木星の適切な活用について
25日の午前3時過ぎに、わたしの出生木星と経過の木星とが正確なオポジションを形成します
昨年暮れから今年8月にかけて三度あるオポジションの2回目のものになります
オポジションは180度で正確に向かい合うそれぞれのポイントが持つ意味合いが相互補完的に働いて、その軸に関する物事を成就させやすい配置となるのではないかと日頃から考えているところです
しかし、それは成熟した精神態度においてはじめてそうなるのであり、未成熟な自己中心的な自我のレベルにおいては、むしろ、対立や反発といった作用が出てくることになるだろうと考えられます
最近は、夜中の3時頃まで起きていることが多く、わたしは寝る直前にリビングの窓を開けて外気に触れながらプラナヤマ法という深呼吸を行うのですが、今の時期その時間帯に西の空を見ると、木星が綺麗に輝いて見えます
そんなに天文に詳しいわけでもないのですけれども、いつみても木星を見ると、あ、あれは木星だな、と間違いなく気づくことができるのは不思議な気がします
木星の醸し出す雰囲気というのが格別に特徴的だというようなことがあるのか、そうでなければ木星の持つ心霊的な要素を自分がキャッチ出来ているのかのうちのどちらかということなのでしょう
実際に夜空に耀いている木星を見ていますと、やはり木星的な波長を強く感じますし、適当な表現が思い当たりませんけれども、わたしには気前の好さそうで親しみやすい雰囲気というものが感じられます
ですので、先日はつい願い事などを投げかけてみたりしたのですけれども、気安い感じで、分かったよ、オッケー、というような返事が返されたように感じられたところです
さて、木星は火の柔軟サインである射手座の支配星であり、木星自身もやはり火のエレメントの要素の一部分を持っています
それは拡大・発展といった、物事の成長を促すエネルギーでありますけれども、木星には抑制という機能が一切ないところに問題があります
栄養を取り過ぎた人が肥満体になるように、意味のない膨張や肥大をもたらしますし、放縦性や奔放性といった言葉で表現できるあらゆるものが当てはまることになるでしょう
そういう意味では木星を幸運の星というステレオタイプなイメージで捉えることには危険性を伴うことになる可能性があります
わたしの出生木星は牡牛座17度で7室にあります
それだけを見ますと、誰でも玉の輿の結婚というようなことをイメージされるのではないでしょうか
もしくはスポンサーやパトロンを得やすいというようなこともあるかも知れません
わたしの木星はグランド・トラインの頂点のひとつとなっており、特段傷つけられるような悪い配置とは縁がないのですけれども、自分の中でこの木星が幸運をもたらしてくれるようなイメージはあまりなく、むしろ反対のイメージの方が圧倒的に強く感じられるところです
7室と言えば結婚運ですけれども、わたしは生涯独身の身を保つと思いますけれども、若い頃に結婚に一番近い関係に至った相手の方というのは、自分名義で何十億もの資産を持つ大変美しい方でしたので、そういう意味では出生図通りの結婚運を一応持っていると考えられるでしょう
電撃的な激しい相思相愛でつきあい始め、はじめから双方が生涯の相手と強く意識していたのですけれども、ある時、資産家の彼女からは当然のことのように「婿に入れ」と言われました
こちらは突然のことで思わず躊躇していると、新婚生活のために自分が棟ごと所有しているマンションのペントハウスだって人に貸さないで空けたままにしてるのに、と激しく彼女は憤りました
そこでわたしが悟ったのは、その人と結婚すれば、生涯自分はその相手の添え物のような存在となってしまうとともに、人生の大半を支配されてしまう結果となるだろうということでした
現実界で大きな幸運に恵まれるということには、それに見合った制約というものも一緒に付随してついてくる可能性があるということを忘れてはいけないでしょう
それはスポンサーやパトロンのような存在に対しても同様に言えることと考えられます
しかし、わたしは自分の精神の自由というものを微塵も侵されることを絶対に許さない水瓶座の初期の度数に出生太陽を持ちますので、どのような恩恵が来ようとも、それが自分の精神の自由を少しでも損なって犠牲にするような形では、如何なる好条件とはいえ絶対にそれを受け入れようとは思わないのです
けれども、仕事に関しては親のこともあるし、家族に迷惑を掛けるわけには行きませんのできちんとお堅い仕事について、比較的安楽な環境で恵まれた社会生活を過ごしてきたと言えるかも知れません
しかしそれも、親が亡くなってしまうとともに、職場の束縛に耐える理由もなくなってしまったので結局のところ、いとも簡単に投げ捨ててしまいました
それでは、わたしの人生において、この木星的要素がどのような形で働いているかと言えば、与えられる側としてでなくもっぱら与える側としての働きをしていると言えるのではないかと感じられます
制限なく人によくしてしまうという形で人に恩恵を与えすぎてしまう傾向があり、そのため、今では懲りて極力人と関わらないようにして用心をしているところです
そこに同情の余地が少しでもあれば、知り合ったばかりの人にでもなけなしの物を惜しみなく与えてしまうところがあり、結果的に後で非常に詰まらない思いをすることがこれまでも多々ありましたし、生まれ育った家庭においても常に自己犠牲を最大限に払っていました
わたしの場合、木星が与えてくれるものは全部撥ね付けてしまい、代わりに自分自身が木星としての働きを外に対してしまい、結果としてじり貧になる、というような格好になっていると感じています
律儀な性格ですので、人から恩恵を与えられるとその恩でギチギチに自分が縛られてしまい、必ず与えられた以上のものを相手に返そうとするのが分かっていますので、人からよくされることも快しとしません
自分の中で制限することのできない物事には、いい意味でも悪い意味でも木星が関与しているのだと考えられますが、海王星もある意味では似たような働きに見えるところがありますが、あちらは何かに飲み込まれてしまう形でコントロールを失うという受動的な形のもので、木星の場合はやらなくていいことを敢えてやってしまうような積極性を持った過剰性ということになるでしょう
先日木星を見て気になり、気づくとオポジションの直前だったので自分の中の木星の働きをちょっと再確認してみた次第です
出生の木星と経過の木星がオポジションを形成しているこの時期は、オポジションが欠点を補完し合って物事を成就させる力を持っていると考える時、自分の中の木星に関する良くない働きを矯正するには非常に良い機会であると言えるかも知れません
(TAURUS 17 °): A SYMBOLICAL BATTLE BETWEEN “SWORDS” AND “TORCHES.”
