精神的生き方への回帰 ~虚無からの離脱~

はじめに

相変わらず世界レベルで見ますと新型コロナ渦の収束の見通しはまったくつかず、次第に経済への深刻な影響も懸念されてきており、長期にわたって世情が不安定化しているところです

このような長期にわたる大きな影響は、目に見える経済ばかりではなく、人の精神的なあり方にも大きな影響を与えることになるのだろうと感じられます

また、世の中の結束が求められて然るべき昨今のような状況下にも関わらず、世の中では犯罪や自殺などのネガティブな事象がむしろ増え、現代社会が抱えている脆弱な部分が露呈されてきているようにも感じられるところもあります

現代社会において主流となっている唯物的な考え方というのは、心の満足ではなく五感を通じた肉体的満足を強く志向することによって、心の空虚さ、虚無感を生み出すとともに、必然的に虚無主義的なあり方やニヒリズムへとつながっていくものと考えられます

物事の表面的な目に見える部分だけに捕らわれていますと、世の中や人生において、実質的に価値あるものは何も存在しないと認識されるようになり、倫理的、道義的な視点から自らの行動を抑制・制御することをしなくなります

つまり良心や本心といった人間の本質的な部分がまったく機能しなくなり、善と悪の間にあるべき敷居がなくなってしまうので、非常に安易な形で不道徳的な行為に走りやすくなっているのだと感じられます

このような虚無主義的なあり方は、近年では犯罪などのネガティブな方面ばかりではなく、無意味な価値のない馬鹿げたことに打ち興じるという、表面的な明るさを纏った新しい虚無主義の形態として広く一般化してきているように感じられ、YouTubeなどにおいては如何に価値のないことをして楽しむかを競い合っているような部分があるように感じられます

馬鹿げた無意味なことをして鬱憤を晴らすというようなことは、フラストレーションの解消方法として昔からよくあることですけれども、昨今のものはそうしたものとは性質が異なっており、人生というものの無意味さというものをニヒリスティックにあざけり笑っているようにも受け取れます

洋の東西における文化的違い

上の様な状況を打開していくために何が必要なのかを考えるのに先立ちまして、そもそも唯物的な考え方をする西洋人と、本来的には精神的なあり方をしてきた日本人における、人としてのあり方の違いというものを、まず考えてみたいと思います

一般的に西洋人の自我というのはその独立性が強く、日本人のそれは反対に弱いということが言えるでしょう

西洋におきましては、自我というものを個性的で独立性の強いものとして確立することに価値が置かれており、教育によって知識と思考能力とを獲得することによって、それを実現しようとします

西洋においては、教育を通じて知識や能力を「付け足す」させることによって、はじめて人が人らしくなっていくという認識があるように感じられます

一方で日本人の自我というものは、むしろ自我を弱める方向性というのが指向されており、それによって中庸的精神、すなわち和の心が培われることを目指していると感じられ、「言挙げしない」とか「賢しらをしない」ということを重要視し、それによって周囲や全体との調和を優先しています

要するに日本における本来の教育というのは、西洋のように個的な能力を強めることを優先的に考えることに対してはどちらかというと否定的であり、自己中心的な心の働きを抑制的にコントロールすることを通じて、周囲との調和能力を培おうとし、それを損なうような自己中心的な心の働き「取り除く」ことによって、人ははじめて人らしくなると認識します

ルドルフ・シュタイナーには自我に関して次の様に語っています

『東方では、このような方法で目覚めた自我は見出されませんでした。東方では、人間がすでに主観的に人間的完成の高次の段階へと進化しており、自我は見知らぬものではなく、自分自身のものとして感じられました。東洋の人間が自我に目覚めたとき、東洋文化はすでに高度に洗練されており、わたしたちが東洋の叡智として知っている、緻密な思弁、論理がしだいに発展していきました。』

要するに、西洋において自我は後天的に獲得されていくべきものとして感じられ、東洋においては自我は生得的なものであり、むしろ環境との調和を考えればそれは薄めていくべきものとして感じられる、というこのように感じられます

思想のあり方の違い

教育というのは個人が外的環境に対応していく際の最適な方法論に基づいている訳ですけれども、西洋においては個人の能力を高める方向で外的なアプローチ能力の育成が意識されますけれども、日本においては心を整えるという内的なアプローチ能力の育成が意識されていたと感じられます

西洋思想では普遍的真理への飽くなき探求とともに、それを外的環境において実現するための方法を探しますけれども、それは結局のところ唯物的で物質主義的な科学主義的傾向というものを作り出します

日本の場合ははそもそも精神主義的なあり方をしているのであり、本心や良心の発現を妨げてしまうような利己的な要素を抑制的にコントロールし、環境との調和を実践主義的に見出そうとします

現在の日本においては、もっぱら西洋的な教育方法だけが意識されていますけれども、西洋人のように元々唯物的なあり方をしている訳ではなく、精神的なあり方をしている日本人がもっぱら西洋的な唯物的教育に染まりますと、ルドルフ・シュタイナーも、日本人は古代の霊性の遺産として、精神の柔軟さ・活発さを持っており、それが欧米の唯物論と結び付くと恐ろしいことになる。』と語っていましたように、大変に深刻な弊害がもたらされる可能性があります

