新月のサビアン 天秤座27度

あと48時間ほどで、天秤座27度で新月を迎えます。

ほぼオーブなしで経過の天王星とオポジションの位置で迎える新月となります。
偶然、自分のAscも今回の新月と同じ度数になりますが、一ヶ月前の秋分時にここを経過の木星が通過した際、この度数のサビアンを読んでみたところでした。

経過の天王星がオポジションで刺激している点でもあり、今度はこの度数で新月が起こるなど、短期間の中に自分に関連する度数で幾度も何重にも刺激が加えられるということは、個人にとっては非常に大きな意味があることのように思われます。

とは言いましても、Ascの度数自体は出生時間の4分のズレで1度変わってくるものであり、出生時間がどれだけ正確であるのか分からないのに加えまして、この度数はリロケーション後のものとなります。
しかし、自分が現在Ascの度数として強く意識している度数には他なりませんし、一ヶ月以内のうちにt木星のコンジャクションとt天王星のオポジション、経過の新月がこの度数場で起きるということに意識が向いたという時点で、この度数に自分の意識が強力にリンクされていることは間違いありません。

(LIBRA 27 °): AN AIRPLANE SAILS, HIGH IN THE CLEAR SKY.
(私訳):高い澄んだ空を行く飛行機。

遙か彼方にある、手の届かないものについて知ることの欲求、自身の能力や可能性に対して挑戦していきたい態度が見られるでしょうか。不可知のものを知り、不可能な何かを手にしたいような、理想的な何かを追い求めるような姿勢として感じられます。

(先月の記事より抜粋)https://harvest-moon.net/2017/09/22/syubun/

天秤座の27度について先月読んだのは、遙か彼方にある未知なるものを知ることへの欲求というということでした。
天秤座は風の活動サインですので、知ることの欲求のために物事や人の中に飛び込んでいき、実際の触れ合いやコミュニケーションを通じた経験の中で物事の正邪や真価を知っていくという感じでしょうか。
情報としての知でも抽象的な思考でもなく、経験知とか分別知といった、物事との実際的な関係性の中で得られてくる知性と考えると、自分的にはしっくりくるように感じられます。

数霊の7、8、9というのは、何れも表現の仕方が非常に難しい数であると感じていますが、7というのは、常に現実離れしたところがある数字であるように感じられます。

27度というのは、そのサインの30度の中で、既に開拓の余地がほとんど残っていない段階にありますが、そこで更に見果てぬ夢を想い描くといったようなことになるのではないだろうかと感じます。

そのように考えたときに、正反対の牡羊座27度に天王星がきっかり180度で関係してくるということには、かなり強い意味合いを帯びてくるように感じられます。

牡羊座27度についても、上に引いた先月の記事において、進行の土星の度数として読んでいました。
忘れていましたけれども、進行の土星も明後日の新月時においても引き続き牡羊座の27度にいるので、この一ヶ月間にわたって、自分のAscの度数は本当にあらゆる意味で強い刺激を受けているのだと言えるのではないかと思います。

(ARIES 27 °): THROUGH IMAGINATION A LOST OPPORTUNITY IS REGAINED.
(私訳):想像の力を通じて失われた機会を取り戻す。

決して諦めることを知らない牡羊座らしい挑戦的な態度と言えるのかも知れません。目標に執着しているというよりは、生来の挑み続ける姿勢を決して手放さないという感じではないでしょうか。

天秤座27度は未知なる物に対する希求心でしたが、正反対の牡羊座27度では一度手に入れ損ねたものを取り戻そうというところで違いがありますが、何かを追い求めることに挑戦する姿勢という点では相通じています。

新月時の太陽と月にとって天秤座27度というのは、無意識裏の衝動として働いてくるのに対して、正反対の牡羊座の27度は、はっきりと顕在意識上で自覚することのできるターゲットとして意識されることになるでしょう。

無意識下で働きかけてくるものとは、顕在意識の側から見れば、常にその対極にある到達点ということになるのだと思います。そして、その対極する点に実際に天体が位置していることの意味は非常に大きいといっていいのではないでしょうか。

天秤座27度が想起させる見果てぬ夢に対して、それを実際に手にするまで決して諦めるなと、牡羊座の27度が猛然とけしかけてくるような感じがします。

天王星は意識の改革を促して来ますので、当然、これまでの人生では達成できなかったものを今度こそは必ず達成するのだ、と意識の変革を求めてくるのではないでしょうか。
これを受けて同じ度数にある進行の土星は、自分の人生の到達地点の大幅な軌道修正を迫られるでしょう。そうでなければ、リタイアして第2の人生をスタートさせた甲斐もなくなってしまうという事情が個人的にあったりもします。

昨日も書きましたが、これまでの人生においては、常に社会的役割や家族としての責任のまっとうということを最優先に意識していましたので、そういう意味では、自分自身の本当の人生というものに対して、極めて疎外的な形で生きて来ざるを得ませんでした。

そうした環境下においては、個人としてのホロスコープの動きは、他のもっと大きな枠組みで起きている物事に左右されてしまう部分が圧倒的に大きくなってしまうので、人の生死などの重大な出来事を除けば、個人的な天体の動きとのリンクが希薄とならざるを得なかった点は免れないと考えてよいのだと思われます。

今であっても、市町村であるとか国や地球といった枠組みには所属している訳ですけれども、より直接的な組織や家庭といった枠組みから外れることの意味というのは、自分自身の個人的な生を純粋な形でまっとうしようとする際には、極めて重要な要件となってくるものと感じられます。

一般に女性の方が占いなどに敏感であるのは、それは比較的個人としての都合を優先することのできる世界で生きている方が多いからだろうと考えられます。
個人の固有のサイクルが、実際の生活において様々な形でリンクしてくるという実感があるからこそ、そうしたものに関心が向くことになるのではないだろうかと思われます。

一方で、個人の都合よりも組織や家庭の都合を優先的に考え、時間の過ごし方、食事のタイミング、休息時間などのすべてがそれらを中心に回っていくときには、個人が持っているものがリンクしてくる部分というのは、最小に限られてくることになるのは当然ということになるでしょう。
すると、大きな出来事は別として、個人として生きる世界は矮小化されていき、没個性的な世界となって来ざるを得ません。

組織において歯車としての個々の役割を通じて達成されるものが、それなりの意義が感じられるものであるうちは、個を超えた部分で個を犠牲的にして生きても、そこに十分な生きがいや満足を感じることができる筈です。

しかし、組織や社会というものが、そういうものを満足させるに足る内容を持たない時には、個は自らを単なる機械的な部品であり奴隷であるというようにしか認識することができなくなってしまうでしょう。

既にわたしにとっては関係のない世界のこととなってしまいましたけれども、今後は自分自身で自分の存在意義を見いだしていかなければなりません。
果たしてホロスコープは、それらを示す羅針盤としてどの程度まで機能していくのでしょうか。

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