睡眠時間と理性心との相関関係
年齢を重ねるにつれて睡眠時間が短くなる、ということが一般的に言われています。
かく申しますわたし自身も、おそらく40代後半以降では、6時間以上の睡眠をとることはほとんどなかったように思います。
年齢が進んだ際に身体の不調がなかなか回復し辛くなりますのは、この睡眠という心身回復のための貴重な時間を充分に確保できなくなる、ということが深く関わっているように自分には感じられていました。
実を言いますと、この4、5年の間に、このままいけば大きな病変につながるのではないかという感じのする違和感をずっと胃腸に憶えていました。
検診などで引っかかるようなことは一度もありませんでしたので、あくまでも未病の状態ではあると思われますものの、数年にわたって違和感を身体に憶え、それが一向に解消される気配がないことは、非常に気になっていましたし、仕事をそのまま続けると、きっとそのうち大病に至る結果を迎えるだろうことは、ある程度確実なことのように感じられていました。
本来、身体に備わっている筈の自然良能作用によるバランス修復機能が、このようにうまく機能しなくなることは、一般的には老化の一言によって片付けられているようです。
しかし、個人的には、主に以下のようなことが関係していると感じています。
まず、第一には社会適応の結果、理性心が発達するとともに、物質や肉体を本位とする本能心と感情心というものが、理性心が優位機能となった結果として、抑圧されがちになってしまうことである、というように感じています。
また、この理性心が優位的に機能する状態が、心や身体が休むための休息時間を充分に取ることを妨げるような結果を招くことが、年齢とともに睡眠時間が思うようにとれなくなり、肉体や感情が持っている自然良能作用の十分な発揮を妨げる結果、様々な病変が次第に増長していくものではないか、と考えています。
理性心というのは、目前の出来事への対処ということにその力が発揮されている間はいいのですけれども、非常に神経質で過剰な反応というものを常に取るのがこの精神機能の特徴的なところではないかと思います。
よく、おちおち寝ていられないという表現がありますけれども、理性心というのは、警戒する心であると言ってもいいでしょうし、絶えず一定の精神的な緊張を持続させようとする働きを持っていますので、この理性心が他の機能より優位的に機能することが恒常化してしまうと、やはり良質の睡眠を多く摂取する、という状況に対しては、非常に抵抗的な力が常に働いてしまう、ということになろうかと思われます。
現代人において、このように神経過敏な状態が蔓延ってしまうことの環境要因としては、電子機器の多用ということがよく言われます。
確かに、電子機器類の多用は、人間の神経機能に多大な負荷を掛けて摩耗させている、ということが言えるでしょう。けれども、それはあくまでも二義的な環境要因に過ぎず、必ずしも主要因とは言えないのではないか、というように感じられます。
そもそも、電子機器類の多用は、業務上の範囲を超えたプライベートな娯楽の世界においても見られるものですので、そうしたものを求める心が何故生じてくるのか、というところを考えなければなりません。
現実の世界というのは、何をするにおいても、他者との関わりが必須の世界です。そして、この他者というのは、自己を中心とした物事の遂行に対して、常に不確定的要素をもたらすブラックボックスとなります。
そういう世界は非常にストレスが多いので、仮想世界において実際の自分の身の安全が保障された中で物事の成否を、なるべく予測可能な範囲の中で経験したい、という方向にどうしても気持ちが流れていくのではないか、と感じられます。
世の中が過度に競争的であり、効率的かつ効果的に成果を出さなければならないとの強迫観念というものに、現代社会が満ちていること、そして、そうした環境に適応をしようとする中で、プロセスよりも結果だけを重んじ、大局的な全体の利益よりも、身近な目先の功利心の満足にばかり気持ちが向かうようになります。
そのように現代社会というのは、極めて理性心に偏り、緊張が持続するとともに、絶えず浅薄な小さな出来事の成否にばかり捕らわれてしまう、非常に卑小な精神状態を産み出します。
キレやすい人間が増えたことや、昨今話題となった自動車運転時の煽りなどについても、こうした精神的土壌の中で、非常に人間の視野が狭められた結果として生じてくるものではないかと思われます。
