霊的覚醒と神の意図

昨今のスピリチュアルブームにおいて、人々が追い求めてやまないものは何であるのかと言えば、それは霊的な覚醒ということなのだろうと思います。

しかし、霊的覚醒によって、何らかの素晴らしい能力や人生の展開がもたらされると期待しているのであるとすれば、そういうことはまったくないというのが、あらゆる覚者の言から分かります。

昨今のスピリチュアルなムーブメントにおいて標榜されている覚醒というのは、自分が苦しみや迷いから抜け出すことを専ら考えている小乗的な悟りに他ならないということを、反省的に意識しようという気持ちを、最近あらためて持ちたいと思うに至りました。

日本における仏教の主流はあくまでも大乗仏教ということになっておりますが、何故に日本には上座部仏教(小乗仏教)が馴染まなかったかと言えば、それは日本的霊性としての惟神(かんながら)の道にそぐわないからである、ということになるのではないだろうかと思われます。

もし、人間にとって霊的覚醒という課題が至上のテーマとなりうるのだとすれば、人類を無知蒙昧な状態で地上に放り出した神様という存在は、「どんだけサディストでひどい存在なんだ!?」と思わざるを得ません。

昨日、偶々東郷元帥の話が出ましたけれども、人類の歴史上において人の貴さというものを推し測る基準というものは、悟っているか否かではなく、悟っていようがいまいが、どれだけ人智を越えた神懸かった状態となって人類の進歩や幸福に貢献ができたか、ということに尽きるのではないかと思います。

己一人が悟りを得て娑婆の苦しみを解脱する、ということを専らの目標として生きる人間には、例え多少の覚醒を成し遂げたからと言っても、何の賞賛も与えられはしないし、当人にとっても何の生きがいもやりがいも感じることはないでしょう。

霊性を向上させるということは、勿論、非常に貴い行いであるわけですけれども、やはりこの日本に生まれた以上は、そうしたことに先だって「魂で生きる」ことによって、神なるものをほんの少しでも体現できるような生き方を目指す、ということが非常に大切なのではないか、と感じられます。

日本には、比較的近代でも中村天風という傑出した覚者がおり、東郷元帥をはじめとして、松下幸之助など歴々たる人物が薫陶を受けて日本や世界の大きなお役に立たれる功績を残されています。

社会をリタイヤして自分の生き方を模索する中で、ともすると独りよがりな霊性の向上ばかりに意識が向かいがちになってしまうのをあらためる意味で、今日は自分への反省という意味も込めて、上のようなことを書いてみました。
特に、欧米からの流れとして持ち込まれているスピリチュアルなムーブメントばかりに目を向けていると、そのような小乗的な詰まらない生き方に嵌まり兼ねない恐れがあることに、注意をする必要があるように感じられます。

最後に、最近読んでいる本で、小乗的悟りを得た人達へのインタビュー集のような本をご紹介しておきます。それを読むと、人間の第一義的な目標は霊的覚醒にあらず、ということが、反面教師的な形で感じることができるのではないかと思います。

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