人間の本質とは ~何故簡単に騙されてしまう人々がいるのか~

はじめに

目が覚めている方々にとりましてはまったく信じ難いように思えることですけれども、世の中には子どもでもすぐに分かりそうな第三者の意図的な嘘に、簡単に騙されてしまい羊のように大人しく従ってしまっている、非常に多くの方々というのがいらっしゃいます

そうした方々が何故、そのように簡単に騙されて利用されるがままになっているのか、ということに対する答えというのは非常に簡単であり、何故ならそうした人々はまず最初に自分自身を偽り、自分の本心を誤魔化しながら生きることをすでに習慣化してしまっているからだ、と言うことができます

自分を騙すということはつまり、自身の本質的な部分から目を背け、本来備わっている自身の精神的力の偉大さをまったく顧みずに、それ以外の外的な力に依存した生き方を指向するような生き方をしているということになります

今回はそのような事柄に関しまして精神主義的な見地から実質的な部分に根ざしながら考えてみたいと思います

霊主体従と体主霊従

人間が本来目指すべきであろうと考えられる精神主義的な生き方と言いますのは、結局のところ霊主体従的な生き方というところに行き着く訳ですけれども、本格的に霊主体従の生き方が可能となるためには、世界が半霊半物質の世界へと移行し、人間も半霊半物質の肉体になることが必要となるでしょう

ではもし、世の中が半霊半物質の世界に移行した場合に、霊主体従というのは実際にどのような在り方、生き方ということになるでしょうか

現在の世の中では、肉体が顕として現れ、精神は幽として隠れている訳であり、人々は外に現れている肉体的・物質的な部分に主たる意識をおいて生活しており、心の中というのは他人から直接は垣間見られることのない、自分の中だけの隠された世界であるように認識されています

ですから、自分の身分や収入などのステータス、衣服や持ち物、化粧やアクセサリーなどの外面的な要素を繕うことなどに対しましては、とても熱心に精一杯の努力を惜しみなく注いでおります一方で、肝心の内面の心の方はと言いますと、恐れや不安や怒りや悲しみ、そして嫉妬や自己憐憫や煩悶、取り越し苦労などのネガティブな想念が、まったく散らかり放題のまま放置され勝ちになってしまっている、というようなところがあります

今の世の中では、自分の見た目ほどに自分の心の内容に気を留めて、それを正して清く明るくしようということをきちんと習慣づけている人というのはさほど多いとは言えないのが現状ではないでしょうか

こうした現状と言いますのは、人間の本質的部分が永遠の生命を持つ霊であることから考えれば、物事というのがまったく上下逆さまな世界になっているということになります

ですから日月神示におきましても次のように書かれており、同趣旨の言葉は他にも多くの箇所に見受けられます

「・・・上下にグレンと引っくり返るぞ。上の者下に、落ちぶれた民上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明け近づいたから、早う身魂の洗濯してくれよ、神の申すこと千に一つも違わんぞ。」(上つ巻 第二十帖)

上下にグレンと引っくり返ると申しますのは、要するに世の中のこれまでの価値観が180度反対に引っ繰り返って、体主霊従の世の中から霊主体従の世の中になると言うことになるのだろうと感じられます

霊主体従の世界と言いますのは、精神の部分が顕となって肉体の部分が幽となる、ということになりますので、皆さんの心の内容というのがハッキリと他者から丸分かりになるような状態になる、ということに加えまして、心で思ったことがすぐに実現化してしまう、ということになるものと考えられます

もし、今そのような世界に直ちに移行してしまいますと、現在の人の心は自己中心的なエゴと欲望とにまみれていますので、とんでもなく混乱する世の中になってしまうということは、火を見るよりも明らかなことではないでしょうか

今のように他者への批判心や怒り、嫉妬の心を欲しいままに燃やしている人々の心の内容が、直ちに実現化してしまうとしたら、一体世の中はどのようなことになってしまうか、また、自己否定や自己憐憫の心というのものも、それによって意図も容易く己自身の命を奪ってしまう結果を招くことになってしまうということは、容易に想像がつくのではないでしょうか

それではまるで阿鼻叫喚の地獄絵図のようになってしまうことになってしまいますので、それで日月の神は「早う身魂の洗濯してくれよ」というように仰っている訳であり、身魂の洗濯とは心の曇りや穢れを取り除くということであり、そのようにして来たるべき半霊半物質の世界、霊主体従の世界に早急に備えることが人類に求められているのだと感じられます

このブログにおきましても、そのような身魂の洗濯につながるような内容、人間の本質が霊であり、精神的要素を先立てた生き方の確立に資するような内容につきまして、これまで発信をさせていただいて来ている訳です

