月の満ち欠け

月の満ち欠けには、どのような意味があるのでしょうか。

新月のサビアンなどについて毎月書いたりしていますけれども、新月は太陽によって月が受精する時として捉えられています。また、その後の満月では受精したものが成就されるとされています。

わたしの場合は、満月の時には受精したものが出産されると考えています。そもそも成就というのは願いが叶うという意味で願望と対になっている言葉ですが、月のサイクルを個人的な願望に結びつける風潮にはあまり同調する気になれないということもありますが、月は満月で出産した時点から、満月で迎えた度数において、母としての自分の時間を生き始めるのではないかという気がしています。

プログレスでは、進行の太陽と月が30年のサイクルで満ち欠けをします。受精時のサビアン度数が30年というサイクルの間支配的であるということは、個人的には感覚として馴染めない感じがするのです。そのため、満月時のサビアンから月は、太陽に束縛されない自分自身の時間を過ごしながら、同時に次の受胎の準備を進めるのではないかと感じています。
そのことは、過去の進行の新月と満月の度数を詳しく検証することで見えてくる可能性があるだろうと思います。

月の周期が女性の生理や妊娠・出産に密接に関係していることは周知のことですが、生理のはじまった日から数える妊娠期間は280日とされています。しかし、受精を起点とした実際の妊娠期間は大体266日とされています。

すなわち、月の周期が9回で252日(28日×9月=252日)、そして266日までの残りの14日というのは、新月が満月になるために必要な期間に相当しています。不思議なことに同様の観点からこの実際の妊娠期間と月の満ち欠けとの関係に言及した意見というのは見たことがありません。

このことから、新月で受精して満月で出産するという流れは、人間にとっても非常に原初的で本来的な在り方であった筈ではないかと思いますが、これは宇宙的原理としてそうなっており、それを純粋な形で受けた場合にだけ、実際の妊娠出産もその通りになるだろうということです。
しかし、霊的・心理的に見れば宇宙的原理はより純粋な形で反映されることになるでしょう。けれども、個人的な願望をそこにリンクさせていくことは、多くの場合は、宇宙の法則を乱して物事の消長を妨げて混乱させるように働くだろうように思えるのです。

宇宙的な物事の流れに合わせていくということが、本来のスピリチュアリティなのですが、ちまたのスピリチュアリティというのは、あくまでも現実や物質に軸足をおいたまま、物質的次元での欲望や願望を果たそうと志向しているものがほとんどになっています。

霊なるものに軸足をおくことのみが本来の意味でのスピリチュアリティなのであって、霊的なものごとについて語ったり、それを利用して現実をコントロールしようとすることは、実際にはちょっと雰囲気をかえてみただけの純粋なリアリズムに他なりません。

自分の欲望や願望の成就のためではなく、純粋に宇宙との同期をはかることを意図するのであれば、それはスピリチュアル的なものに近づくための手段になりえるでしょうし、その結果として、人間が本来有している能力を円滑に発揮することに役立つ筈です。そのことは心の安寧と至福感を満たすでしょうけれども、社会的な成功とリンクするかどうかということとは直接的には関係を持ちません。プラスに働く面もあるでしょうけれども、むしろマイナスに影響する部分もある筈です。
しかし、そういう現実面の利害損得を度外視してスピリチュアルなものを優先して考える姿勢こそが、本当の意味のスピリチュアリティなのではないでしょうか。

話が大分逸れてしまいました。そもそも太陽は陽を、月は陰を表します。そして、わたしは月の満ち欠けの周期の中にも、陰と陽のサイクルがあると考えており、新月から満月にいたる期間を陽のサイクル、満月から次の新月に至る期間を陰のサイクルであると捉えたいと考えています。太陽にも春分から秋分までの陽のサイクルと秋分から春分までの陰のサイクルがあると考えていることと同様にそう考えるのです。

しかし、ひとつ問題となるのは、サイクルの起点をどう考えるかということです。太陽のサイクルの起点を春分と秋分とするのであれば、月の場合は、上弦の月と下弦の月をその起点とするべきではないかということです。実は太陽のサイクルの起点についても、最初は冬至と夏至を起点とするべきではないかと考えたこともあったのです。

太陽と月では陰陽の性質の違いや役割の違い、また、支配している次元の違いなどがあり、視点をどこに当てるかによって、物事の判断基準は変わってくるということもあります。

視点によって判断基準が異なってくるということを、陰陽について言いますと、目に見える現象の世界を中心に見た場合は、陰は陰の極まりである冬至として、陽は陽の極まりである夏至として感じられるでしょう。しかし、現象の裏においては、陰の極まりには陽が、陽の極まりには陰が、現象に至る前の形で霊的に兆すのです。霊的に捉えた場合は、むしろその時点を起点として捉えたくなる、ということがあります。

また、人間の陰陽としては男女の別があります。陰陽では陰が先になっていますが、人間に関しては男女と男が先になっており、陰陽とは順序が入れ替わっています。
男女を陰陽という一つ上の霊的視点から捉えると、女は男であり男は女であるということに実際にはなっているということが、その表現において表されていると考えてもよいのかも知れません。

現実的な世界では男の方が力が強くて応用的な知性が働くなど、社会生活を現実的に営むという観点から捉えますと、女は男に従属しているというような見え方をします。
けれども、精神的な部分でいいますと、男は完全に女性に対して従属しているのが常ではないでしょうか。それは、男性の魂は陰の女性的なものであり、女性の魂は陽の男性的なものであるので、当然のことなのだということです。

女性が精神的に望んだものを、男性が精神的に受け入れ、現実的世界において女性が望んだものを男性が生産したり環境として整えたりします。そして、そのように男性が形にしたものを、女性が受け取るのです。
実際にはこのような循環が常にあります。女性が望んだものを男性が形にして、それを女性が受け取るのです。女性が欲したものを常に男性が提供するのです。

その一方で、肉体は物質ですので、性的なものに関しては男性が放出したものを女性が受け取って受精し、子どもを出産するという形になります。しかし、霊的に見ると、あくまでも女性が男性を選んでおり、実際の主導権を持っていると考えられます。

身の回りの世話なども、肉体的次元の要素が濃くなるので、そういう分野では一見女性が男性に奉仕しているように受け取れます。けれども実際には女性の方が主導権を握っていて、もっぱらその意向が反映されている部分が多くなっているのではないでしょうか。

精神の世界を度外視して物資的次元で生きている人達の間では、男が強く女は弱いいとだけ感じられるかも知れません。しかし、精神的、霊的に生きている者からすれば、女が強く男は弱いと感じられるのです。その人達の意識の在り方によってそれらの見え方はまったく変わってくるのです。

そのような単純なありふれた事柄一つとっても、現在の地球上ではほとんど正しく理解されておらず非常に混乱しているように見えます。何故なら、まだまだ物質中心主義が根強いからではないでしょうか。

あらゆるスピリチュアルなものは、こうした流れを変えることを推し進めるのでなければなりません。物事を霊と物質の両面から、複層的に読み取ることを当たり前のこととしていかなければいけないのです。

どうも、最初考えていたのとは違う方向に話しが進んでしまい、纏まりがなくなってしまったかも知れません。月の満ち欠けについては、また、日をあらためて書く機会があればと思います。

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