ハウスとサインの関係にみる陰陽の逆転
男の核(=魂)は女であり、女の核(=魂)は男である
このような事実はあらゆる神秘学的な考え方において、非常に普遍的な真実として語られているのではないかと思います
肉体の次元と精神の次元とでは次元界が異なり、次元をひとつ隔てると陰と陽は逆になると考えられますので、男は本質的には女であり、女は本質的に男であるということが、魂や霊といったものの実在を考える神秘学においては当然の真実となります
もしそのようでないとしたら、宇宙というものは決してバランスしないことになるでしょう
サインというのは天すなわち魂的な世界を表しているのに対して、ハウスというのは地である肉体・物質の世界を表しています
であればハウスとサインの考え方の中においても、陰陽の逆転ということが生じていなければならないことになります
ホロスコープのハウスというものは、地球の自転に基づいた1日を周期とするものであり、Ascは牡羊座のはじまり、Icは蟹座のはじまり、Dscは天秤座のはじまり、Mcは山羊座のはじまりとしてその対応が考えられています
すなわち、ハウスでは山羊座のはじまりを天頂として、すなわち太陽が最も高く昇る点として考えており、地球の自転に基づく1日周期の物質的次元界においては、そこに陽の極まりをみているということになります
また、ハウスの天底は蟹座のはじまりとして、すなわち太陽が最も深く沈み込んでいる点として考えられており、同じく物質的次元界においては、そこに陰の極まりをみている、ということになるでしょう
しかし、1年の公転周期に基づくサインの世界観においては、山羊座のはじまりが示す冬至点は、一年で最も太陽の力が弱まる陰の極大点を、蟹座のはじまりが示す夏至点は太陽の力が最も強まる陽の極大点となっています
山羊座の始まりの度数はこの世的に見れば陽の極まりであるが、魂の世界から見ると陰の極まりであるというように、異なる次元界において陰陽が逆転するという宇宙原理的なものが、ホロスコープのシステムにおいても、きちんと再現されているということになります
サインとハウスが天と地の対応であるという点には通常触れられているものの、その両者の間で陰陽の逆転があることについて明確に指摘している意見をわたしは読んだことがありませんでしたので、はじめのうちは少々混乱したところがあったものです
一般的にホロスコープに対する関心というのは、この世的な物事に対する関心というものが強いと感じられますけれども、わたしの様に魂の世界にもっぱらの関心を置く人の場合は、サインばかりを見てあまりハウスには関心を持たない、というようなことが自然と起きてくるのではないだろうかと感じています
その点を不審に思われる方がきっといらっしゃるだろうことについてはいつも考えていたところでしたので、今日はそこのところに触れてみたいと考えた次第です
わたしもハウスというものをまったく度外視して考えている訳ではなく、必要に応じては言及するのですけれども、魂の次元で生きることを考えた場合には、やはりその程度に応じて、ハウスが表す物質的次元における拘束を受けなくなる、ということがあるのだろうと感じています
魂の力を具現化しゆくことによって、この世的な次元における環境的制約に縛られることが少なくなり、むしろ環境を創造する側へと成長していくということですが、それは人間の本来の使命というのはそのような形における魂や霊の成長であるのだ、ということなのだろうと感じられます
そのような意味で、サインと密接に関わりのある季節の移ろいというものを敏感に感じ取りながら生きる姿勢というものの中には、自己の霊的な部分と積極的に密接に関わろうといった精神的態度が見られるということが言えるのではないか、と感じます
一方、その日その日の起きて喰って寝るという機械的な繰り返しの中で、動物的欲求を満たすことにばかり終始しているのであれば、その人の中では魂の世界というものは疎外されてしまっていることになります
そうしますと、サインによって色づけされた自身の魂の各部分を有効に活かすということにはつながっていかない人生ということになり、仮初めの一時的な欲望の充足感はあったとしても、真に幸福と言いえるものには、触れることさえままならないことになってしまい兼ねません
また一方で、我々は肉体を纏って地上に生まれ出た霊的存在ですので、現実界の事柄を疎かにしてしまうことにもやはり大きな問題があり、人生においてこの世的な成果というものを何らかの形においてはっきり残さないのであば、地上に生まれてきたそもそもの意味がなかったに等しい、ということになってしまいます
この世的に何事もなさないのであれば、生まれてきたこと自体が事実としてなかったも同然となるということは、精神的世界が一時的な気休めとして現実逃避の手段として用いられやすいことを考えます時、非常に肝に銘じて考えておかなければならない事柄であるように感じられます
昨今ではスピリチュアルな潮流の中で、瞑想や断食などの様々な精神世界のメソッドが一般化しています
わたしもそうしたものには敏感な方ではあります
けれどもそれらのメソッドは、この世における現実的成果として、人類の幸福や世の中の進歩に関わる偉大な貢献へと結びつく限りにおいて意味があるのだ、と言わなければならないでしょう
そのようなものが一切志向されないのであれば、如何なる精神主義的な習慣も、それは単に独り善がりな自己満足をもたらすだけの慰みと変わらないことになります
そこからは何の意義も見出すことはできず、結果的には自分自身の人生を一層無価値なものとすることにのみ役立つ、という結果しか得られない恐れがあります
そうした事柄について、最近はつくづくと自分自身の課題として考えさせられているところです