日月神示におきましては、神示を読むことで心の穢れを祓うことができると説かれており、現在のような混迷を究める世情を考えますと、心の安心を得る上でも、この神示に触れることは非常に大切なことであるように感じられます

この神示読むとミタマ磨けるぞミガケルぞ。神示読むと改心出来るぞ。暮し向きも無理なく結構に弥栄、弥栄えるぞ。まだわからんのか。苦しいのは神示読まんからぢゃ。金の世済みて、黄金(きん)の世来るぞ。・・・わからんでは済まん時来ているぞ。いざという時は日頃の真心もの言うぞ。付け焼刃は付け焼刃。神拝むとは、頭ばかり下げることでないぞ。内の生活することぞ。内外共でなくてはならん。残る一厘は悪の中に隠してあるぞ。・・・」(黄金の巻 第二十三帖)

「めぐり」について

日月神示には「めぐり」という言葉が非常にたくさん出て参りますけれども、これは平たく言いましたら「心の曇りと穢れ」であると言えるでしょう

神示はちっとも違わん。違うと思うことあったら己の心顧みよ。その心曇っているのであるぞ。めぐりあるだけ神がうらめしくなるぞ。めぐり無くなれば神が有り難いのぢゃ。人間無くて神ばかりでは、この世のことは出来はせんぞ。神が人間になって働くのぞ。わかりたか。新しき神国が生れるまでめぐりばかりがウヨウヨと、昔のしたことばかり恋しがっているが、そんなこと何時までも続かんぞ。三年の苦しみ、五年もがき、七年でやっと気のつく人民多いぞ。・・・拝み合うことは理解し合うことぞ。手合せて拝むばかりでは何もわかりはせんぞ。何故に心の手合わせんのぢゃ。心の手とは左行く心の手と右行く心の手と和すことぢゃ。サトルことぢゃ。苦しんで苦しんで苦しみぬいて得たことは楽に得たことぢゃ。その楽に得たことのみ自分の身につくのぢゃ。血ぢゃ。肉ぢゃ。」(黄金の巻 第十三帖)

「世界の人民皆改心せよと申すのぞ。どんなめぐりある金でも持って居ればよいやうに思うて御座るなれど、めぐりある金はめぐりそのものとわからんか。家の治まらんのは女が出るからぞ。夫立てると果報は女に来るぞ。天界に住む者は一人一人は力弱いが和すから無敵ぞ。幽界に住む者は一人一人は力強いが孤立するから弱いのぞ。仲よう和してやれと申す道理わかりたか。そなたは何万年の原因から生まれ出た結果であるぞ。不足申すでないぞ。」(黄金の巻 第七十二帖)

「・・・世の元から出来ているミタマの建て直しであるから、一人の改心でも中々であると申しているのに、ぐずぐずしていると間に合わん。気の毒出来るぞ。めぐりと申すのは自分のしたことが自分にめぐって来ることであるぞ。めぐりは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん。・・・」(黄金の巻 第七十七帖)

こうした「めぐり」というのは誰にでもあるものであり、ある意味ではこの「めぐり」があればこそ、それを禊ぎすることで魂は成長していける訳ですけれども、これは以前ご紹介した松原泰道師の「煩悩は悟りの資本」というお話にも通じている事柄です

どれだけめぐりがあるかということに先立ちまして、めぐりという心の曇りを払拭する努力を習慣化して生きる姿勢の確立ということこそが、最も大切で肝要なこととして考えられなければならないのでしょう

さて、しかしながら世の中には、このブログを訪れて下さる皆様のように真剣に真理を探し求めていらっしゃるような方々ばかりではなく、真理への関心を持たないどころか、その想念と言動によって積極的にめぐりを作っているような方々というのもまた多くいらっしゃる訳です

そうした方々と言いますのは、心の曇りがひどいために真実を感知することがまったく出来ない状態となってしまっている訳であり、そのような方々が物事の真実を捉えることができませんのは、単に正しい知識を知らないが為に判断を間違っているのであろうということとは、少し事情が違っているのではないかと感じられます

心の曇りによって、真実の物事が見えなくなってしまう状態について考えてみたいと思いますけれども、学校などの勉強に際して「暗記シート」というものを使われた経験というのはどなたでもおありであろうかと思います

暗記するべき箇所を赤字で書いて、その上から赤い色のシートで覆いますと、黒字の部分は見えますけれども、赤字の部分はすっかり隠されて見えなくなります

心の曇りが強いために、悪い人間に簡単に操られていいようにされてしまっている方々と言いますのは、ちょうどそのような形で心の目にフィルターが掛けられてしまっており、その人々の目からは真実というものがまったく覆い隠されてしまっているので、その心の曇りを取り去らない限りは、それらの方々を真実に気づかせることというのはできないところがあるのだと感じられます

