十三夜の後の月と高良の神と古事記

今日は旧暦の9月13日で、古来より日本人が十五夜の月とともに愛でてきた、後の月と呼ばれる十三夜の月が上っております。
※写真は宮地嶽神社の一日参りの際に写した昨夜の十二日の月になります。

十五夜は中国から来た風習で、十三夜は日本独自の風習であるということがよく言われますけれども、日本人の中には、完全さというものを忌む感性が根強くあるように思われます。

従って、十五夜の満月を拝むのであれば、十三夜の完全さに欠けのある月も拝みたくなるという心情が自然に湧いてくるようなところがあるように思えます。

完全なものや左右対称のもの、即ち割り切れてしまうような合理的精神が反映されやすい物事に対して、何かしら心が落ち着かず、据わりの悪さを感じてしまうところが、如何にも日本人らしい心情ではないかと、今日の十三夜の月を眺めながら、つくづくと感じた次第です。

さて、今日の旧暦9月13日と言えば、高良玉垂宮縁起という古書に、神功皇后の七日七夜の祈りに応じて高良の神が月天子として示現された日として記されているという話があり、実際に高良大社の方でも高良の神は月神であるいうように認めているようです。

高良大神が月天子として、住吉大神が明星天子として示現されるという辺りは、神仏習合の影響が感じられる部分もあるように思われますけれども、古事記の中では星の神様についてはほとんどその存在が消されていることや、月についても月読命の名前があるばかりで、その正体がほとんど隠されていることを考えますと、高良の神と住吉大神が月と明星の神として書かれていることに、非常に興味を覚えるところです。

高良大神は石清水八幡宮の氏神であり第一の随神であるとされ、朝廷からの崇高も極めて篤かったにも関わらず、何故か記紀にはその名が記されていないという、とても不思議な神様です。

古事記というのは明確な意図をもって、様々な物事の形跡を変えたり消したりしていることが、非常にはっきり見て取れる史書であることは誰の目にも明らかではないかと思います。

反対にあそこまで綺麗に隠したりねじ曲げたりしていると、隠しているものがかえって鮮明に浮かび上がってくるようなところさえ、あると言えるかも知れません。

普通に考えれば神話の要素として存在すべき実に多くのものが、意図的に抹消されています。
けれども、そうやって創作された表の歴史を、実際に舞台裏から動かしているのは、実は隠された部分に関係の深い者たちの方である、ということも言えそうに思います。

また、古事記がそのような作られ方をされていることで、万世一系の皇統と日本という国の存続が可能となる状況が作り出されている、という側面もあるのではないか、ということも感じられます。

日本人というのは、分かり切ったことでも敢えて詮索するようなことをしない素直で素朴な民族で、そういう心情を持った民族にしてはじめて、古事記のような史書を受け入れ、長い間疑わずに尊んでくることができたのではないでしょうか。

古事記で書き表されている内容には、極めて一神教的な要素が含まれていると感じられます。そして、それが多神教的な土壌の中で主張しすぎず調和している妙というのが、実に日本的な在り方であると感じられます。

一神教とか多神教というのは、それぞれが異なった原理に過ぎません。原理というのはいくつでも存在するのが当然でしょう。
しかし、通常一神教という場合は、ある特定の原理に固執した原理主義というものが介在してくるのが海外では普通だと思います。一神教は単なる一つの原理であるに過ぎないのだけれども、多くの国や民族においては、その原理に固執して原理主義的な立場をとってしまうということです。

日本人が優秀なのは、原理は原理として認めて尊びながら、原理主義的な傾向に走らない賢さを持っている、というところにあると思います。
あるものはあるものとして、決して否定することなしにすべてを受け入れて尊ぶ姿勢を持っているということです。

そのような民族性にしてはじめて、古事記のような史書を大切に思い続けることができるのです。
古事記というのは原理主義的な在り方をしないということを自らの基本スタンスとするという、日本民族の大きな約束事のルールブックのようなものかも知れません。

日本人がみんなで尊ぶべきものを一つ明確に定め、それを尊ぶことを何よりも最優先し、不要な詮索や議論を招かないという姿勢に徹底することによってはじめて、万世一系の皇統が守られているのだというようにと感じられます。
実際に、古事記を中心にして日本は万世一系の皇統をこれまで守ってきています。論より証拠です。外国ではひとつの王朝がこんなに長い期間続くなんていうことはありえません。
けれども日本ではそうなっていて、その中心的な役割のひとつを古事記が担ってきた、ということは言えるのではないでしょうか。

古事記が隠していることを敢えてほじくり返すことは、もしかすると非常に危険なことになるのかも知れません。
何故なら、そこで隠されているものの多くは、何らかの意味で権謀術数につながっていく要素を持っていると考えられるからです。それは王朝の転覆が可能になる状況を創出する恐れを持っているものということです。

日本では孟子の書物を載せた本は、日本の神々によって必ず転覆させられて、王朝の交代を解く易姓革命のようなものは一切入らなかった、というようなことがよく言われますけれども、国体に影響を及ぼす恐れのあるものは、日本人は自然と避ける感性を持っているように思えます。
そういう精神が、表の歴史からあるものを意図的に消し去らせた、ということがあるのではないでしょうか。

合気道の創始者である植芝盛平翁は、その著書の中で高良の神がしおみつ・しおひるの珠を使う神だと仰っているのですが、しおみつ・しおひるの珠というのは、赤珠・白珠というようにも表現されますが、大体においてこれは軍略や権謀術数に関わるすべての事柄を表しているのだろうと感じられます。

文字通りの潮の満ち引きとして考えれば月読み(暦)、物事の動静を推し測る手段としては星読み(占星術)ということを意味しており、加えて、赤珠・白珠が珊瑚と真珠であるとすれば軍資金や敵方を味方につける賄賂などを表すのではないでしょうか。

高良の神は明らかに、表の社会を裏から動かしている方の勢力の象徴的な存在の一つでしょう。
高良という名自体が、非常に不可解なものですが、個人的には「こうら」の元は「かはら」から来ているのではないかと思います。「かはら」とは即ち「カバラ」の意です。
玉垂(たまだれ)は、玉照り(たまてり)ではないかと思います。玉を照らすというのは、秘術としての玉を光らせるということで、高良玉垂命は、カバラの秘術を使う者というほどの意味ではないかと思います。

消された裏の勢力が今度表舞台に登場する時というのは、新しい古事記が作られる時となるのではないでしょうか。そして、今度は世界がひとつになるための、新しい神話が語られるのかも知れません。
現代ほど情報が行き渡ってくると、最早隠していたものが隠しおおせなくなって来るので、何れそういう時がやってくるのではないかと思われます。

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