「追悼の占術」 ~風の時代の供養の形~

はじめに

先日、亡母の13回忌を迎えたのですけれども、昨年、故郷の墓の檀家を兄弟に譲ってしまったので、これからの時代に相応しい形で、故人を偲ぶための新しい方法というものを模索したいと以前から考えていました

既存の宗教というのは、現代ではほとんどその実質的な生命を失ってしまっており、単に形式的でビジネスライクなものへと堕してしまっている部分が多い、というように感じている方も現代では増えてきているのではないでしょうか

正しい霊的な知識に基づきながら、宗派などに囚われない形で、故人と地上に残された人々との間に架け橋を架け、相互の有機的な関係性を取り戻していくということは、我々の未来にとって非常に有意義なことであるように感じられます

死後の世界(欲界期まで)

死後の世界に関しましては、基本的にシュタイナーの「精神科学から見た死後の生」(風濤社)の内容を踏まえながら書いていきたいと思います

人間は死後、つまり物質的身体から抜け出た後、大体2,3日をかけてエーテル体を脱ぎ捨てますが、記憶の担い手であるエーテル体が物質体やアストラル体、自我の束縛から解放されて自由になることで、記憶内容が解き放たれ、地上生におけるすべての経験が走馬燈の様に展開されます

そのようにして3日ほどが過ぎた時点で、地上的な生命がそこで本当に終わった、と死者には感じられることとなるそうです

その次の段階で訪れるのはアストラル体を捨て去る過程であり、欲界(欲天、煉獄、カマロカとも)を通過する時期となります

この欲界とは自身の欲望を捨てていく場所であり、魂の成長を阻害する様々な因子を取り除くための刺激を受ける場所となります

この欲界期は生きた寿命の三分の一に相当する期間において、人生を逆再生の三倍速にて、行為者としての自分の立場ではなく、自分の行為を受けた相手側の立場において、自ら行った行為の結果生じるものを追体験することになります

つまり、相手を喜ばせた経験からは相手に与えた喜びを自分自身が受け取り、相手を悲しませた経験からは、相手に与えた悲しみや痛みを自分自身が当事者として体験することとなります

この過程において、魂は自らを道徳的に裁いていくことになります

そのように人間は死後に非常にゆっくりと時間を掛けて欲界期を通過しますが、この間において死者はまだ、生前の心魂的なあり方を残していることになります

具体的な例として考えてみますと、わたしの母は2010年に享年77歳で亡くなりましたので、現時点では死後丸12年が経ったところです

そうしますと、12年×3倍=36年となりますので、77歳ー36年=41歳ということで、現在亡母は41歳頃の人生経験を受け身の形で追体験している最中であるということになります

ここで分かりやすく考える上で、非常に短い生涯を生きて昨年亡くなった方というのを想定してみた場合に、生前と死後に関して次のような形で表にして整理することができます

主要な天体イベントとして記入するのは、進行太陽のイングレス、進行の新月や満月、土星回帰、ノード回帰、その他主要な人生の節目を形成するようなトランシットの天体配置などです

この方は2000年1月1日正午生まれで2021年6月30日正午に没した架空上の女性に過ぎませんけれども、重要な天体イベントと人生上のイベントとの相関関係を通して、故人の人生がどのような段階を経てどのように展開していったのか人生上の出来事が故人の人生においてどのような意義を持つことになったのかなどについて、具体的に把握していくことができるのではないでしょうか

この例では子供が生まれてすぐに故人が亡くなってしまっているので無理ですけれども、通常の場合であれば故人の人生と自分の人生とが重なり合っていた時期において、個人に取っての自分の存在の意義や自分の人生における故人の存在意義などについて、あらためて見つめ直してみることができます

