り針になるからとか、やたらに海と関連づけようとする説明が多いようですけれども、日本の学者の海人族に対する理解は、非常に視野が狭く、まったくその全容を理解していないと考えられます。

海人族が海人族たるためには、まず、船の材料となる木を得るための植林技術が必要となります。植林技術は山を守りつつ、そこで狩猟も行ったりと、山で生きる生活の知恵や技術の獲得と通じています。
続いて、船材の木を山から切り出して運び、船として加工するためには、鉄器文明も発達していなければなりません。

つまりは、海人族の成立要件として、必ず山と鉄が必要となるのだということであり、山の神なくして海の神は存在しないのです。

山の神であり鉄器文明を持っていたのは素戔嗚尊とその子ども達であり、海人族というのは、実はその一番の根底では山の神である素戔嗚尊を信仰していたであろうと考えています。

安曇族が何故に信州の山奥に集団移住することができたのか、ということの理由も、安曇族は海人族である以前に、山の民として生きる術をすべて有していたからに他ならないだろうと考えられます。

日本列島に植林技術と製鉄技術をもたらしたのは、素戔嗚尊の息子である五十猛命です。五十猛は筑紫の国号の由来となった筑紫神社の祭神でもあります。

五十猛命は木の種をどこかから持ってきて、まずは九州に植え、それから全国に蒔きました。そして、何故か新羅にはまったく木を植えようとしませんでした。

その時代はおそらく弥生時代と考えられますけれども、当時の日本列島の気候はまだ温暖であり、大きな船を作るのに必要な適当な樹種が少なかったため、大陸のもう少し寒冷であった地域の木の種を持ってきて日本列島で植えたのではないかと考えられます。

そして、倭人の国である新羅に木を植えなかったのは、植林させると船を作って船団を組み、本国である日本に対して脅威となる可能性が高かったから意図的にそのようにしたのだと考えられます。

志賀海神社は、元々は表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮の形としてありました。

左は中津宮であった勝馬宮ですけれども、ここは7世紀前半の竪穴式石室を持った古墳であり、実際に複数の遺体が埋葬されていました。

このことが示しているのは、海神三神というのは、実在した種族や首長とオーバーラップした存在であった筈である、ということです。

こちらは沖津宮ですけれども、こちらも見るからに古墳的な形をしており、おそらく中津宮同様に古墳であるのではないでしょうか。

 

 

 

志賀海神社の境内にある遙拝所から遙拝する対象となっている大嶽神社と小嶽神社というのが、島の手前近くにあります。
「嶽」という字がつく場所は、基本的に古代のお墓があることを示すことが多いと考えています。
沖縄の「御嶽(うたき)」も本土の「○○嶽」も、本質的には何も変わらない先祖崇拝を兼ね合わせた神籬に他ならないということです。

大嶽神社と小嶽神社は、それぞれ安曇族の大浜宿禰と小浜宿禰を祀る神社ですが、この付近で言いますと宮地嶽神社にはやはり「嶽」がつき、そして、国内でも最大級の筑紫大君の古墳がありますので、やはりここの二つも古墳である可能性が非常に高いと感じます。

ここ小岳は九州で最も標高の低い山(21m)と言われているようですが、写真の小嶽神社の左手にありますのは、やはり考えていたようにどう見ても古墳と思われる地形と感じられます。

実は、今朝ここへ足を運んだのは、ここが古墳である証拠を確認したかったからなのです。

神社の反対側の山の麓を散策しますと、案の定、2カ所の穴がぽっかりと空いていました。どちらも、人が立てるほどの高さで奥の方まで広い空間が確認することができます。正しくこういう状況を確認するために行ったのでラッキーでした。

しかし、ネットでは一切ここと大嶽が古墳に関係しているかのような情報が得られないのです。
二つの穴も、偶然ぽっかり口が開いたのを、そのまま何もしないで放置しているような状態のように見えます。
即席的にテープが張られているだけのところを見ますと、ごく最近に口を開けたものということでしょうか。

大嶽にしろ小嶽にしろ、調査をすれば場合によっては金印級のものが出てきてもまったくおかしくないように感じられます。
今度、どこかに尋ねてみないといけませんね。

 

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