惑星の開拓の余地
人生の意味、つまり生きていることの実感を何によって感じ取るのか、ということは、人それぞれに固有するものであり、一概にこうだということは難しいものでしょう。
それに、人は成長に連れてステージ毎に異なった課題意識を持つものでもあります。
しかし、人にとって自分が生きていることの意味を確認させてくれる、明確な課題意識を常に持っているというこは、非常に大切なことと思われます。
精神的に病むということは、生きることの意味が見いだせない状態にいるか、あるいはそれを見いだすことを諦めて放棄してしまった状態をいうのではないでしょうか。
また、もっとひどくなると犯罪であるとか、人としてあってはならぬ方向に誤った課題意識を持つに至り、自他の破滅行為に赴く人もままあることになります。
つまり、人生航路上において、正当な自己認識を喪失するということは、直ちに遭難や難破の危機に直面する恐れのある事態に自分を導きかねないことである、ということが言えます。
大半の人が何故に、社会の中で定められた軌道の上で人生を送ろうとするのか、ということの最も端的な理由は、社会から与えられた課題と役割に則っていれば、自己の存在理由と生活(=生命)の保持に必要な糧が与えられる、ということに尽きるだろうと考えられます。
しかし、そこにまったく問題がないのかと言えばそうではありません。社会という船は必ずしも全員に公平に役割を与えられる存在ではなく、必ずその船から落ちこぼれる人間を出してしまうということがひとつありますし、もうひとつは、社会そのものが遭難や転覆する可能性を持っているということです。
世の中に完全なものは存在しません。どこからどうみても安全に思えた大企業があっけなく潰れてしまうこともありますし、戦争や災害などを押し留める術を人間が持ち得ることはないでしょう。
昨今の精神的病者の増加というのは、社会システムのどこかに歪みが生じていることの証左であるとともに、経済的社会的システムが、地球の人口増加や諸外国の持つ政治的・経済的諸バランスの絶え間ない変動等により、極めて先の見通しが立たないものとなってきていることに起因しているところがあるのではないでしょうか。
人類にとって、危機というものは常に想定されているものです。しかし、自分が生きているうちは大丈夫そうだ、と思える時期と、自分が生きているうちに、ただちに重大な変革があるかも知れない、と実感される時期の二通りがあり、現在は正しく後者の時期に該当しているということが言えるでしょう。
さて、以上は前置きに過ぎないのですが、一人ひとりの人間にとって、何のために生きるのか、という課題意識が非常に大切であり、また、社会や世間の言うことに素直に従っていさえすれば身の安全が保たれそうだ、とは中々信じられなくなった時に、人は何によってそれを得なければならないのか、ということが今日書きたかった課題になります。
本題のホロスコープの話に移りますが、人間が人生上の各ステージにおいて、何を課題とするのか、ということは、基本的には惑星ごとの年齢域というものに表れてきます。
ある年齢域に該当する惑星に関する課題というものが、大体その年齢域の人にとっては中心的に意識されるものとなって来ます。
あくまでも中心的に、ということであって、それだけが、ということではありません。けれども、普通に考えればもっとも自然で似つかわしい課題がそこにあるということです。
惑星の年齢域については、ここでは言及しませんのでググっていただければと思いますけれども、該当する惑星に関する事柄がその人にとって、その時にフィーチャーされている主要な課題を表している、ということは、非常に普遍的な事実であると感じられます。
わたしが本当にお話したかったことは、惑星毎の年齢域の詳細についてではなく、人生のその時々の主要課題を示す惑星に向き合わなかったらどうなるのか、ということがひとつあります。
わたしは現在、木星の年齢域にいます。そこに至るまでの火星、太陽、金星、水星というのは、すでに旬を過ぎてしまっています。
惑星の年齢域を過ぎてしまうと、その惑星に関することについて、ある程度のことはできるのですが、そこに人生の生きがいややりがいを感じる程に真剣な気持ちで取り組む、ということは最早できないと感じます。
今は今直面している課題がありますので、それは当然のことです。ちなみに、月の年齢域については、もっぱら環境(主として母親)からの影響で受動的に形成されるものであって、自らが意識的に開拓するという性質のものではないので外しています。