その場合、故人と自分のシナストリー・チャートを作成すれば、それを参考にしながら相互の関係性を読み取っていくことができます

故人が自分に対して行ってくれた感謝すべき事柄に対してあらためて感謝の念を抱いたり、もし、自分が故人の人生に対してよりよい形で貢献できる可能性があったのであれば、そうした点などを反省してみたりしていきます

もし、生前の故人に対する何らかの過失が自分に認められるのであれば、自分は死後の欲界期において、故人の立場でそれを追体験することになる訳です

けれども自分がまだ生きているのであれば、自分の過失に対してはいつでも反省をし、人生の軌道修正を行うことが可能なのであり、生きている限りは自らの失態を埋め合わせるチャンスに人は常に恵まれているということになります

そのように、自分と密接な関係にあった故人との間で人生に起きた事柄を振り返ることによって、故人との関係性を故人の死後においても、よりよいものへと変えていくことが出来る訳ですが、そうしたことははこの上なく孝行なことであり、何よりもの供養となることであると言えるのではないではないでしょうか

一方で死者の側においては、すでに人生が終わってカルマが確定してしまっているために、自ら能動的に遺族らとの関係性を修復するようなことはできなくなってしまっています

そのような意味では地上に残された側の人間というのは、死後においてもずっと続いていく故人との関係性を、その後もより価値のある有意義なものにしていくための、非常に大きな責任を担っているのだと言えるのかも知れません

肉親との死別というものは、絶望の淵に叩き込まれるような言い知れぬ孤絶感に人を一時的には追い込みますけれども、しばらく経ちますと、死によって故人との関係性というのは断たれてしまうどころか、むしろ内的にはより密接となるように感じられてきます

最低でも故人の本心が望まないような人生を生きないように心掛けること、できれば故人が喜ぶような人生を送るように心掛けることによって、故人がこの世に生きたことの価値が、残された人々によって高められていくことになるでしょう

仏教には「九族生天(きゅうぞくしょうてん)」という諺があり、一人の子が出家して精進を究めれば、広い範囲の親族がその功徳の余慶を被って天に生まれ変わることができるという意味ですけれども、自分自身が価値高い人生を生きようと志向するだけでも、多くの生前に関わり合いを持った故人たちに恩恵をもたらすことができるのではないでしょうか

死者との交流

故人と生前に体験した事柄について、具体的に活き活きと思う浮かべ、その内容を死者に向けて送ると、それは死者のところに届き、死者は自分の心魂に浮かぶそのイメージを、ひとつの「窓」のように感じるのだとシュタイナーは言います

その窓というのは、単に我々が送ったイメージを見るというだけのものではなく、死者はその窓を通じて地上世界全体を眺めることができるのだそうです

そして、単に全世界を眺め得るだけではなく、地上に生きている我々を通じて、死者は地上のできごとをすべて体験できるのだと言います

死者は常に地上に対する関心を持ち、地上の出来事に興味を抱いているのだそうであり、我々が死者とともに体験したことを活き活きと目に見えるようなイメージとして伝えることは、死者にとって非常に大きな助けになるのだと言います

また、死者は肉体という阻害因子を持たないために、地上の出来事について生きている人間よりも明瞭な判断をすることができ、我々は死者からその明瞭な判断を得ることが出来得なくもないということです

死者は最初に主語を語る能力を失いますが、動詞についてはまだ長い間使うことが出来、死者は特に感嘆詞で語るのを好み、「あゝ」とか「おゝ」といった驚きを表現する言葉をよく使うということで、死者との交流に際して我々はまず死者の使う言語を習得しなければならないということです

死後数年が過ぎると、我々が死者の言語を身につけるのでない限りは、死者と理解し合うことができなくなるということであり、よく霊媒師が死者の言葉を地上の言語で語ってみせますけれども、そのようなことは実際にはなく、それは単に生きている人間の潜在意識で語っているのだ、ということのようです

