6月のついたち詣り 宮地嶽神社と花菖蒲
一昨夜はいつものように6月の一日参りのため、宮地嶽神社を訪れました
今、境内は見頃の菖蒲の鉢によって埋め尽くされています
ネットで菖蒲の花言葉を調べますと、「嬉しい知らせ」や「優しい心」、「信頼」といったもののようです
確かに、菖蒲の花には凜とした佇まいの中にも、繊細で控え目な可憐さも備えていて、そのような花言葉が似つかわしいと感じられるところです
いつものことながら、このように深夜に訪れる神域というのは実に清々しさを感じさせるものです
深夜と言いますのは、心のチャンネルがこの世的な物事から最も離れる時間帯であり、そのように顕在意識に代わって潜在意識的な働きが優位となってくる時に、神域のような場所で自己の中の深い霊的な意識と交信を行うにはうってつけのシチュエーションであると感じられます
そのように一定の間隔で同様のシチュエーションを迎える中で、自身の肉体面や精神面の変調や伸長度合いというものを確認することができ、自分自身のニュートラルで自然な立ち位置に常に立ち返ることに役立てることができます
日頃は何らかの社会活動によって、人間の心は様々な外的な刺激に振り回されてしまい勝ちですので、それによって知らない間に本来の望ましい軌道から離れて道を踏み外していくことになり勝ちです
日々の瞑想などの手段によっても、一定のリセットを図ることは可能な訳ですけれども、日課というものは気をつけていてもどうしても習慣化して惰性に陥りやすい面も持ちますので、一日の間に生じたブレをある程度軌道修正することはできるのですけれども、意識することのできない非常に小さなバイアスによって中長期的にもたらされる大きな軌道のズレというものを修整することは中々出来ません
そのようなズレは、師の様な存在がいて大局的な見地から正してもらうのでなければ、あとは健康上や運気上のトラブルなどが生じてきてはじめて気づかされるようなことになり勝ちです
このような非常に大きな偏りと言いますのは、実は、自分で正しいと考えているビリーフによってもたらされることが非常に多いのが特徴的であるとわたしには感じられます
生活方針の中で、これは絶対に正しいし良いことだ、と思われるような事柄に対して、人間は非常に無反省で偏った取り組み方をしてしまいやすいので、結果的には全体的なバランス性を損ない、終いには行き詰まってしまう結果を招きやすいように感じられます
特にわたしのように生真面目でストイックな性質をもたれている方には、そのようなことの覚えが多くあるのではないでしょうか
かと言って、フランクで適当な形でばかり生きていても、今度は良からぬ誘惑の力によるバイアスによって、人生の軌道のズレはやはり生じてきてしまうでしょう
ですので、近所の神社で構わないので、最低でも年に2度の大祓い式には絶対に参加した方がよいと言えます
今から3週間弱で、早くも陽の極大ポイントである夏至を迎えることになりますけれども、12月の冬至と6月の夏至のある月の月末に、神道では年越しの大祓と夏越しの大祓という神事を斎行します
毎月の1日や15日にはどこの神社においても月次祭(つきなみさい)が斎行されますけれども、休日と重ならない限りは昼間の時間帯に斎行される神事に出るのは難しい方が多いでしょうし、かと言って、宮地嶽神社のように深夜0時からそれを斎行してくれる神社はそうは見当たらないでしょう
大祓い式も必ずしも休日に斎行されるとは限りませんけれども、それでも、幾つかの神社を調べれば、必ず都合のつく時間帯に神事を行ってくれる神社は見つかるのではないかと思います
わたしも宮地嶽神社で月参りをするようになる以前は、この年2回の大祓い式への参加によって、半年間の来し方を振り返って軌道修正をするための、極めて貴重な機会を得ていたところです
しかし、やっと寒い季節が終わって漸く春になったなと感じ始めたのはつい最近のことのようにも思えるのですけれども、もう3週間もすれば、太陽がもっとも高く上る時を迎えるというのですから、実に時間の進み方というのは早いものです
ということで、今月も心身の健康を壮健に保ちながら、少しでも実りある時を過ごせるよう心掛けたいと思います