そのような心のフィルターというのは、自己中心的に自分の保身を第一に考える人達の心に掛かっている幕のようなものだと言えます

自己の保身を第一に考え、人間らしくあることを二義的に捉えているような方々と言いますのは、自覚のないまま悪に染まってしまいます

世の中には、意識的に悪を行う人々もいらっしゃいますけれども、実はこのような自覚的に悪を行う人の方が、自分のしていることをきちんと自覚できているので、何れ機会が来ればそのような人達というのは改心する可能性というのも期待できる訳です

このことは日月神示におきましても、「悪は改心早いぞ」というように記されていますけれども、すっかりの悪というのは意外に潔いところがあるのだと思いますし、力を持った悪ほど、改心をすれば大きな善的な力も発揮できるということもあるでしょう

一方それに引き替えまして、中途半端で無自覚な悪と言いますのは、「これは○○だから仕方がない」、とか、「皆もやっているのだから・・・」というように、様々な屁理屈を捏ねくり回しながら小さな悪に目をつぶってしまうことを無意識的に習慣化させてしまっています

そのように自分自身を欺きながら無自覚的に悪を行じることを習慣化させてしまう小市民的な人々と言いますのは、そもそも自覚がありませんので、改心ということが非常に厄介で難しい存在である、ということになります

そもそも、世の中を悪が支配するためには、そのように容易く悪に手玉に取られてしまうような無自覚的な悪の存在というのが必要不可であり、そうした人々がいなければ悪が世の中を支配するようなことはそもそも不可能になるのかも知れませんし、少なくとも世の中の全体が悪い方向に進んでしまうようなケースにおきましては、常にそのような大人しく悪に騙されて従う羊のような存在というのが不可欠と感じられます

自分の本心や良心の声に対して背を向けて耳を塞いでしまうことを習慣化してしまうということは、世の中の真実の一切から積極的に目を背ける努力をしていることと等しい訳ですけれども、それがやがて無意識下で習慣化してしまうレベルまで進みますと、真実をすっかり覆い隠してしまうようなフィルターに心が覆われてしまうことになるのだと感じられます

そのようにならない目の覚めた方々の場合と言いますのは、本心や良心から自分が離れていることへの自覚があり、時折は本心や良心の声に耳を傾けようというような気持ちがあって、真実について自分なりに探し求めたり考えて見たりというように、心の曇りを自分で拭い去るような努力をしているがために、そのようなフィルターが形成されてしまうようなことがないのだろうと感じられます

すべての元凶は恐れと不安にある

すでに目が覚めている方々につきましは、それぞれが自分なりに真理に目を向けたり日月神示を読むなどすることで、心の曇りを払拭していくことができますけれども、それ以外の本心や良心からすっかり遠ざかってしまい、自分の本心や良心に至る道を完全に見失ってしまっているような方々が目を醒ますためには、一体どのようなことが必要となるでしょうか

そもそも、すべての人間存在と言いますのは、紀元前3000年頃に中国に受肉したルシファー(※マルコ福音書でデーモンと呼ばれる正統な進化から逸脱した堕天使)によって叡智を与えられ、それによって自立と誤謬の可能性とともに自由と悪の可能性を与えられました

こうした霊的な事実は、キリスト教で言うところの原罪に相当しています

そのようにして人間というのは内なる神から離れる自由を得、悪に赴くことが可能となりましたけれども、人間が感じる恐れや不安というもののすべての根源は、原罪によって内なる神である本心・良心から分離した際に心に生じて来るものと考えられます

この分離は絶えず生じて来ますので、人間は自分自身を正して軌道修正を行う必要というのが常にある訳です

心の曇りから真実を覆い隠してしまうフィルターを形成してしまった人々は、自分の中に生じる恐れや不安に対処する際に、心を奮い立たせて真実や愛というものに目を向けるのではなく、何かしら唯物的な外的な手段によって恐れや不安に対処しようとしています

しかし、実際に唯物的な手段としてたくさんのお金をこさえたりステータスを得たり、または唯物的な医療に依存したりしてみたりしても、実際には不安や恐れは解消されないどころか、益々心の闇を増して、一層の強い恐れや不安に囚われてしまうような結果につながってしまうことになります

このような方々といいますのは、自身の本心や良心から離れることによって生じた不安や恐れを誤った形で解消しようとして、更に一層の深い闇に墜ちていってしまっている訳です

こうしたことはすべて、この第3千年紀に西洋において既に受肉しているとされるアーリマン(聖書で言うサタン、ヘブライ民族にとってのメフィストフェレス)によって、人間の唯物化を推し進めて支配してしまおうとの意図で人間に惹き起こされていることでもあります