我々は死者に関してもカルマや輪廻などに関しましても、非常に誤ったまったく見当違いの認識しか持っていませんので、まずはその様な認識を一旦捨て去って正しい認識を持ってからでないと、死者との交流ということもネガティブな事象を引き起こしてしまう可能性があるのではないかと個人的には感じています

我々は通常死に対しても死者に対しても非常にネガティブでおどろおどろしいイメージを持っていますので、そのような死生観が拭い去れない限りは、死者との交流に前のめりになってしまうことは、あまりおすすめできないように感じられるということです

死者は夢の世界と似通った、感情を基調とした漠然としたイメージによって物事を伝えて来るものと考えられますけれども、もし、はっきりした言葉を聞くような霊聴的な現象が現れた場合は、それはほとんどの場合は低級霊が関与した低次の霊現象であり、そうしたものに関わっていると精神に異常を来してくることが必至となりますので、その辺はくれぐれも気をつけていただく必要があるのではないでしょうか

我々が現実世界において何かを求める場合には、外界に対してそれを能動的に追い求めていくことが必要ですけれども、霊的な交流においては、心静かにして待つことによってしか求めるものを得ることができないので、まずは我々の通常のこの世的な感覚というものを切り替えることが必要となりますけれども、このことは霊的、神的な世界との交流一般に関しても同じことが言えるでしょう

また、我々が食物から栄養を摂らなければならないように、死者にも養分となるものが必要となるとのことであり、それは精神的ー心魂的な養分であるとのことです

死者にとって眠っている我々の心魂は穀物畑のようなものであり、生きている間に関係のあった人々からのみ、その心魂の中の思考と理念とを養分として吸収することができるのだそうです

しかしながら、世の中の唯物的なあり方が強まっていることから、すでに100年程以前から、死者にとって栄養となる思考や理念を生きている人間の心魂から得ることができなくなっており、死者はある意味で飢餓的な状況に追い込まれているようであり、現在であれば尚更そのような傾向が強まってしまっているということになるのでしょう

また、シュタイナーは死者に読書をしてあげることの必要性についても言及しており、暖かい心のこもった気持ちで、小さな声でよいので精神的な栄養となり得るような本を死者に朗読してあげることについても推奨しています

その他にも死者に質問して答えを得る方法などもこの本には書いてありますけれども、この様な死者との積極的な交流を検討されます場合には、必ず関係書を熟読の上でお願いしたいと思います

この世で大切な人を喪うということは大変哀しいことですけれども、人は輪廻転生して永遠に生き続ける存在であることを前提とすれば、我々には引き続き死者に対してしてあげられることがたくさん残されているのだということになります

しかしながら故人の側の思いとしては、まずは自分自身の人生をしっかりと生きて欲しい、という願いが第一のものとしてありますので、死者のことを考えるに先だって、自分の人生を悔いが残らないように生きるということが、まず心掛けられるのでなければなりません

死後の世界(欲界期以降)

死後に訪れる欲界期を通じて、死者の意識は月の軌道に近づいていき、最終的には月の軌道と同じところまで拡張していきます

この欲界期において自らを道徳的に裁いた内容については、この月領域に刻印されることとなり、それ以降の領域に進む際にその内容は月領域に残されていきます

この月領域には、人生における自身の不完全さのすべてが刻印されることになりますが、その不完全さというのは必ずしも自己責任から生じたものばかりではなく、不可抗力的に生じた不完全さというものも含まれます

何かを達成しようとの意図を持っていたけれども、その達成がまったく不可抗力的な力によって妨げられてしまったのだとしても、それは本人の不完全さとしてこの領域に刻印されることになる訳です

死者は続いて水星領域へと拡張していきますが、生前に不道徳なあり方をしていた死者というのは、この領域においては孤独を強いられ、反対に道徳的なあり方をしていた者は、地上で関わり会っていた心魂と親しく交わることができます

