サビアン度数の立体感

サビアン度数が持つイメージは、その度数に関連する四つのエレメントすべてのイメージを参照することで、俄然と立体感が増してきます。

例として自分の出生太陽の度数について見てみたいと思います。

いつも通り、ルディアの文献からシンボルイメージを引いてきます。ルディアのものとジョーンズの示したものに大きな相違がある場合には、そうしたことも考慮に入れます。
ちなみに、英文を訳して解釈するに際して、参考にしているものはひとつもありません。ルディアの解釈すら参考にはしていませんし読んでもいません。

他者の解釈したものには、必ずその解釈者特有のドグマが混在しており、大抵の場合はシンボルの純粋なイメージよりも、そちらの方が読み手の印象に残ってしまうのです。詳しく正確性を期して書かれたものほど、そうした解釈者固有の価値観が入り込んでしまうものだと感じています。すると、象徴の象徴性がひどく狭い範囲に押し込められ、偏って色づけされてしまうことになるのです。

わたしはここで、普遍的な解釈を行う積もりはなく、折に触れてその時に自分にとって必要と感じられるメッセージを象徴から読み取っているのに他なりません。
象徴には無限の解釈の可能性がありますので、それをシステム論的な合理性に基づいて解釈すもりはありません。けれども、結果論的にはそのようになる場合もありますし、一定の法則性がシンボルの間に介在していると感じさせることは往々にしてあることです。

しかし、象徴には、人間が意識化仕切れない未知の法則性が多層的に含まれているであろうと考えますので、システム論的な合理的法則性の側から象徴を解釈することは、象徴の持つ純粋性に対して、不要なマーキングを施すことになり、それによって象徴性は少なからず傷つけられてしまう、と感じるのです。

さて、本題に移りますと、自分の出生太陽は、水瓶座4度ですので、それに対向するのは獅子座の4度となります。水瓶座は風の、獅子座は火の不動サインです。

(AQUARIUS 4 °): A HINDU YOGI DEMONSTRATES HIS HEALING POWERS.
(私訳):インドのヨガ行者が自らの癒やしの力を証明してみせる。
(LEO 4 °): A FORMALLY DRESSED ELDERLY MAN STANDS NEAR TROPHIES HE BROUGHT BACK FROM A HUNTING EXPEDITION.
(私訳):狩りの遠征から戻った正装の年老いた男が、仕留めた獲物らの傍らに立っている。

何れも自らの独自的生き方のスタンスを誇示する内容が示されていますが、風の4度においては自己の独自性が特異な心霊的能力によって示されており、一見没個性的な形での個性の主張があります。
一方、火の4度においては、自己主張が自己に直結する形で生々しく露骨にさらけ出されていると感じられます。

4は数霊的に言えば、人間としてはじめて意識を持つ段階を表し、時間や空間といった概念が生じるポイントであると感じています。顕在意識によって認識できるものごとというのは、時間的空間的な属性を帯びていることが必要であるということです。
はじめて自己を客体化してそれを外部に示すことができますけれども、それはまだ粗野で洗練されていないところがあるでしょう。

風においても火においても、自己というものが唐突感の否めない、やや無骨な形で表現されていると感じられます。風においては知的なクールさがあり非直接的な感じもしますが、それでもある種の突拍子のなさがあるように感じられます。

自己の存在価値や特殊性というもののアピールの仕方が両極的な形で示されていると言えるかも知れません。

水瓶座4度の出生太陽を持つわたしは、結果的に社会の枠組みから途中で離脱することになってしまいました。今後のことはまだ模索中で何も定まっていません。しかし、退職から日を追うにつれて、わたしは自己の独自性に強く依存する形でしか生きようと思わないだろう、というように感じられています。

この二つを因果関係の枠組みで捉えようとしたとき、自分としては、獅子座4度的なものが動機として自己の中に内在し、結果的にはそれを水瓶座4度的なもので表現しようとしているように感じられます。

