5月29日の満月 ♊9°ー♐9°

明日の5月29日の午後23時20分頃に今月の満月を迎えます

太陽は双子座の9度にあり、その光を月が正反する射手座の9度にて反射します

(GEMINI 9 °): A QUIVER FILLED WITH ARROWS.
(私訳):矢が満たされた矢筒。

(SAGITTARIUS 9 °): A MOTHER LEADS HER SMALL CHILD STEP BY STEP UP A STEEP STAIRWAY.
(私訳):自分の小さな子どもに急な階段を一歩一歩上らせる母親。

比較的身近な世界における知的探求心が旺盛な双子座の矢筒が矢で充たされています
この矢が知識や情報であることは言うまでもありません
あるいは様々な物事に対して持っている好奇心の旺盛さそのものを表しているとも考えられます
少なくとも自分が関心を持った対象を獲得できる力というものを持ち得ている段階です

また、この9という数字はタロットカードでは9番の隠者を表します

9というのは一桁では極大の数字であるとともに、奇数でありながら3という数で割り切ることのできる偶数的な要素を兼ね合わせた両性具有的な性質を持っています

極大に至ってしまったことで、それまで歩んできた道程をそのまま進む訳にも行かないという状況にあり、一種の危機感を覚えるとともに、進んできた道を振り返って確認し直すという受動的方向へも、未知なる次の段階へ進んでいくという極めて能動的な方向へも進むことが可能です

双子座は持ち前の旺盛な好奇心によって、様々な知識を蓄えることができました

しかし、ここでは知識を得る段階に留まっており、それを生きる上で活用を図る段階には至っておらず、自分が得た知識や情報という武器を自分や周囲の人のためにどのように役立てればよいのか、ということを考えることがこの時点の双子座の課題となるように思われます

そのような上位目標に向かえない場合には、旺盛な知識欲というものが知識をひけらかせるだけの自己満足的な目的にのみに空しく費やされる結果を来すのかも知れません

知への欲求が最高度に高まりながら、それを何のために求めているのかが未だはっきりせず、その回答が得られるまでは自分自身を持て余してしまうでしょう

一方で正反対の射手座9度では「自分の小さな子どもに急な階段を一歩一歩上らせる母親」ということであり、これは射手座の持つ指導者的な資質について語られていることは明らかです

射手座の持つ鷹揚さや尊大さというものは、教授や教祖や医者といった指導的立場に置かれた際にはじめて活きてくる性質であり、射手座の中には指導的立場にありたいという欲求があるものと感じられます

しかし、「自分の小さな子どもに急な階段を一歩一歩上らせる母親」というイメージにおいては、それが極めて親切な保護者的態度というよりは、幾分スパルタ的な教育者的な態度の方がわたしには強く感じられます

そして、ここで出てくる小さな子どもというのは、双子座9度を表しているようにも感じられ、その双子座的な子どもというのは、親に見守られていなくても勝手に自分で伸びていけるような自律的な成長力に長けた子どもであると感じられます

奇しくも双子座は3番目のサインであり、射手座は9番目のサインですけれども、9が3で割り切れるということは、3の二乗が9であるということであり、双子座が強い好奇心で物事を学ぶという姿勢が二乗されますと、学ぶことを学ぶ、つまり学び方の学習ということでこれは射手座的な教育方法というものに繋がっていくと考えられます

そして、この教育方法を学んで教授するという指導者的立場を取るのが射手座であるということは、サインと数霊との相関において大変面白い配置になっていると感じられるところです

この双子座と射手座の9度の軸において表現される真理というのはつまりはこういうことになります

双子座9度が、まず最初の段階で自分の知識の矢筒を一杯にすることができたのですけれども、その次なる段階に進むためには、自分の内発的な興味や関心や好奇心といった衝動に従っているだけでは駄目で、学習の目的を持ったり効率的な学習方法を学ぶために、それを教授してくれる指導者が必要となる、ということがひとつあります

一方で射手座が指導力を発揮する場合においても、ただ闇雲に教育をすればよいのではなく、教育というものは、生徒が自ら学んで成長する力を育むことである、ということに思い至らなければならないということです

しつけるような一方的なやり方で急な階段を上らせるというのではなく、教育される側の向上したいという欲求を高めてあげるような配慮が常に必要であるということです

お互いがそのような気持ちになり得たとき、好奇心旺盛な双子座は自身のより高い成長の機会を見出しますし、射手座の方も教育される側の自律的な伸びる力に焦点を当てることができた時、真の指導者足ることができるということになります

相互に尊敬と信頼の念を抱き合えたとき、この二つのサインは互いを完全に補完し合い、偉大な成果に至る可能性がそこではじめて見えてくるということになります

昨今はマニュアル社会で、手軽なガイドに対する需要が非常に大きい訳ですけれども、体系づけられて合理的に整理された教授内容というものは、呑み込みやすい反面きちんとは消化吸収されず、咀嚼力も育たないため現実場面での応用力はまったく培われることはありません

師という存在が生徒に迎合してしまったら、そこには真に人を育てるというような教育というのは決して生まれて来ないでしょう

従容録(しょうようろく)という禅語録の第十八則に「趙州狗子」という説話があります
他の禅語録にも多少異なるバーションで出てくる大変有名な公案ですけれども、わたしはこの従容録に引かれているものが非常にいいと感じます

「 挙(こ)す、僧趙州(じょうしゅう)に問ふ、狗子(くし)に還(かえ)って仏性(ぶっしょう)有りや也た無しや。州云く、有。(中略) 又僧有り問ふ、狗子に還って仏性有りや也た無しや。州云く、無。(後略)」

あるお弟子さんが趙州という大変高名な禅僧に対して、「犬にも仏としての本質としての仏性は備わっていますか?」と聞きます。そして趙州は「有るよ」と答えます。
そして、また別のお弟子さんが同じように問いますと、今度は「そんなものは無い」と趙州は答えました。

禅で得ようとする悟りというものは、そもそも語り得るような種類の知識ではない訳ですけれども、何事におきましても、何かをきちんと体得させようと思えば、あまり懇切丁寧に教え過ぎることは、還って相手を駄目にする行為となります

それは、相手が自分の力で物事を解決していけるような力を育てることにつながらないで、弟子が師に依存する体質だけを強化する結果しか招かないからであり、それは極めて商業主義的な教育の在り方ということになるでしょう

何とかセミナーとかで高額な授業料を払って知識だけを一通り教わって、それで、ハイわたしはプロです、と言ってすぐに商売をはじめるようなやり方が、どんな分野でも流行っていますけれども、間違いなく暇つぶしにはなるのでしょうけれども、長い目で見れば結局は時間とお金の無駄使いにしかならないようにも感じられます

話が逸れましたけれども、今度の満月では、何か一生懸命学んでいるものや追究していることがありながら壁に突き当たっていらっしゃるような方は、自分の殻を破って次のステージに上がれるためのヒントが、その道のエキスパートやハイヤーセルフから得られるように願ってみるとよいかも知れません

 

 

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