この水星領域では、生前の自身の道徳的なあり方について反省を強いられ、道徳的な完全さや不完全さがこの領域に刻印されることになります

ちなみに、シュタイナーによれば神秘学的に言う水星と金星とは、後になって誤って取り違えて考えられるようになったとされていますが、それは必ずしも現在において水星と金星に関して我々が通常意識している内容について、それぞれを反対に考えなければならない、ということにはなっていないように個人的には感じています

続いて死者は金星領域へと拡大していきますが、この領域では信仰的なあり方をしていなかった魂は孤独を強いられることとなり、信仰的なあり方をしていた場合には、似通った宗教信条を持ったグループの魂と交わることができることになります

この金星領域においては、宗教的な完全さや不完全さが刻まれることになります

次いで死者の魂は太陽領域へと拡張しますが、金星領域では同じ世界観や価値観を持った者同士での交流が可能でしたが、この太陽領域ではあらゆる世界観や宗教観の間に橋が架けられなければならず、狭い価値観に囚われるエゴイズムから脱却して普遍的な真理の中に生きることが求められます

従って、自分の馴染んだ世界観や宗教観に囚われている魂はここでは孤独を強いられ、そのようなエゴイズムを脱却した魂だけが自由に社交的に活動することができます

ここでは人間の利己主義に関わる完全さや不完全さが刻印されると言えるでしょう

続いて死者の魂は、火星領域、木星領域、土星領域へと拡張し、それぞれの惑星領域に関係する特性に関して何かが刻印されるのですが、カルマ的な関連として語れるのは太陽領域までとなり、火星以遠においては個人の裁量を越えた部分に関する内容が刻まれることとなります

このように人間の魂は死後に宇宙空間に拡張しながら、それぞれの惑星領域に滞在しますが、土星を越えた辺りから、再び地上生を欲する動機が生じることによって、拡大した意識は今度は反転して縮小し始めることになります

その際に、各惑星領域を再び通る際に、それぞれの惑星領域に刻まれていた内容が魂に逆転写されていくことになります

前回の地上生が終わった時点で惑星領域に刻まれたものが、次の地上生に生まれてくる際に魂に逆転写されるということは、つまり、前回死んだ時点に刻まれたホロスコープが、次の出生時のホロスコープになるということになります

人間の魂は、基本的には地上生を生きている間にしか成長をすることができないので、前回の続きを次の地上生において再び展開していくこととなります

バーデス・チャート

神秘占星術では、出生時のバース・チャートと死亡時のデス・チャートから、前世・今世・来世の三世(さんぜ)のあり方を見通すというようなことを考えているのですけれども、「追悼の占術」におきましても、上に書きました初歩的な内容に留まらず、更にバーデス・チャートから故人の今世の人生課題と来世に課題として持ち越されたものなどを見ていきます

自分自身や距離の近い肉親に関しましては、情報が多過ぎることや主観的・主情的な見方をどうしてもしてしまい勝ちであることから、俯瞰して簡略に把握し難い部分というものがどうしてもあるものですけれども、自分自身の人生を豊かなものとしていくためにはそのようなアプローチは欠かせないものとなります

自分のバース・チャートから過去世の生き方の傾向を読み取るには、まず第一に自分が今世で最も避けている生き方が何であるのか、ということを踏まえながら、前世における人生の不完全さが最もよく現れている月の配置を中心に見ることを最初にします

続いて、バース・チャート全体の天体配置が、月のあり方とどのような有機的関連性をもって配置されているのかを見ることによって、前世における生き方の反動から、今世をどのような課題意識で生きようとしているのか、ということについて見ていきます

これらは類型的なパターンを機械的に当て嵌めていくだけの通俗的な占術によって理解し得るものでは到底なく、デス・チャートを扱うに際しては故人の死の尊厳というものに最大限の敬意が払われなければなりませんので、決して興味本位で軽々しく触れるようなことはないようにご注意いただければと思います

