秋分の落日に道を思う

今日は偶々通りかかった宮地浜にて、猫の島として人気の新宮町は相島に沈む夕日を、非常にタイムリーな偶然により眺めることができました。

明日の秋分は明け方の5時であることを考えますと、今日の夕日が一番秋分点に近く、もっとも真西に沈むということになります。

春分には真東に昇る朝日を陽の現れの象徴として拝み、そして秋分には真西に沈む夕日を陰の象徴として拝まなければなりません。

キリスト教の春のイースターは春分後の最初の満月の次に来る日曜と定められていますが、秋分後のミカエル祭は、本来は新月に関係づけられていた筈なのではないかと思います。

日の道が綺麗に出ていました。ひの道は霊(ひ)の道です。
秋分は昼夜の時間が等しいとともに、日は真東から昇り真西に沈みます。陰陽も中分する時であることから、当然、人としての道を正す時として過ごさなければなりません。

儒教の四書である中庸には次のように記されています。
「誠は、天の道なり。これを誠にするは、人の道なり。」

秋分の日に天の誠の道が、昼夜等しく、陰陽を中分するという形で示されています。これに応じて天の誠を地に現すのはもっぱら人の領分な訳ですから、特に陰へ向かう中庸の時である秋分には、心に深く道に思いを致さなければならないのです。

 

日の道といえば、この宮司浜のすぐ近くに鎮座する宮地嶽神社において毎年恒例となる光の道が、昨年嵐のCMで全国的に有名になりました。ちょうど一ヶ月後くらいにその時期を迎えます。
宮地嶽神社においては、上の写真に移っている相島を安曇族の聖地として、そこに沈む夕陽を拝むようですが、神社から長く伸びる参道もちょうど相島に向かってまっすぐ伸びています。

しかしどうして、秋分の日を拝む形ではなく、3週間分くらい後ろにずらした時期の夕陽を拝む形としたのかが不思議に思われてずっと気になっているところです。いつか調べてみたいと考えています。

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