桜と満月の一日参り 宮地嶽神社
折しも桜が満開に咲き誇る中、昨晩も満月とついたち参りとが重なって、厳かな深夜の清らかさが極まる雰囲気の中でのついたち詣りの参拝となりました
午前零時からのついたち詣りを毎月斎行して下さる神職の方々におかれましては、いつも本当に気持ちのよい参拝の機会を恵んでいただけて、心から感謝を感じるところです
わたしは神域にいる間くらいしか、生きていて心から気持ちのよいと思える清々しい思いを感じることはないのですが、昨夜はまた格別な心地よさがありすっかり酔いしれました
満月と満開の桜と週末の土曜とついたち詣りとが折よく重なるようなことは、よく考えて見ればそう滅多に起こることではないでしょう
そう考えますと、寿命が何年も延びるように感じられる程の有り難さというものをしみじみと感じます
日々の生活の中で、それなりに努力をしたり苦労をしたりというようなことは誰の身の上にもあることですけれども、そうして頑張れるのも、日々、天から命を頂戴していればこそのこと
自分で頑張っている積もりでいても、そもそも自然の力が自分を生かしてくれていて、毎朝目が覚めるのでなければ、頑張ろうにも頑張る訳にもいかないものです
こうやって日々生かしていただいて、天から頂戴している生きる力というものを、自分はどれだけ活かしているというのだろうかと
最近のついたち詣りでは、そんなことを自分に問いかけることが多くなりました
ご神前では、今月も頂いた命を日々精一杯活かします、と神
妙な心持ちで思うのですけれども、カタツムリほどの進歩もままならないような自分であるとしか感じられないのに、随分図々しいなと我ながら感じるものです
尤も、そんなに簡単に進歩できるようなら、人間の寿命も何十年とは要らないということになるのでしょう
目に見えた成果があろうともなかろうとも、そうしたことに頓着せず、地道にひとつの心がけを守り行くことだけを歩むべき道と心得るより他なさそうです