二十四節気 ~寒露~
もう日付が変わりましたが、10月8日は24節気で言う寒露を迎えました。秋もいよいよ深まりを増していく季節となります。身体の冷えなどには十分にご注意いただきたいと思います。
この24節気というシステムは、月の運行に基づく陰暦を使用していた時代に、太陽の運行に基づいた季節の移り変わりを便利に知るために設けられたものということですが、1年を24分割しますので、サインの15度ずつ、サビアンで言えば1度と16度のところに節気が割り当てられている、ということになります。
寒露はサビアン度数で言えば天秤座の16度になります。
通常、サインは10度ずつの3つの区切りに分けて、3という数字が持つ進行生成パターンに従って読むのが自然であると考えられますが、30度を前後に分割する16度というのも、そのサインの一つのピークを示す15度を超えた次の瞬間地点ですので、投げ上げられたボールが上に向かっていた方向を反対向きに転じて、今度は着地ということが視野に突然入ってくる段階に至る訳です。
それまではただ上だけを見て、最も高い地点に到達することにしか意識が向かっていなかったのが、にわかに姿勢転換が起こり、今度は地面に向かって降下を目指す段になる訳ですから、その変化のショックは精神的に結構大きいものがあって然るべきなのだろうと思えます。
東洋では更に5度ずつに分けた72候というものもありますけれども、これはあくまでもその季節に生じる事象の目印に過ぎないので、直接サインの性質と結びつくものではありません。
けれども、3の進行パターンの中に15度ずつの2分割のパターンの影響を見るというのであれば、更に15度を3分割した5度ずつのパターン進行の上に、サインの前後の15度が持つ性質や意味合いを見いだすべきだと言うことになるでしょう。
実際に、サビアンではそのような考え方で分析されることが多いようですが、しかし、度数の持つ性質の現れ方というのも、サイン毎に特色が随分違うということがあるでしょうし、あまり物事を合理的にシステマティックに考えようとしても、それはシンボルの持つ象徴性を、かえって見え難くして混乱させることにも成りかねないようにも感じられます。
以上は余談ですけれども、この天秤座の真ん中の折り返しの地点においては、一体どのようなことが示されているのか、ということにはちょっと興味を覚えましたのでもう少し書いてみたいと思います。
(LIBRA 16 °): AFTER A STORM A BOAT LANDING STANDS IN NEED OF RECONSTRUCTION.
(私訳):嵐の去った後、修復のために上架されているボート。
このルディアが示している文章では、修復が必要になったボートが示されていますが、ジョーンズの方では、ボートの桟橋が流された、という表現になっていて結構違いがあります。
ジョーンズの文章においては、船着き場という一種の着地点が喪失されている訳ですが、16度で喪失されるものは着地点ではなく、それまで一生懸命目指していた到達目標の方であるでしょう。
いずれにしても、それまで行っていたことを一旦中止せざるを得ないような状況が示されています。
天秤座はそもそも、その1度で示されているように、見られる存在としての自己の理想型を目指す、ということで始められました。そのために、人海の波にもまれながら自己を磨き上げることに夢中になっていた筈です。
しかし、サインの後半の入り口に差し掛かると、当初の目的の達成のために振り回され続けた結果、当初の目的を見失なうような当惑感に行き着いてしまった、というようなところではないでしょうか。
3の進行パターンに戻して説明をすると、2度目に迎えた6においては、1度目の10度で得た経験を踏まえて、闇雲で行き当たりばったりな形ではなく、一度冷静になって意識的に環境との調和を見直す必要性に気づく、つまり、自己満足的な目標の追求の段階から、自己の限界も分かった上で、周囲の環境との調和というものに対しても自覚が働いてくる段階に至った、ということになるでしょう。
天秤座の持つバランス感覚や美的感覚というものを、より高度に洗練させるために、一旦立ち止まって自分と状況とを振り返ってみる、ということなのではないかと感じられます。
寒露からは、秋が本格化していく時期であることを感じると同時に、その次に来る冬の季節に対しても意識が及び始めるのではないでしょうか。
秋の収穫の実りに浮かれている時期は終わり、今度はそれを如何に蓄えて冬を凌ぐか、ということへも少しずつ意識を向けていかなければならないのだということですが、その意識はほんの朧気に無意識下で芽生えたくらいの段階かも知れません。
社交的な楽しみに浮かれてみても、必ず一人で過ごさなければならない時間というのもある筈です。目に見えるものだけを追っていると、本当の自分を見失い、自分自身と向き合わなければならない時間帯に、それができなくなってしまうことになります。表面的な物事だけに目を奪われていると、自分の生きる目的が見いだせなくなってしまうということです。
恋愛というのも、楽しいのは最初の一時期だけで、その関係性を継続させていくためには、面白くない部分にも向き合っていかなければならないでしょう。
最近の世の中の風潮というのは、華やかな上辺の物事ばかりがメディアを通じて宣伝され、本来人間が足場としているべきような事柄は、まったく存在しないかのような扱いしか受けません。
そうなってくると、自分の中の闇と向き合うことができなくなるために、何か極端で暴力的な形で物事を解決するようなことにしか関心が向かわなくなってしまうものではないでしょうか。
楽しさや華やかさを味わうということは、反対にそれらを失った世界とのギャップが増大するということでもあり、むしろ実際には闇へと向かって行っているのだということになります。
自分が貧しいと思える間は、表と裏の世界のギャップが少ないので、かえって心が安まるのです。
時代は極端から極端へと、何れ矛先を180度変えることになることは間違いないと思いますけれども、今は極端に表面的で物質的な物事を偏重していますので、エネルギーとしてはどんどん心の闇を増やしていく方向に向かっているということになるのです。
ほどほどの人生を送る人というのは、比較的波のない人生を送りますけれども、極端な成功を志す人というのは、大抵はどん底も経験することになります。それは、エネルギーの法則として、振り幅が大きくなるので当たり前に起きてくることだと言えるでしょう。
古人が清貧な生活を好んだということの中には、大きなエネルギーの振幅に振り回されて、人生の本義を忘れてしまうことのないようにしたいという思いがあるのだと思います。欲望の実現に振り回されて、エネルギーを使い果たしてしまいたくないのです。
昨日の良寛禅師の歌ではないですが、「焚くほどは 風のもて来る 落ち葉かな」というような少欲知足の心を知ってこそ、はじめて心の安らぎを持つに至ることができます。
時代は再び、そういうところへ揺り戻されていくのだと思いますが、心の安心のために、寒露の日を迎えたのを機会に、やがて訪れる冬にも心を振り向けてみましょう。何れ誰でも年老いて行くものなのですから。