そもそもがこの世の中自体が、個々の人間の脳内で理解された形で虚構的に構成されたバーチャルな世界に過ぎない訳ですけれども、現代人はそうした虚構世界の中で、マスコミの作り出した偏向した価値観によるバーチャルな世界に加え、更には電子ゲームなどの人為的虚構の世界へという形で、2重3重の形でどんどんより狭小な虚構世界にのめり込んでいくという、極めて奇っ怪な精神状況にあります。
そのようにより狭小な世界を求める心理としては、狭小の世界においてはそれだけ不確定要素を排除でき、自らの予測の範囲で物事が動くため、そのことに安心を憶えたい、というものであろうかと思われます。
そのような安全な虚構世界に閉じこもっている精神性が現実世界において、自己中心的に構築されている自己内部の虚構世界との乖離を味わうと、大きなストレスが生じるので、その結果としてキレる、ということが生じやすくなるのだろうと思われます。
わたしは3ヶ月前に社会をリタイアしました。当初はこれからの経済活動のことを考えなければならないという意識の他に、毎日、何かしら社会的に見て価値のある何かをしなければならない、という意識がありました。
そういう意識があると、やはり何かしなければ、という気持ちがあるので、どうしても規則正しい生活をして、社会的に考えて何らかの意味で価値があると思われるようなことをしなければと、つい考えてしまうものです。
けれども、食べることを最優先に生きるのであれば、これまでの生活環境を継続していた方が絶対に有利であるに決まっているので、是が非でも自分が心から望むことが見えてくるまでは何もするまい、というような気持ちがありました。
3ヶ月くらい経ちますと、社会的に何らかの意味で価値のあること、というものに対する関心はほとんど消失しました。かわりに、専ら自分のしたいことだけをして過ごすのが当たり前になってきました。
特に、睡眠などは毎日10時間以上とっているのですが、50も過ぎてから、再び若い頃のように心地よく惰眠が貪れるような心境に至り得たことは、想定外の驚きといっていいものでした。
この睡眠は、おそらくこの数年間に感じていた身体の異変の解消のために必要なものと感じています。何故なら、眠り始めると身体が発熱することが多く、自然良能作用が活発化しているように思えることが多くあります。
毎日それだけの睡眠をとれる、ということは、理性心による統制が緩み、感情機能や本能機能が解放されてきていることの直接的な証拠であるように思え、心身にも若返りが感じられるような節も見え始めています。
と言いましても、現在の生活が本当に自分の人生にプラスに作用しているか否かの見極めには、向こう数年間の経過を見なければ何も確かなことは言えないでしょう。
人間が生き方を大きく変える場合には、人間の身体や精神機構の諸バランスの組み替えが起こることは当然のことと考えられます。
また、そのフォーメーション・チェンジのためには一定の時間も掛かろうし、相応のエネルギーの消費も必要となるだろうと考えられます。
これまでは、社会の枠組みの中で、本能や感情機能が抑圧される程に、理性心を中心とした生活を送ってきた訳ですけれども、今はそのバランスを本来的な形に戻している訳ですので、若い頃の自分に近づいているような感覚は当然出てくるものだろうと感じられます。
ただ、若い頃には理性心の発達はなかったので、自分の本能や感情のコントロールというのは、今と比較すればまったく上手には出来ていなかったと考えられます。
若いうちは白昼夢や妄想などに非常に多くのエネルギーを無駄に費やすものだと思いますけれども、そういう意味では長い社会生活によって理性心が発達した結果として、本能や感情を制御するような精神的機能が大いに発達を遂げたと言えることができるでしょう。
東洋の深い叡智では、人間をよく4つの異なった機能の統合として捉えると聞きます。
馬車=身体、馬=感情、御者=理性、主人=霊性心、ということになります。
これらのものは一体的に機能しなければなりませんし、それぞれの機能が十全であると共に、それぞれの機能同士の連携も完全でなければなりません。
現代社会における一般的な人間は、御者が主人の命令など耳に入らずに闇雲に馬に鞭をふるって、あらぬ困難な荒れ果てた道を猛進している、というような具合なのではないでしょうか。
霊性心というものに根ざして、理性と感情と肉体というものを、適切に御していく生き方というものに立ち返らなければなりません。
今のわたしの現状で言えば、しばらく馬車を休めて、車体の痛んだところをメンテナンスし、馬に休息と安らぎを与え、御者の頭を冷やさせるとともに、正しい道のりを勉強させている、というような状況であるかも知れません。