客観から主観への流れ ~風の時代のガイドライン~

はじめに

今年はコロナ禍に始まって金融市場の混乱と経済の低迷、中国の軍事的脅威の逼迫、水害、猛暑、そして記録的な台風となることが予想される台風10号の襲来など、本当に息つく暇もなく記録を塗り替えるレベルの災害に次々と見舞われています

過去の歴史を紐解けば、歴史において偶然という言葉は見当たらず、世の中に起きてくる事象というのは、必ず社会の変質や文化の進歩向上などと密接な相関性を持っているものだと言うことができるのではないでしょうか

社会がより良く変質したり、文化面での進歩向上をするために、必ずしも災害が起きる必然性というのはないものだと考えますけれども、ミクロコスモスとしての我々地球上の人類とマクロコスモスである宇宙との間に、発展過程上の乖離が生じてきてそれが次第に大きくなりますと、どうしてもその間隙を埋め合わせるためのショックが必要となってくるのだと感じられます

我々が活用しているホロスコープと言いますのは、ミクロコスモスである我々人類とマクロコスモスである天体との照応関係を観察するためのツールであると考えることができるでしょう

ホロスコープ上に示される様々な徴(しるし)というのは、本来的にはすべて中立的な意味合いしか持たない筈のものでありますけれども、人間がマクロコスモスに対して向き合う姿勢の如何によって、それは否定的意味合いを帯びたり肯定的意味合いを帯びたりしてくるものだと感じられます

これまでの人類のマクロコスモスに対する向き合い方には、基本的に間違っているところが多く、宇宙の発展進度と地球人類のそれに乖離が生じ勝ちであるために、本来はニュートラルであるべき出来事が、我々人類に遅れを取り戻させるようにと災害という形で刺激が与えられることになるのではないでしょうか

災害が多く生じる時期というのは、人類の在り方がマクロコスモス的視点から見て、その方向性の誤りが大きくなり、軌道を是正する必要性が顕在化してきた時期であるということが言えるでしょう

しかしながら人類の軌道が是正されればそれに従って、今度は僥倖もまた降り注ぎ得る筈であることも忘れてはなりません

客観と主観

科学が発達する以前の人類というのは、主観的迷妄に生きていたと考えることができ、身の回りに生じるすべてのことが、目に見えない様々なもの、天の意志や神の御業によるものとして感じられていました

そのうちの幾分かはまったく真実であったでしょうけれども、残りのほとんどは単なる迷信に過ぎなかった、と現在からは言うことができるでしょう

今では科学的な考え方が発達するとともに社会に浸透し、物事のすべてを物理的・化学的に検証可能な因果関係の中で客観的かつ合理的に把握できるようになり、その結果として人類は迷信的な主観的世界から脱却することができました

けれどもその一方で、今度は科学的迷妄にひどく陥ることになったのではないか、とわたしは考えます

風の時代における変革には、この著しく客観性に偏った科学主義的、物質主義的な考え方が、再び主観的な世界観へと戻っていく過程が含まれているのではないか、と感じられます

今から200年近く前の時代を生きていた哲学者のニーチェは、科学的合理精神に基づいて「神は死んだ」と叫びました

それは神話や宗教という虚構の世界に捕らわれていた人々が合理的精神に目覚める時代の到来を告げたものでした

と言いましても、それは主として西洋の話であり、この日本においては必ずしも明確な形で合理的精神に目覚めたという訳ではなく、むしろ明治維新の王政復古は神代以来の惟神の道の伝統に立ち返ることでした

日本というのは非常に特殊な国ですし、この200年間の地球において主立った国のひとつではあったものの、主導的な国であったという訳ではありませんので、ひとまず日本のことは脇に置いておきたいと思います

これから迎える風の時代においては、新しい時代のニーチェによって「神は再び復活した」と告げられるのでなければならない、というようにわたしには感じられます

ですから、ある意味ではルネサンス的な時代が来るのだとも言えるのかも知れませんけれども、以前の中世から近世への移行期に際してのルネサンスとは、質的には随分異なるものとなるのでしょう

