宮地嶽神社のついたち参り
昨夜は福岡県福津市にある、あの嵐のCMで話題になった「光の道」のある宮地嶽神社のついたち参りに行ってきました。
これは毎月の1日の午前零時より、宮地嶽神社にて斎行されるものなのですが、平日の深夜にあたることも多い中、常に大勢の参拝客で賑わっているのは、非常に稀なことであるように思え、いつも深く関心してしまいます。
そして、今回は年に2度ある大祓いの日でもあり、午前1時からは大夏越祭の茅の輪くぐり神事が引き続いて斎行されましたので、こちらにも参列させていただきました。
大祓いは年末の大晦日の「年越しの大祓い」と6月末あるいは7月末に斎行される「夏越しの大祓い」との年2回、各地の神社にて斎行されるものですが、古来からの日本の伝統でもあり、行ける時にはなるべく行くよう心掛けています。
神事があることを事前に知っていて行くこともありますが、まったく意識していなかったにも関わらず、不思議なことに図らずも偶然にそのタイミングで足を運んでしまうということが、わたしの場合は度々あって、今回もそうでした。
大祓に参加することの何がよいのかと申しますと、まず、一年を半年くらいの単位に分けて、来し方を振り返ったり、先のことに思いを致す、ということにうってつけの機会であるということがあります。
人間が普段の生活の中で意識している時間のレンジというのは、非常に短く、そうした短日的な時間感覚の中で非常に慌ただしく、目先のことにばかり負われて過ごしてしまいがちです。
ですから、時折りは一旦歩みを緩めて、長期のスパンでの自分の状態や方向性の確認というものが必要になると思います。
かと言って、ひと月程度ならともかく、自分一人で半年程度の長い間隔の期間について、自覚的に意識し続けるということは中々ハードルが高くてままなりません。
しかし、こうした儀式に参加すると、自然にそういうレンジで物事を振り返ったり考えたりすることができますので非常に助かります。
そもそも、神社のような聖地は、数百年あるいは千数百年といった非常に長い年月の中、神職さんや氏子さん達によって、常に清浄に掃き清められ、崇め続けられている場所です。
人間が大切にするものというのは、その対象が場所であろうと物であろうと、あるいは動物や人の子であろうと、必ずそうした扱いに相応しい、気高い雰囲気や存在感といったものを放つようになるのではないでしょうか。
神社の場合、それが非常に長い年月にわたって途切れることなく、また、通常のレベルを遙かに超えた厳粛な清浄な想いによって維持され続けているわけであり、そうした空間には、独特の畏敬に値する雰囲気が伴っていることは当然のことであり、そうした空間に足を踏み入れることによって、自然と心身は洗い清められることになります。
自分が好んでこうした場所を訪れる理由としては、人の一生のスパンを遙かに超えた、悠久の歴史感覚に容易にコンタクトすることができ、日頃の生活の中で培われているエゴ意識から離脱して、自分を悩ませているあらゆる卑近な物事と距離を取ることができる、という点にあります。
こうした空間で心安らいでいると、自分が既に得ているものとしての健康や日々の生活の安定、自然災害に遭わずに済んでいることなど、感謝すべき様々なことに自然に思い至ります。
そして、行く先のことについても、授かった心身の健康を維持するとともに、人のお世話にならずに生計を立てゆくことを、当然の責務として果たしていこうという意識が湧いてくるものです。
人間は、毎日の眠りと目覚めの中で、小さな生き死にを繰り返していますが、そうした蘇りをもっと様々なスパンで意識的に行うことが必要です。
瞑想というのは、眠りより遙かに身近いスパンで、瞬時に死に続け、また蘇生し続けることだとも言えるのではないかと思いますし、週単位、月単位、半年単位、年単位、あるいはもっと長いスパンで人生の区切りを意識することで、人は新たに蘇生し続けて生命の瑞々しい力を保持することが大切なのではないかと思います。
※最後に、アイキャッチ画像にはサイト「photoAC」にてダウンロードした、「lab4art」さんの大変素晴らしい素材写真を使用させていただきました。この場を借りてましてお礼を申し上げたいと思います。