裏コード ザ・ビースト 人の覚醒とは
分かりやすくて明快な、安全で確実な道のりをこれまでずっと長いこと歩んで来ました。
安全で確実とはいえ、そうした道のりを行くことさえも、さほどに楽という訳ではありません。
道を踏み外すことなく、きちんとレールに乗っかっているためには、それ相応の努力と労力が求められます。
そのような生き方をする中で、人は自身が保有するシステムを、所属する社会のシステムに適合するように特化させていくでしょう。
神経系統、感情、欲求、思考回路、価値基準に至るまで、人間が生存し生き行くために必要となるあらゆるシステムが、社会システムの中で特定の役割を果たすことに最適化するように組み直されていきます。
人間とう言うのは、社会システムによって鋳型にはめられて、与えられた枠組みの中で効率的に支障なく、特定の役割を果たす機械としての側面を持っているということは動かしがたい現実です。
人が簡単に憎しみ合ったり攻撃し合ったり、何度でも戦争を繰り返すことの根底には、そうしたことも大きく関わっているのではないかと思います。
社会システムの中で与えられる役割を機械的にこなしていくことを最優先にするような生活を長年続けていると、何らかの故障が生じる確率が高まっていきます。自己の内部的システムが外からの継続的な負荷や圧力によって、やがて故障したり破綻を来たしたりするのです。
その人が持つ生来の個性というものが、外的なものに合わせることによって阻害され続けた結果、バランスを損ない、必要な何かが欠落していきます。そのようにして人は病むことになります。病気というものは、ほとんど社会的なものだと言っても過言でないのは、人間ほどに病む存在はないことからも明らかです。他の生き物の方がはるかに圧倒的な環境ストレスに晒されているにも関わらずです。
社会的存在であることにのみ意識を注いでいたがためにそのような結果を生じる、ということの一方で、人間性本来の様々な欲求に従う努力をしていても、それでは均衡を保つに至らないほどに、人為的な負荷や圧力を社会から受けてしまう状況というものあるでしょう。
現代の社会は様々な病を産み出していますが、病が増えすぎると、今度は社会制度がその負担に耐えられなくなっていきます。組織は健全性を損ない、閉塞感を募らせていくことになります。
そして、病んだまま組織にぶら下がり続ける者のために、残った人達の負担も増大するばかりとなっていくことになります。
社会システムが肥大し続け、より完全なものとなってゆく課程では、そこに従属する人達の安全と安定が、より確かなものとして保証されるように見える側面もあります。
しかし、組織が一定規模以上になると、組織の維持拡大がすべてに勝る優先課題となり、システムとして完成度が進むほどに、所属する人達の人間性を著しく制限し阻害していく結果を招くという側面も同時に存在することは確かでしょう。
こうした中で、組織からの離脱を志す人達が出てきます。病人をはじめとした、自立する能力を持たない人達は最後まで組織にしがみつくしかありませんが、自分のことを自分でできる人達にとって、働かない人達や満足に自分の役割を果たすことのできない人達の負担を背負い込んで頑張り続けることにも限度があるのです。
ですから、一旦こうした流れが生じてくると、そこに一つの悪循環が生まれていくことになってもおかしくありません。組織への依存を強める一方の人達と、その人達の負担に耐えきれなくなって新天地を求め始める人達の流れです。
今は何をやるにも非常に自由です。信用のない個人が、やろうと思えば何にでも参入することの可能性が開かれています。
ですから、中長期的に社会の在り方を考えた場合に、どこまでも肥大化していく企業とそれに完全に隷属しようとする人達と、そうした枠組みの外で、自らの人間性を尊重して生きるグループの二つに大きく分かれていくことになることは間違いないのではないかと思えます。
これまでになく明瞭な形で、生きる上での目的とスタイルを、大きく異にする人達が地球上に同時的に存在するようになっていくのではないでしょうか。
しかしながら、社会システムから離脱するといっても、ことはそう簡単ではありません。
失敗すれば、余計に食うことのためだけに追われる結果となり、人間らしい生活への回帰どころか、更に惨めな状況に追い込まれるという可能性も大いにあるからです。
一旦、そうした社会システムから離れると、自分の中のすべてのシステムを再構築しなければなりませんが、自分の外にある型に合わせることのようには簡単にはいきません。
まず第一に、座標を見失います。自分のいるべきポジションを指示してくれるものはいません。また、自分が果たすべき役割についても同様です。目的や役割が分からないのであれば、自身のシステムをどのようなスタイルに特化させていけばよいのかも分からないのです。
自らの生きることの意味を、外から与えられずとも持つことができる人というのは、パーセンテージ的にはそうは多くはないでしょう。しかも、現実的な生活を安定させながら、人間本来としての目的性も果たさなければ離脱することの意味もないのです。
そうは分かってはいても、已むにやまれぬ気持ちで外へ飛び出す人もいるのだと思います。
その人達に必要なのは、まずは自分にとっての人生の意味を見いださなければならないということです。
しかし、社会システムを離れると、そこはあたかも光のない闇の中にいるようなもので、自分がどこにいて、どこへ向かえばいいのか、皆目見当もつかない状況に陥ることになるかも知れません。
そこで慌てふためいて目に見えるもの、近くにある手堅いものにしがみつけば、形を変えて元のパターンの人生に、以前より遙かに質を落とした形で舞い戻るだけのことになってしまいます。
けれども、社会に適合することを目的に生きていたときには眠っていた、人間本来の感覚というのが、何れは目を覚ますことになるかも知れません。
目覚めさせるべきものは、獣性ではなく霊性であるべきでしょう。
けれどもそれは、合理的な価値基準を逸脱しているという意味では、大して変わりはないかも知れませんし、獣性といえども、それが霊なるもののコントロール下にあるのであれば、立派な人間性の一部である、ということも言えるのかも知れません。