地動説と天動説

客観と主観というものについて、別の形での表現を試みようとしますと、地動説と天動説というものが思い当たります

地動説は科学的な方法で確かめられる客観的な世界における真実の姿であると考えられます

一方で天動説というのは、主に宗教によってもたらされていた客観性を持たない主観的な世界観に過ぎないとうことが現代では常識と考えられています

しかし、わたしの中では客観的な事実などよりも、むしろ主観的世界観によって、我々の人生というものははるかに大きく左右されている、と感じられます

科学的・客観的な見方がスタンダードである現在の世の中におきまして、人生を生きるに際して情報やデータなどの客観的なソースを頼りとしようとする場合と、主観的直観に頼ったりあるいはおみくじや占いなどの非客観的で非合理的な方法に頼ることのどちらのケースが多く、またどちらの方がより実質的に信頼されていると感じられるでしょうか

わたしの個人的印象で言えば、与えられるものが客観的であろうとそうでなかろうと、自らの主観に取り込まれないものが人生の創造の側面で有効に機能することはほとんどない、と感じられます

生きるということはどこまで行っても主観的な世界で展開されることであり、もしそうでなければデータに従って動いているだけのロボットも人間同様に生きているということになってしまうでしょう

人間の価値観とういうのは客観的なデータを利用しながらも、あくまでも主観的創造性によって生み出されるものではないでしょうか

客観的に再現され得るものに対して人は芸術性や創造性というものを感じることはなく、客観視され得るものとは既に生命を失った過去の残骸に過ぎません

命というのは極めて主観的なものであり、客観的なものの中には生命を感じさせるものは存在しない、ということです

わたしは決して科学的・客観的な世界観が無意味であるとか価値がないというようなつもりはありませんけれども、科学的な客観性というものが確保されるためには、あらゆる個性的な要素というものが排除される経過を辿ります

何故なら科学は再現性というものを重要視するからであり、そのために人間は多様的・個性的な存在としてではなく、均質な機械としてみなされ勝ちである、ということになるのではないでしょうか

医学におきましても、人間に起こる病気というものは、ある意味ではその人の持つ個性がネガティブな形で発現したものである訳ですけれども、治療法の検討においては人間の持つ多様性をむしろノイズとして排除して極力均質に均してしまい、万人に同様に効くような処方の確立が目指されているのではないでしょうか

そのようにしなければ産業としての医療や製薬は成り立たないということがありますけれども、こうした態度は人間をもっぱら機械論的な立場から見て、物理的・化学的に生じる現象にだけ関心が向けられていて、肝心の人間性というものは阻害されてしまっていると感じられます

ロシアの文豪トルストイは「アンナ・カレーニナ」の冒頭において、「幸福な家庭はどこも似通っているが、不幸な家庭はそれぞれの形で不幸である」と書いていますけれども、これは不幸というものが、幸福の場合とは反対に、非常に個性的な形で発現するということを象徴的に物語っているものです

ですから同様に次のようにも言われなけれなければならないと感じます

健康な人というのは誰しも似通っているが、不健康な人間というのは様々な形において不健康である」

最近の医学は、特に精神科において言えることですけれども、従来では単なる個性としてみなされていたにすぎないものに対して次々と名称を与えることで、自分たちの顧客をたくさん作りだしてはいないでしょうか?

