秋分を前に想う~四季図にリンクした生き方~
占星術における四季図は、もっぱらマンデーンのような社会現象を読み解く社会占星学と言われるもので活用されているようですが、わたしの場合は一年を四つに区切るこれらのポイントを、宇宙との調和を積極的に図るためにもっぱら個人として活用することを試みています。
このため、秋分図とパーソナルチャートとの相関を観ることも重要となってきます。
わたしの場合は、秋分に始まり冬至を頂点として春分に終わる陰の半年のサイクルというものを特に重要視して生きています。一年のはじめりは、陰を主体とするとこの時期になると感じるからです。
実際に海外では学問のような精神活動のスタート時期は秋に始まります。日本の学校が4月始まりであるのは、学校という存在が学問という精神活動の場としてではなく、どちらかというと社会訓練のためのものと捉えられているからのように思われます。
精神的に深めていくようなものを始めるのであれば、読書の秋とも言いますし、やはりこの季節の方が相応しいだろうように感じられます。
春分点と秋分点は陰と陽がプラマイゼロとなり、エネルギーが凪ぐ状態になるということについて、他の記事でも幾度か触れて来ました。このゼロポイントで日本人は先祖を祀りますが、先祖に限らず自らの霊もまた、このポイントを境に肉体を出入りします。
秋分点では遠くに出掛けていた霊が帰ってきます。そして、春分点には再び霊は外側の世界に向かって出掛けていきます。
夏の盛りを過ぎた辺りから怪談が流行ることもこのことと関係しており、陽の頂点である夏至を境に、エネルギーが極大から極小へと向かう流れが生じてくるために意識の視点が変わり、その際に霊なるものに対して怖いという感覚が出てくるのです。西洋ではハロウィンがホラーと密接に関係してくるようです。
キリスト教では秋分の直後に大天使ミカエル祭を行いますが、ここで悪魔退治のミカエルが登場することも、この時期に人々が襲われる霊に対する恐怖心と密接に関係しています。
霊が出て行くという表現は、霊が外の世界へ向かって広がっていくということの表現であり、拡散した分だけ霊的な意識が薄まってしまうような感覚があります。
霊が帰ってくるという表現は、反対に物質(肉体)の世界の奥深くに向かって霊が沈潜していく状態を言います。この時、我々は霊をより深く感じることができ、肉体的活動よりも内的な活動に意識が向かうようになります。
個人的な感覚に基づいて言いますと、陽の半年は霊がお留守の時、陰の半年は霊が充実している時というように感じられるのです。
わたしの場合は、霊なる世界が帰ってくる季節となることをむしろ歓迎しますが、顕在意識や物質中心主義で生きている大半の方々には、霊的な物事が怖い感覚で捉えられ勝ちであるのかも知れません。けれども、帰ってくるのは自分自身の霊でもあるのです。
東洋の易においては、陰の極まる時である冬至に、一陽来復といってはじめて陽が兆すことを非常に尊んできたわけですので、そのような意味ではわたしの感覚は東洋人としては、むしろオーソドックスなものであると言えるかも知れません。
禍福はあざなえる縄の如しというのは中国のことわざですが、日本人の感覚の中には、良いことが起きると悪いことを予想し、悪いことがおきると今度は良い出来事があることを期待する気持ちが自然に備わっています。日本人は特にそのように形として兆す以前の物事の霊的な状態の変化に非常に敏感な民族であるように思われます。
さて、前置きは以上としまして、いよいよ明日の秋分についてですが、今日話題にする星の配置については、サビアン度数でいうと既に秋分の時点のものと一致しています。
この秋分点において、人生を保護し拡大していく働きの木星が、天秤座の27度にあり、この度数にあるわたしのAscと合します。
また、プライマリー・プログレスの土星が、ちょうど正反対の牡羊座27度にいて、経過の木星及び出生Ascと衝になります。
加えていいますと、経過の木星と天王星がオーブ1度強でオポジションになっています。
プログレスの土星は一年で1度、天王星は4度強しか進みませんので、この二つは長期にわたってAscと衝の状態にあります。
経過の木星がAscを経過する際は、わたしの経験上では常にひと段階ステップアップした社会生活の始まりが感じられる時でしたが、今回は退職をして第2の人生をスタートさせる時期と重なりました。また、個人的に重要視している陰の季節のスタートポイントとも重なりました。
退職して3週間が経ったところですが、スタートという意味では、この数日でやっとそのような気分を持ち始めています。それまではスタートというより、どちらかというとクロージングというか、環境が大きく変動したわけですから、気持ちにも多少の混乱や動揺があったように思います。
木星はAscとの合を起点に12年のサイクルで社会的生活の流れを司っているということが、少なくともわたしの人生パターンからはかなり明確に言えますので、この天秤座27度のサビアンに象徴されるものが、これからの当面のわたしの社会生活において支配的となってくるということになります。
(LIBRA 27 °): AN AIRPLANE SAILS, HIGH IN THE CLEAR SKY.
(私訳):高い澄んだ空を行く飛行機。
遙か彼方にある、手の届かないものについて知ることの欲求、自身の能力や可能性に対して挑戦していきたい態度が見られるでしょうか。不可知のものを知り、不可能な何かを手にしたいような、理想的な何かを追い求めるような姿勢として感じられます。
わたしは今、退職してまったく生計手段を持たない状態ですから、確かに挑戦的であると言えるでしょう。ある意味で理想を追った故の決断でしたので、現在の状況からするとイメージは非常にしっくりとしています。
続いては、進行の土星についても観てみましょう。Dscに進行の土星が乗っかっているというのは、人生上の課題や目標を新たに見いだそうとしているということになろうかと思います。
退職して新たな人生をどのように生きようかと模索しているところですので、進行の土星がこの位置にあることは正しくそのような状況をそのまま表していると言えるでしょう。
この土星のサビアンについても観てみます。
(ARIES 27 °): THROUGH IMAGINATION A LOST OPPORTUNITY IS REGAINED.
(私訳):想像の力を通じて失われた機会を取り戻す。
決して諦めることを知らない牡羊座らしい挑戦的な態度と言えるのかも知れません。目標に執着しているというよりは、生来の挑み続ける姿勢を決して手放さないという感じではないでしょうか。
天秤座27度は未知なる物に対する希求心でしたが、正反対の牡羊座27度では一度手に入れ損ねたものを取り戻そうというところで違いがありますが、何かを追い求めることに挑戦する姿勢という点では相通じています。
土星が人生の課題を象徴するとすれば、社会生活を手放してリタイアした今の状況と牡羊座27度が象徴する失われた機会というのははまったくシンクロしていますね。そして、今度は別の形で再びそれに変わるものを手にするための挑戦が人生ではじまろうとしているということになろうかと思います。
何か具体的なものを目指していくというよりは、挑み続けること自体が人生の課題となるということのように思えます。社会をリタイアして自由な身となりましたが、具体的な目標があってリタイアした訳ではなく、自由を得るための飽くなき挑戦のためのリタイアでしたので、まあ、星の配置のとおりということかと思います。
経過の天王星も直近をうろうろしていますので、アイデアとしては色々なものが浮かんで来るのかも知れません。とにかく、普通ではない革新的な事柄を目指した方がよいだろうという感じかも知れませんね。
何れにしても、生きる目標を何にするかなど、今すぐに定まるという種類のものではなく、しばらく時間が掛かることは覚悟しておかなければなりません。そうした中で様々な挑戦を楽しめるかどうかが鍵ということになってくるのかも知れません。
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