新月のサビアン 9月20日 乙女座28度

さて、日付も変わりましたが、明後日の9月20日の午後3時頃には、また次の新月を迎えることになります。

前回は2度連続で獅子座での新月を迎えましたが、次は乙女座の28度で迎えることになります。

わたしの火星のサビアンがちょうどこの度数ですので、そういう意味では個人の活動や情熱に関することでは、何かしらリンクしてくるものがあるように思えます。

(VIRGO 28 °): A BALDHEADED MAN WHO HAS SEIZED POWER. (AN ASTROLOGICAL MANDALA by Dane Rudhyar)
私訳:力を掌握したスキンヘッドの男。

乙女座は個人がスキルの獲得に専念するサインです。地の柔軟のサインですので、現実的な様々な能力の獲得に通じています。
支配星が水星であることから、知識や技能を実生活や社会生活の中で応用できるレベルで身につけ、社会の中において職能的な意味合いで個性を確立します。

28度は30度あるサインの終わり近くの度数になりますが、29度では既に中身が完成されてしまい関心は次のサインに移りますので、この28度はそのサインが持つものが最高度に高められた形で表されます。

力を掌握したスキンヘッドの男は、ありとあらゆる物事に対応することができるでしょう。その機能性は、些か驚異を感じさせる程に完成されています。

自然の働きの中では、それは木々がもたらす実りに例えることができるでしょう。同じように、人においては完成されたスキルが努力や研鑽の成果としてもたらされるのです。
それはまだ実社会で実際に活かされる以前の状態であり、単純にその能力や機能性というものに焦点が当てられます。したがって若干の畏怖を感じさせるということのように思います。個人が勝ち得たスキルは、個人が社会で生きていくための資本であり生きゆくための砦となるでしょう。

夏至を頂点とした春分から秋分にいたる陽の季節の成果の集大成がそこで示されるのです。秋分以降は収穫の季節となりそれらは摘み取られ、人々の中に行き渡って行きます。個人的スキルも、それを活かすための場が与えられていくことになっていきますが、それは次の天秤座以降の段階になるのではないでしょうか。

ここまでに得られたものは、冬至を頂点とする陰の半年間を過ごすための、物質的な糧となります。ここで一本立ちするための基礎を作れなかった人間には、その先の人間としてのより高度な課題にチャレンジしていくことが難しくなるでしょう。

人が地上で高度に精神的な活動を行うためには、それを支える現実的な基盤も必要になります。厳しい冬の寒さの時期を見据えて、十分な力を身につけておくことが必要です。

この新月からの一ヶ月間には、自分の中において”力”となるものは何か、ということを深く問うてみることがよいかも知れません。あなたが生きる上においての”強み”であり、あなたが自らの個性を社会の中で表現していけるようなものが何なのか、ということです。

あなたが、あなたの人生の主人公として生きゆくために、まず、現実的な力として何を持っており、それをどの程度鍛え上げているのか、そのことをシビアに点検してみては如何でしょうか。

わたしの場合は、自分の火星がこの度数にありますので、自分の資質を活かした現実的なアクションについて考えてみるべきかも知れません。自分の真の資質を見極めるとともに、それをどのような形で活かすかについても考え、実際に試みを行ってみるということです。

日々の糧を得るための仕事は様々です。単にお金だけのことを考えれば、仕事は何でもいいことになります。しかし、自己の資質を活かして社会に貢献するのでなければ、その人は本当に”生”を生きているとは言いがたく、ただ食うために機械的に生きているだけということに留まります。

騒々しい賑やかな季節が次第に息を潜めて、人間の陰の部分である精神が主体となってくるような半年間がまもなくはじまります。心を落ち着けて、意識を自分の中へと深く入り込ませることに喜びを感じることを心掛けてみては如何でしょうか。

新月のサビアン 9月20日 乙女座28度” に対して4件のコメントがあります。

  1. より:

    はじめまして。
    火星のサビアンがこの度数で逆行していて、(MCのほぼ近く)さまざまな解釈や役割を考えています^^

    1. duct より:

      や さん

      こんにちは 拝読いただきありがとうございます

      安倍首相の出生太陽も乙女座28度なんですよね

      ものすごく完璧主義的な側面や使命感に突き動かされるような側面もあるところですけれども

      反面的には周囲の期待に応えようとし過ぎるあまり、歯車が狂い始めると結果的に主体性のないブレブレな対応になる面もあります

      わたしも物事を潔癖にやろうとし過ぎるあまり、完璧性を求めることが目的化してしまい本来の目的性をを見失ってしまうようなところが多分にあります

      しっかりと大局的な目標を持って、時代の要請に則っているときには素晴らしい優秀な能力を発揮できる度数と思いますけれども、能力への過信が徒となる可能性については注意が必要という感じでしょうか

      今後ともよろしくお願いいたします

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