病気の周辺にある様々な個性的な在り方に対してまで一々病名を付すことでそれを疾病化してしまっていることは、将来的に非常に大きな社会問題を引き起こしかねないと危惧されるところです

少々話が逸れました

人間には自我という中心があり、自分自身を中心として世界を見ており、それは天動説的なものの見方であるわけですけれども、もし、人間が地動説的に生きるとなりますと、科学的に導き出された正しいデータに従順に従い、あたかも機械のように生きなければならなくなるでしょう

機械が人間を支配するという未来像を真に受ける方が世の中に多くいらっしゃるということは、人間というのは五感を超えた超感覚的な世界に生きる実体としての霊的存在でもあるのだという真理からはるかに遠ざかり、科学的迷妄の世界に汚染され切ってしまっている現代人の姿というものをそこに見出されなければなりません

ジオセントリックとヘリオセントリック

たとえば我々が使うホロスコープ一つを取り上げてみましても、通常は地球を中心としたジオセントリックという方法が用いられ、これは天動説的な考え方に基づいたものであると考えられます

人間というのは自我という中心を持ち、天動説的に生きているので、このジオセントリック的な見方でミクロコスモスとマクロコスモスとの相関を観ることによって、我々は正しい有益な指針を得ることができます

一方で太陽を中心としてみる地動説的なヘリオセントリックという手法も占星術には存在します

何らかの意味においてヘリオセントリックを用いた占術が何かの役に立つ可能性というものを否定する積りというのはまったくないのですけれども、我々が通常生きていく上においてはほとんど役に立たないだろうというのが私の個人的見解です

何故なら我々は基本的に主観的世界に生きていると感じられるからであり、主観を排した客観的世界というものは、物理的・化学的に検証できる物質的世界においてしか意味をなさないものに過ぎないからです

我々は本質的部分においては時間や空間を超越した世界に生きる永遠の存在であり、自らの主観的価値観の中においてのみ、そのことが確認できるのではないでしょうか

占星術に関する言及が少なからずある、眠れる預言者として知られるエドガー・ケイシーもそのリーディングの中におきまして、「占星術で使用されるべき正しいシステムは、ジオセントリックとヘリオセントリックのどちらか」との質問に対して、「ペルシャ方式、もしくはジオセントリックの方がより正しいものである」と答えています

Q-What is the correct system to use in astrology — the heliocentric or geocentric system? A-The Persian — or the geocentric — is the nearer correct. 933-3 (The Edgar Cayce companion a comprehensive treatise of the Edgar Cayce readings より)

最後に

今日はまた新しい角度から風の時代に向けた変革の質的な部分について考えてみました

皆さんの人生において、客観的な地動説的世界観と主観的な天動説のどちらがより正しい世界観として認識できるかについて、今一度考えを深められてみてはいかがかと思います

我々は如何に多くの客観的事実を突きつけられたとしても、それだけをもって自分自身の本質的価値を推し量るようなことはしないでしょう

人種や性別や容姿、年収、肩書などの外在的価値によって、その人の持つ本質部分の価値が見定められる筈がなく、外在的価値というのは時代や地域によって基準が異なってくる極めて相対的な価値観に過ぎません

第一人間はそれぞれが実に様々なハンデを背負って生まれてくるものであり、競争のスタートラインというのが生まれた環境によって著しく違ってくるので、外在的価値観によって人の価値を推し量るということは、まったく公平さを欠いたことと考えなければならないでしょう

しかし、科学主義的・物質主義的な客観的世界観から脱却して精神主義的、主観的世界観に立ち戻るということが、以前の主観的迷妄の世界に立ち戻るということになってはならないのであり、科学主義的な客観性というものが十分に尊重された上で、個々の主観的世界が見直されなければならないのだ、ということになります

このテーマは哲学的に深いテーマに直結するものなので、あまり上手く説明できずに申し訳ありませんけれども、風の時代の思想や哲学というのは、おそらくそうした内容をテーマとして発展していくことになるのではないでしょうか

現在の客観的事実を偏重する世界から、再び主観的事実、すなわち心理的・精神的に感得できる事実を尊重する世界に至るためには、やはり次元上昇的な一種の覚醒を経ることが必要となるのではないか、と感じられるところです

以上、分かりづらい説明であったかも知れませんけれども、ご参考になりましたら幸いです

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