筑前國一之宮 住吉神社 ~観月会~
今日は全国的に仲秋の名月が愛でられたことかと思いますが、私は博多の住吉神社の観月会の雰囲気がとても好きなので、今回もこちらにお邪魔しました。
博多の住吉神社は、筑前國一之宮であり、古書にも「日本第一住吉宮」「住吉本社」などとされているそうで、最古の住吉神社ということになります。それでいて実に庶民的な雰囲気が強くあるところに非常に好感が持てるのです。
こちらは全国の神社の中でも最古の部類と思いますが、実は福岡の那珂川町にある現人神社が住吉神社の本津宮であることは、意外に地元でも知られていないことのように思われます。現人の名にあるように、住吉三神は示現をする、つまり姿をこの世に現す神様であり、老翁として描かれていることが多いようです。
1800年以上の昔から遷座することなく、神社の神域であり続けている境内の地に、ブルーシートが敷かれただけの上に腰を下ろさせていただき、配られるお菓子や日本酒を嗜みつつ雅楽を鑑賞しながら月の出を待ちます。
博多の地は弥生時代からずっと人が住んで栄え続けている地ですので、こうして境内の地べたに腰を下ろさせていただけるのは、実に勿体ないような気持ちがするものです。
浮き世の喧噪をスッと忘れ去って悠久の時に想いを馳せさせることができるのも、境内の清浄な歴史ある地の持つ力であると感じられます。
普段はまったく飲酒をしない自分も、この日この場所でだけは日本酒をいただくことにしています。実に風流で優雅な風習であり、また、飾らない土地柄で、心から寛いだ気分になることができます。
「仲秋」ではなく、「中秋」の方の本当の満月までは後一日と少しありますが、写真にはうまく写せなかったものの、今夜の月も実に好い月でした。
いつも新月の際にはその時の度数のシンボルであるサビアンについて記していますが、太陽と並んで、この月の存在というのは、他の天体とは比較にならない親しみを感じさせます。それだけ人間の生理的な部分への強い影響を月は持っているのだと実感することができます。
月というのは、ある意味で安心のシンボルのようなところがあると感じますが、本当の安心というのは、刻々と姿を変えて移りゆく自然の流れとともにあることで得られるのだということを、月の満ち欠けは示しているように感じられます。
諸行無常とは仏教の言葉ですが、常に変わり続けることだけが不変なる真実であることを悟り、そこに安心を見いだす心情というのは、仏教渡来以前から日本人が元々持っていたものであるように思われます。
一方で、人間が必至に自らの安全と安心を図ろうとして行うことは、これとはまったく正反対のことです。人智は物事を不変化させることの中に安心と保障を求めるのですが、いくらそのように努力したところで一向に自然の驚異からは逃れられず、それどころか原子力災害をはじめとした人為的な災害を増やす一方である、という現実があります。
温暖化や水害や土砂災害、獣害などの多くは、人間の社会活動が自然を破壊した結果もたらされている面が多くあることは決して忘れてはならない事実ではないでしょうか。
好き放題に地球の環境を変えては環境の不安定さを増していく一方で、人は人工的で不自然な安全の中に閉じこもろうと、あらゆる努力で身の周りを固めることに暇なく執心しています。しかしそんな中で、実際には反対に神経質に不安を募らせながら、戦々恐々と日々を過ごしているのが実情ではないかと思われます。
物事をコントロールして支配することの先に決して安心や安全はありません。結果的には災いを先延ばしにすることでかえって大きくしているのです。
人工的な環境がもたらすストレスから逃れるために、人為的な努力を繰り返し、その中でどんどんジリ貧に追い詰められていく状況というのが現実にあり、それが今の現代人が抱えている大きな精神的な行き詰まりとなっています。
四六時中身構えて緊張ばかりで、自然体に戻ることができないままに心の闇をどんどん大きくしてしまっている現代人の病状は、ますますひどくなる一方ですが、そんな中で月に心を向けてみるということは、非常に大切なことではないかと思えます。
現実的な願望成就に利用しようなどという自己中心的なあり方を捨て去って、無心に月に心を寄せてみるということは、荒んだ心に穏やかな自然な感情を呼び戻すのに、少なからず役立つのではないかと思われます。