自分という存在の独自性を強く意識していたいのですが、やり方としては自分自身を直接的に表現するのではなく、何らかの技や技術というものを通じて、その存在価値をアピールしたがっている、という感じでしょうか。

以前は漠然と、対向するものがターゲットとして捉えられるように感じていたのですけれども、今感じているのはそれとは反対のことです。どちらが因でどちらが果になるのか、もっと他の例を加えて検討する必要がありそうです。

いずれにしましても、対向する度数にあるもの同士は同じものを表と裏から表現しているに過ぎない、ということが感じられ、その表現の仕方には、それぞれのサインが持つ要素性が反映されていると感じられます。

また、このように対向する度数を意識したときに、はじめて度数の持つ象徴性が息づいて動悸を打ちはじめるように感じられます。

続いて、スクエアの位置にある、地と水の不動サインの4度についても見てみましょう。

(TAURUS 4 °): THE POT OF GOLD AT THE END OF THE RAINBOW.
(私訳):虹の端に置かれた金の壺。
(SCORPIO 4 °): A YOUTH CARRIES A LIGHTED CANDLE IN A DEVOTIONAL RITUAL.
(私訳):礼拝儀式において火の点いた蝋燭を運ぶ若者。

虹及び礼拝儀式は神と人の間に橋を架けることを意味するもの、即ち精神世界とのつながりを強く希求するものが感じられ、一方で、金の壺と蝋燭の火を運ぶ若者というのは、現実世界において見い出されるべき、即物的な希望や光、美や生命として感じられます。
精神世界に救いを求めながら、一方で現実世界にも即物的な形で恵みを見いだそうとしているのです。

ここでは精神主義と現実主義の葛藤のようなものが垣間見え、神を信じる傍らで、現実的な利益を自らの足場として持つ人間という存在の立場が赤裸々に表現されているとも言えるかも知れません。

また、地の4度においては、どちらかと言うと金の壺に比重が置かれているように感じられ、ちゃっかりした現実主義的態度が垣間見えますが、水の4度においては、その比重はむしろ精神世界の方にあるような印象を受けます。

先に見た風と火の不動サインにおいては、4度は極端な形で理想を、一方は神秘主義的なもので、もう一方は現実主義的なもので追い求めようとしていたように感じられます。

一方で地と水の不動サインにおいては、理想と現実が等価のものとして意識され、その両方に足場を置こうという、非常に地に足のついた形での理想の追求の仕方が模索されているように感じられます。

火と風という能動的サインにおける4度は、目的や理想を追わんとして、一種の視野狭窄的な状態にありますが、一方で、地と水という受動的サインにおいては、目的や理想の追求に際して、現実的で多角的な視野を持っている、というイメージで捉えることができないでしょうか。

先にシステム論的な見方に対して批判的な意見を述べたばかりですけれども、こうして見て来ますと、スクエアの位置にある度数は、あきらかに批判的な性質を持っていると感じられます。
その批判的性質によって、元のものは反省を強いられることになるでしょう。けれども、結果的にはそれは元のものの目的の実現に助けになる形で働くことになるでしょう。

例えば、水瓶座の4度を出生太陽として持つ自分は、現在、社会の枠組みから離脱したところで何らかの生活スタイルを確立していかなければなりませんが、虹に理想を見る一方で、きちんとそれが現実的に食べていける道、すなわち金の壺になっていなければならないということです。

獅子座の4度の人であれば、自己というものを即物的な価値観で捉えようとするばかりでなく、精神的世界に対する畏敬の念を持つ必要性というものを、蠍座の4度によって諭される必要があるということです。

風に対しては地の要素が、火に対しては水の要素が意識されていることが大切なのではないか、ということが感じられます。

とりあえず、出生太陽についてはこれまでとしたいと思います。他の例も見て参考にしてみたいのですが、自分の出生土星は魚座の4度にありますので、比較する上では非常によさそうですので、次回は土星について同じように見てみたいと思います。

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