戦争とは政治の延長であり 反日とは準戦争的行為に他ならない

戦争というのは、人命をもターゲットにした直接的な武力行使を伴う破壊行為です。
戦争とは、暴力行為によって相手側に自分達の要求を一方的な形で強制させることを企図した行為です。

また、政治というものは、自分側の意見を正当で主流なものであるように見せかけるためのあらゆる力の行使の形態というということができます。
戦争は政治というものの一つの手段であるわけですけれども、政治的なあらゆる手段というのは、戦争の前段階的なものであると見なすことができるのではないかと思います。

世の中から戦争がなくならないことが明らかであるのは、政治的な力関係というものが、国家や地域社会間のみならず、家族間やあらゆる人間関係における普遍的な力学として観察されるのですから、当然のことと言えます。

学校の友達、会社の仲間、また、家族の誰かに対して、その人の欠点などについて取り沙汰し、あるいは誇張や詭弁などを交えながら、ある人々を不利な立場に陥れることで、少しでも自分達の優位で、安定的な立場を守ることを意図した政治に類する行為は、社会のありとあらゆる場面で優勢的である、と見ることができます。

戦後一貫して日本に対する反日的言行を行っている国々がありますが、これは単なる嫌がらせを超えた、戦争の前段階的な行為に等しいと言ってもよいのではないか、と最近つくづく感じます。
要するに、それらの国々というのは、戦後の四分の3世紀もの間、絶えず日本に対する、戦争に類すると言ってもいいような、悪辣な政治的態度をとり続けている、ということになります。

日本国と日本国民は、原爆や空襲で何十万という日本人を虐殺したアメリカ国家やアメリカ国民に対して、その様な態度はほとんどと言っていいほどとっていないのではないでしょうか。

欧米列強がアジアを植民地として蹂躙し、自分たちの食い物にする行いが、自らに及ぶことを防ぐために、日本は立ち上がらざるを得なかったという面が少なからずあるというのは、誰の目からも明らかなことではないかと思います。
その結果、先の戦争には敗れたのですけれども、日本は自らのなすべきことを正当な権利として行使しましたので、敗れはしましたけれども、自らを恥じる必要は微塵もないわけですから、表面的にはともかく、本心では潔い態度を保ち続けることができた訳です。

一方で、欧米列強にいいようにされながら、自分では何もできなかった国々のリーダー達は、その自分たちの不甲斐なさを誤魔化すために、すべて日本が悪かったのだ、という論法で、自国の国民に対する誤魔化しをするより他なかったのではないかと思われます。

戦争というのは、理由がどのようなものであれ、勿論非常に悪いことに他なりません。
しかし、他国にいいようにされて、その累が自分の周辺の国々にも及ぶことを看過しながら何もしないでいることは、もっと卑怯で質の悪いことなのではないか、というような物の見方というのも必要なのではないか、と感じられます。
そうした自らの卑怯さを棚に上げて、自らが追うべき責任までも不当に他の国に負わせ続けようとしているのであるとしたら、それはどれだけ卑劣極まりない行為であると言えるでしょうか。

戦後70年以上も経った最近になって、そのような反日的言行が、部分的にはエスカレートしているかのような場面も見受けられるように思われます。

何故そのようなことになるのかといえば、それらの国々では、自分たちの国民を守れなかったバツの悪さというものを、日本に全責任をなすりつけるという形で転嫁することでしか、国としての求心力を保つことができなかった。それが、70数年という長い期間を通じて一貫してそのような極めて不甲斐ない形でしか自国の統治がなしえていない、ということを表しており、そのことはまさに驚嘆に値すべきものであるとともに、そのような国家が今後も持続的に存続しえるようには到底思えない、というのが正直な感想です。

どのような形であれ、戦争は数年のうちには必ず起きるのではないかと感じますけれども、日本に直接的に害が及ぶのであれば、日本は正当な権利を迷わずに行使すべきだろうと感じます。
無論、戦争など起きない方がいいです。けれども、我々は既に、先の戦争の責任を負うべき世代という訳ではありませんし、国を守ろうとした立派な祖先を不当に貶めるような言動に対しては、毅然とした態度を示していかなければならないでしょう。

平成が終わり、次の元号に移行するということは、日本国民にとっては、そのような新たな国としての段階を迎えることを意味することになってくるのではないか、と感じられます。

 

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