弊害として考えられますのは、元々精神的なあり方をする日本人が、東洋的思想によって精神を涵養する習慣をなくしてしまい、挙げ句に唯物的な考え方に染まってしまうと、激しい虚無感に苛まされる可能性が高いのではないか、と考えられることです

精神的なあり方をするというのは、心を通じて物事を内的に経験するということであり、環境との調和を図る場合にも、主に自分の心のあり方の方を環境の方に合わせようとします

そうした精神のあり方は繊細かつ複雑なものとなりますし、そこには常に精神的な大きな負担が掛かってくるということになるでしょう

その場合に、東洋的な思想により適切に精神が涵養され、心のしなやかな強さが養われていないと、精神は容易に機能破綻を来してしまうことになるのではないでしょうか

西洋人の場合は、普遍的真理を外的環境において実現しようと様々な物質的文化を作り出したり、また外的環境の方を自分たちの都合に合うように変えることを第一に考えますので、物事に対してさほど深刻にもならず、比較的短絡的なあり方をしているように感じられます

本来的により精神的なあり方をする存在の方が、余計に精神的な負荷を感じていると考えれば、西洋人よりは東洋人の方が、そして男性よりは女性の方が、精神的な問題に悩まされやすい傾向を持つと考えられ、虚無感に囚われてしまった場合に、男性的なタイプは非行や犯罪の方向に、女性的タイプというのは鬱や自殺などの方向に赴きやすくなってしまうのでしょう

唯物的あり方が招くもの

地の時代において発達した唯物的傾向の強い社会が、人間の精神に対して非常に破壊的であることは、現代における精神疾患や薬物の乱用、そして自殺などの増加によって示されていると感じられます

精神疾患というのは心的機能が何らかの原因によって健全に働かなくなってしまうことであり、薬物依存というのは、失われてしまった心の自律的な健全な働きを、外的な力に依存することでその場しのぎ的に安定させようと試みることと言えるのでしょうか

唯物的な世の中におきましては、人生の成功と失敗のどちらもが等しく、結果的には人を虚無感に追いやってしまうと考えられます

例えば芸能界のように、金や名誉といった唯物的価値観が特に強く支配している社会においては、自らの成功が精神的な深い満足をもたらさずに、むしろ成功すればするほどに、その唯物的なあり方を維持して更に強めて行かなければならないという世間や周囲からのプレッシャーに晒され続けることになります

この唯物的価値観に偏った世の中においては、周囲から見て一見順調に見える人生が、本人にとって実質的にはまったくそうではなく、唯物的価値観に基づく順調さを維持し続けることの周囲からのプレッシャーに真面目に応え続ければ続ける程に、心は虚していき霊肉のバランスが大きく崩れていくことになるでしょう

ですから一見何の問題もないように見える、むしろ順調で成功しているような人生においても、ある日突然に不幸な結末がもたらされる、ということが起こりえるのではないか、と感じられます

ある程度物質主義的な生き方に対して免疫があるというか、元々向いているような方においては、問題はさほど深刻にはならないかも知れませんけれども、本来的に精神的に生きるべきようなタイプの場合は問題です

特に、その人が生真面目さや素直さなどの性質が強く、周囲がすすめる唯物的な生き方に疑いもなく従ってしまい、そして周囲の期待通りに成功してしまうと、そこには非常に大きな悲劇が生まれてくる可能性があるということになるでしょう

精神的な生き方に回帰する

東洋思想の主立ったものと言えば神仏儒(神道、仏教、儒教)ですけれども、その他に道教などもあります

東洋思想というのは基本的に人間の本体は心であると見なし、その心というのは宇宙や自然の気との直接的なつながりを持ったものと見なしていますので、西洋のように個を中心としてそれを独立したものとして捉えるような発想とは根本的に異なっています

東洋思想では目に見えないものの価値を重要視して、形あるものに囚われることを戒めながら、転変激しい世の中において決して物事に振り回されることなく、柔軟な心で物事に対処していき、落ち着いた強い心を育てることを目指します

物質文化を築くことを目標とする西洋とは反対に、心の状態を最も理想的に保つという精神的課題を東洋では目標としており、それは心のバネを持ったしなやかで粘り強い精神性というものを産み出します

江戸時代の臨済宗の禅僧である仙厓(せんがい)和尚は、民衆に優しく禅の教えを説いて教える為に、よく書画を書いたということですけれども、この書画の「堪忍」の言葉の反対側には「気に入らぬ 風もあろうに 柳かな」という歌が添えられています(画像は出光美術館HPより拝借)

人間の心というのはとかくに好悪の感情というものを抱きます

それは人間が生きていく為に必要な心理的機能として備わっているのであり、何かしら事ある毎に好悪の情が湧いてくるというのは、心の持つ自然作用の結果に過ぎません

けれども、心が狭く神経質になっていると、やたらに何にでも無条件に心が反応してしまい、その好悪の感情によって心が振り回され、荒々しく波立ってしまいます

この風は心地良いなぁとか、好もしい感情の場合はよいですけれども、冷たい強い風などに吹かれると、つい、何だこん畜生寒いじゃねえか、などと悪感情が湧いてきてしまいます