デス・チャートの積極的な利用方法としてお勧めできることとしましては、自分が今死んだと仮定した場合に、一体どのサインに自分のデス・ムーンが刻まれることになるか、ということを考えることは非常に大きな意義があることと考えられます

これは、人生の前半を生きている世代の方々にはまだ不要ですけれども、人生が後半以降に差し掛かっている世代の方々にとっては、今世にやり残すものをできるだけ少なくしていくために、現時点で自分が死んだ場合に、自分の人生の不完全さとして最も強く顕れるであろうサインについて考えてみる、ということは非常に有意義であると感じられます

わたしの場合であれば、今世はあらゆる俗っぽさから遠ざかっていたいという思いが生まれつき強くあり、バース・ムーンは天秤座ですので、前世では対人関係や世の中での社交的なあり方に関して、ひどくバランスを欠いたあり方をしていた部分があったのではないかと感じられます

恐らくは女性であった前世において、かなり奔放な生き方をして羽目を外すことが多かったのではないかと感じられ、そのことの反動として今世の水星と金星はともに山羊座にあって、とても保守的で慎重な要素が強められているというような有機的関連が見出されるとともに、12室で孤立気味の月やIc付近の太陽と水星と金星、それから魚座の土星をはじめとして、内向的で精神世界的な志向がバース・チャート全体に強く感じられます

人は輪廻転生に際しては、前世の生き方から最も遠ざかるような違った生き方を選択することになるというのが基本原則としてありますので、今世のような内向的なあり方とは、前世は真逆なあり方をしていた可能性が非常に高いものと考えられます

そして、今わたしが死んだとするのであれば、今世あまりにも保守的で慎重であり過ぎたことから、反対に情熱に従って挑戦的な行動をすることがなかったという点が、もっとも大きな反省点として残ることになるだろうと感じられます

そうしますと、デス・ムーンが刻まれる位置として考えやすいのは火のサインですけれども、恐らくは天秤座にあるバース・ムーンの正反対に位置する牡羊座、もしくは水瓶座にある出生太陽の正反対の獅子座に刻まれることになるのではないか、と考えられます

わたしのバース・チャートにはそもそも火の要素にひとつも天体がないのですけれども、昨年から進行の太陽が牡羊座に入ったということがありますので、それであればこれからの残りの人生において、自分に最も欠けていると思える火の要素を補っていくために、またとない好機が巡って来ていることになる、というように考えることができます

人間が輪廻転生を繰り返す永遠の存在であると考えるのであれば、人生の意義というのは魂の成長という部分にしかなく、結婚をしたとか家を買ったとか会社でそこそこの地位を得たというような外面的な結果というのは、極めて二義的なことにしか過ぎません

そのように考えますと、若い間というのは先が長いのでもっとゆっくりと人生を考えるべきであり、反対に年を重ねていけばいく程に、先が短くなるので焦らなければいけないのだと考える方が、人生の実相から言えば本当ではないかというように感じられますけれども、死の直前まで人にはとても有意義な目標が残されているのだと考えられれば、年を重ねていくことに対して空しさを感じこともなくて済むのかも知れません

おわりに

ということで、今回はこれからの時代に相応しい死者の追悼のあり方ということと、死者の追悼以前に自分自身の生き方を実りあるものとしていくために、前世、今世、来世の三世を見通しながら魂の成長をダイナミックに捉えていく考え方につきまして、ほんの序の口部分に過ぎませんでしたけれども、紹介をさせていただきました

占星術というのは、輪廻転生ということを踏まえて考えていかない限りは、魂の成長に真に役立ていくことのできないものであり、そうでなければ単に通俗的な児戯に類する慰み事にしかならないものではないかというように感じられます

今回は大分駆け足で掻い摘んで幾つかのことをご紹介しましたけれども、何れも神秘占星術にとって根幹的なテーマに関するものであり、今後も機会があれば触れていきたいと考えるところです

それでは、今回も最後までお読みいただき、誠に有り難うございました

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