差し当たって、そのような人々の目を醒まさせて救い得る方法があるとすれば、それは人の真心や愛でしかないでしょう

そそもそも本心や良心に基づく正しい真実から積極的に目を背けている人々に対して真っ向から真実や正論を突きつけるようなことは、相手がそれから目を背けて逃げようとしているものを正面から突きつけていることになりますので、むしろ自分に対する攻撃が仕掛けられているように感じさせることになりやすいであろうと感じられます

多くの人々が非常に大きな誤解していますのは、悪とは悪的な意志に基づいた言動をすることよりも以前に、そもそも身内の神としての自身の本心・良心の声に耳を塞いでしまうことによって生じるものだということを理解していないところにあります

人々が通常悪として認識している内容と言いますのは、ある意味で限定された狭義的な意味合いでの悪でしかなく、広義的な意味合いでの本来の悪とは、人間がその本質である霊的・精神的な部分から目を背け、自身の本心・良心から分離してしまうことに他なりません

悪には相対的な狭義的な悪と、本質的な絶対的な悪というものがあり、人は相対的な悪だけしか意識していないのだと言うことになりますけれども、人々はそのように悪というものを正しく認識できていないがために、自分達のしていることが悪そのものであると気づかないままに無自覚に悪に赴いてしまっているということになります

人々がそれぞれの人生において、自身の本質に近い精神的な部分を磨くことを蔑ろにしながら、外的な物質的世界の中での安定や安心ばかりを追い求める傾向が強まった結果として、世の中は今のような状況に至っています

しかしながら、そのような一見悪的行為と認識され難い、唯物的世界における物質的な満足によって保身に走ることで安心や安全を得ようというような生き方というものこそ、最も正されなければならない根源的な悪である、ということが言い得るのだろうと感じられます

こうした精神の力が持つ無限の可能性に対する不信、言い換えれば「勇気の欠如」によって、我々はいとも容易く悪魔の言いなりの奴隷へと成り下がってしまうことになる訳です

ですから、人々が自身の心を奮い立たせてその闇から抜け出せるようにするためには、愛が与えられることによって自信と勇気とが回復されることが必要となります

人に本当の意味で自信と勇気とを与えるものとは、高収入でも高ステータスでもなく、ひとえに自分に向けられる温かい愛に満ちた思い遣りの心でしかないということを、人々は今一度強く思い起こす必要があるのでしょう

収入や学歴やステータスなどの外的価値尺度に依存していなければ自信を保つことの出来ない精神的な虚弱者は、その社会的地位が高まる程に、その得られている身分や報酬と、内的な自身の力に対する不信からくる潜在的な自信のなさとの間にある大きなギャップによって、ますます強い不安感に苛まされるような状態に至ります

そうしますと、その耐え難い不安から逃れる手段として、是が非でも他者を力で支配してコントロールしたいという欲求が芽生えてくることになります

そうした人々というのは、自己の本質に根ざさない外在的な価値観に依存した生き方しかしていないので、どうしても外的な力である権威や権力などを用いて、他者を抑圧せずにはいられないというように、心の内にある強大な不安によって非常に深い精神の病に冒されている状態にあるのだと言えるでしょう

そのような巨悪に対抗するために私たちに出来る最善のことというのは、自分の心の曇りを拭い去ってその光を回復して増していくこととなるのではないでしょうか

不安や恐れをものともしない勇気ある者の存在というのは、世の中に希望を、そして人々に勇気を与える存在となることは間違いないでしょう

今までの世の中におきましては、聖人君子という局在的な形でそのような救世主的な存在というのが現れていましたけれども、これからの世の中におきましては、レベルは低くとも一人ひとりがそのような存在となることを志向することによって、世の中を裾野の根底から変えていくような流れが必要なのではないかと感じられますし、そのような方々が互いに手を取り合って団結していくことということも、非常に大切になってくるのではないかと感じるところです

現在のような大変に乱れた世の中におきましては、不正を糾弾する方々というのも必要とは思いますけれども、世の中の光となり手本となるような方々の存在こそ、真に世の中をよりよく変えていく力となれるのではないでしょうか

おわりに

さて、何故に誤った情報に盲目的に従ってしまい、そして容易に目を醒ますことのない人々というのが世の中に多くいるのか、ということに関しまして、皆さんも疑問に感じていらっしゃるのではないかと感じましたので、ごく簡単に考えてみましたが如何だったでしょうか

それでは、あまり良い文章ではなく読みにくかったかも知れませんけれども、最後までお読みいただき誠にありがとうございました。多少なりとも皆さんのご参考となりましたら幸いです

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