この好悪感情というのは、単に心の自然の作用に過ぎないのですけれども、人はそれに必要以上に囚われてしまい勝ちです

例えば、往来ですれ違った人や、入ったお店の売り子さんであるとか、人との接触に際してもこうした好悪感情が多かれ少なかれ生じて来たりするのですけれども、その好悪感情というのは自然に発する作用に過ぎないにも関わらず、陰気な嫌な目つきをしてすれ違いやがったとか、無愛想な顔で会計しやがってとか、そこに更に余計な悪感情を自ら上乗せして、自分自身を一層面白くない状態にさせてしまうというような困った癖というものが人にはあるところがあります

こうした好悪感情のほとんどというのは、接した相手や出来事などに原因があるのではなく、単に自分自身の心の状態に起因して生じてきているのだということに、中々人は気づけません

わざわざ人を不愉快にさせようと始終企みながら生きている人など世の中にそうはいない筈ですし、自分が嫌な気持ちにさせられたことに関して、相手が故意にそのようにしているようなことはほとんどないと言えるでしょう

実際には、自分の心の中がごちゃごちゃしていたり、不平や不満に満ちいたり、身勝手な欲望に満ちていたりなどするから、物事が一々面白くないように感じられてくるだけのことなのです

仙厓さんの書画の中で吹いている風も、そしてその風をふわりと受け流している柳も、ともに無心です

ここでは堪忍するということは、我慢をするということよりも、物事を無心で受け流して、敢えて関わり合いを自分からつけないでやり過ごすことなんだよ、と教えているのでしょう

堪忍や我慢ということも非常に大切な心掛けではありますけれども、もっと上手な心の工夫の仕方があるのだということを優しく教え諭してくれているようにわたしには感じられました

世の中の出来事のほとんどはニュートラルで中立的なものなのですけれども、人間はやたらとすべての事柄を、一々自分自身と関係づけてそこに余計な感情を付け足してしまいます

そういうことを繰り返しているので、次第に神経がすり減って疲れてきてしまうのですけれども、現代人というのは植木鉢がカラカラに干涸らびているにも関わらず、それを放っておいて更に枝葉を立派に繁らそうともがいている頭でっかちな存在なのかも知れません

植木鉢の中の見えていない土の中の根っ子の部分というのが、人間で言えばに当たり、枝葉は見えている外面的な部分です

東洋的な叡智を吸収して心に栄養と休息を与える心への水やりという習慣が、今日では実に不足しているのだと感じられます

なまじ豊かさがあるせいで、物事を我慢する習慣がなくなってしまい、冷静に考えればどうでもよいことに一々目くじらを立てて腹を立ててみたり、落ち着いてよく考えれば別に必要でもないものを、それが欲しくてたまらなくなってしまったりと、自らをわざわざ急がしくさせて無駄な精神力を浪費してしまっています

無駄に精神を消費する習慣というものが、如何に自分の大切な命を著しく損ねることにつながるのかということを、今一度よく考え直してみなければなりません

最後に

結論としましては、とにかくまずは唯物的な生き方への執着を弱めることが先決です

世間の風潮に煽られて、知らぬうちにお金や名誉などを必要もないのに欲してしまっている競争的な心の状態というのを何とかしなければなりません

そのためには、人間にとって真に必要な価値あるものとは何なのか、ということを学ぶ習慣というものを持たなければならないでしょう

その際に、スピリチュアルを謳っているスピリチュアリズムに関しましては、実質的には物質主義的な満足を得ることを目標としている、商業主義的なものが非常に多くあることには注意を要するでしょう

例えば神社参拝などにしましても、現世利益ばかりを求めて神社仏閣に行くのであれば、それは物質主義的生き方の延長に他ならず、結果的には却って心を貧しくさせていくことにしかつながらない恐れがあります

スピリチュアルな知識や力を用いて、魂の成長ではなく、現世利益的な事柄の成就ばかりを追い求めるものを黒魔術と呼ぶ訳ですけれども、巷のスピリチュアルなもののほとんどは黒魔術的なものであるのではないでしょうか

そういうお手軽感のあるものに次々と手を出していくようなことをするよりは、古来からある智恵に学ぶことの方がはるかにいいでしょう

占いの中でも易は儒教の聖典である易経から発しているものですので、そうしたものを通じて東洋的なものごとの捉え方や考え方に親しんでいくことは大変よいかも知れませんけれども、わたし自身も深くは学んでいませんので、残念ながら良書をおすすめすることができません

けれども占い全般について言えることとしまして、占法などではなくてバックボーンにある哲学的な部分を学ぶことこそが非常に大切なのではないかと思いますし、しっかりとした人生哲学を持たないで人を正しく導くことなど決してできることではないということは、クライアント側の立場としてもしっかりと踏まえておいた方がよいことのように思われます

 

ということで、最近の世情が気になりましたので、虚無からの離脱ということを念頭に少し書いてみたところです

多少なりとも参考になりましたら幸いです

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