わたしは非常に安定したお堅い組織に所属していたのですけれども、40代を超えた辺りから最も気になっていたことのひとつは、周囲の同年代の老け込み方が一様に激しすぎる、ということでした。
これは見た目だけの問題ではなく、人間としての中身がどんどん壊れたり腐ったりしていっている、ということが非常に顕著に感じられていました。
どうしてそのような事態になるのかと言えば、それは自分の生きることの意味を、社会と組織に丸投げをしてしまい、人間として適切に自己開拓に務めることをせずに、極めて機械的な生き方をしてきたからではないだろうか、と感じられます。
人間としての自己の完成に向けたたゆまない向上意識を持たずに、生活上の身の安定ということばかりを優先事項として生きていると、少なからずそうなってしまう恐れが誰にでもあるのだということです。
そして、年齢域を過ぎてしまうと、最早、旬を過ぎた惑星に関する人生の課題に取り組むことは非常に難しくなるということを忘れてはなりません。
ここからが、本当の本題です。
自分の場合は、現在木星の年齢域で、土星の年齢域までもそう遠くはありません。
偶々、早期退職という形で社会をリタイアしてしまい、親も既になく、家族も持たず、仕事も辞めてしまったという状況の中で、どういったことを人生の主課題に据えるか、ということは非常に重要であるとともに、非常な困難さも伴います。
ある見方をすれば、人生そのものを投げ捨ててしまったかのようにも受け取られかねませんし、ある部分は実際にそうなのかも知れません。
わたしの出生の木星は牡牛座の17度です。
(TAURUS 17 °): A SYMBOLICAL BATTLE BETWEEN “SWORDS” AND “TORCHES.”
(私訳):”剣”と”たいまつ”の間でなされるシンボリックな闘い。
剣というのはロゴスの象徴です。一方、たいまつは闇を照らす光であり、つまりは理屈を超えたところから来る直感や叡智というものを象徴していると感じます。
それらが戦っているというのは、要するに葛藤状態を表しています。17度も7関連の数字ですので、葛藤的な要素が含まれますが、その中で新たなものが産み出されるという性質の葛藤になります。
何が産み出されるのかというのは、牡牛座ですのでひとつの「価値観」です。
この世において価値が生まれるということを実態的に説明しますと、一つ上の次元で漠然と感覚されているにすぎないものを、この世的なロゴスによって捕捉することができた、ということになります。
もう少し詳しい言い方をすると、それまで何となくもやもやとしていたつかみ所のなかったものに、意味づけをしたり名付けをすることによって捕捉し、自由に使いこなすことのできる新しい価値観を産み出すことに成功する、ということを表しているイメージであると解釈しています。
牡牛座に正反する蠍座の17度は、((SCORPIO 17 °): A WOMAN, FECUNDATED BY HER OWN SPIRIT, IS “GREAT WITH CHILD.”)「自らの精神をやどした女性のお腹が大きくなる。」ということですから、牡牛座では自分の外側にあるものを葛藤の末に勝ち取ろうとしていますが、蠍座の方では、自分自身の精神を自ら受精して妊娠しているというのです。何れにせよ、何かを産み出す過程にあるものが両極的な形で示されているのだと感じられます。
要するに、わたしが現在の木星の年齢域で突き詰めようとしていることというのは、まだこの世に顕在化していない何かを新たに価値化する、ということであり、生き方としてそれを実際に体現してみせる、ということが課題なのではないかと思われますし、確かに自分の現状を俯瞰すれば、ちょうどそのような感じかなと思われます。
まだ数年ありますので、焦らずに、しっかりと木星域の課題をそれなりに物にしていけるように取り組んでいきたいと思います。
本当は、そろそろ土星や天王星の課題意識に向かっていった方がいいんじゃないか、という問題意識で書き始めたのですが、やっぱり今やるべきことに地道に取り組むのが正道と言えるかも知れません。
無論、その時の年齢域の惑星だけに凝り固まる必要はまったくないのですけれども、やはり主となるものがしっかりしていないと、すべてあやふやで中途半端に堕してしまうということになりましょうか。
長くなってしまったので、ここまでにしたいと思います。