(私訳):”剣”と”たいまつ”の間でなされるシンボリックな闘い。
(SCORPIO 17 °): A WOMAN, FECUNDATED BY HER OWN SPIRIT, IS “GREAT WITH CHILD.”
(私訳):自らの精神をやどした女性のお腹が大きくなる。
わたしの出生の木星のある牡牛座17度に関しましては、半月ほど前の記事で詳しく触れましたので抜粋引用しますが、詳しい記事内容につきましては文末のリンク先の記事にてご確認下さい
(TAURUS 17 °): A SYMBOLICAL BATTLE BETWEEN “SWORDS” AND “TORCHES.”
(私訳):”剣”と”たいまつ”の間でなされるシンボリックな闘い。剣はスートで言えば風、たいまつは火となります
剣=風はロゴスや知性といったものを表すのに対して、たいまつ=火は直感や情熱といった潜在意識的な働きを表す部分があるでしょう
精神の本源的な在り方として示されているのが火のスートであり、精神の顕在意識的な現れ方を表しているのが風のスートなのかも知れません
ホロスコープにおいて風と火のエレメントは、それぞれ牡羊座と天秤座、獅子座と水瓶座、射手座と双子座というように、等しく向き合って対をなしています
風と火という能動サインの中にも、陰と陽があり、それらが対立的な立場で補完し合うことで物事を成就していく力というものが生まれます
(中略)
さて、剣とたいまつがシンボリックな闘いをするというのは、顕在意識と潜在意識のせめぎ合いのようなものでもあるでしょう
たいまつは原始的な知性を表すとも言えそうですが、形なきものは形をなすことを求めますし、形あるものというのはすべて、元は形なき世界のものがこの世に現れ出たものに他なりません
それらがシンボリックに闘うというのは、あの世的なものをこの世的に表現する際の葛藤のようなもののように感じられます
(中略)
また、牡牛座という地のサインは、ひとつ前に牡羊座という火のサイン、ひとつ後に双子座という風のサインにはさまれています
そうしますと、火=たいまつ=牡羊座というのが牡牛座にとってのひとつ前の過去であり、風=剣=双子座というのが次に来たるべき未来ということになります
そうしますと、剣とたいまつのせめぎ合いと言いますのは、過去と未来のせめぎ合いの狭間に立つ現在の自分自身を表している、ということにもなります
現在というのは、常に過去と未来からの同時制約的環境に置かれた均衡点であり、その只今の一点において創造という働きが起こってくるのではないかと感じられます
つまりは、あの世的な見えない世界にあるものをこの世的に見える形のものとして価値化を図るということが、この牡牛座17度においてなされるというように考えた訳です
一方で対向する蠍座17度は、「自らの精神をやどした女性のお腹が大きくなる」ということですので、牡牛座が価値創造を外部化的な形で行っているのに対しまして、蠍座では自分の内側に懐胎する形で創造行為を行っているということになります
また、牡牛座では剣と松明が鬩ぎ合って闘うという葛藤状態が生じていますが、蠍座ではそれは非常に無意識的で自然な形で、知らぬ間になされていることになります
このことは、牡牛座が顕在意識的な働きが強いことに比して、蠍座というものが極めて潜在意識的な働きが強いサインであることを示してもいるでしょう
そして、この両者が軸をなして補完し合った場合について考えて見ましょう
わたしには「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉が浮かんできました
これは禅語ですけれども、鶏の雛が卵の中から孵ろうとする際に、同時に親鳥が外から殻をつついて、ひな鳥が孵ろうとするのを助ける様を言います
つまり、禅の修行を一生懸命している弟子が、悟りを得ようと頑張って修行をし、その悟りの機が熟してきたときに、師がすかさずに弟子の得悟を促すように、例えば一喝するとか、何らかのアプローチをして悟りの機縁を作るということです
例えば、何かを一生懸命考えていて悶々としていながら、一向にアイデアが閃かないような状態下に牡牛座17度があるとします、しかし、一旦頑張ることを止めてフッと無心になった瞬間に、求めていた答えがハッと閃いたり、探していた物の場所を急に思い出したりするということがあります
これは、蠍座的な潜在意識が働いた結果としてそうしたことが起こるわけなのですが、潜在意識の持つこうした働きも、顕在意識が一生懸命に何かを見出そうと努力したことを契機としてはじめてそれに対する答えが用意されるのだという真理を、この軸が表しているのだと考えればよいでしょう
要するに自力(顕在意識)と他力(潜在意識)の共働作業によってなされる創造というものが、「啐啄同時」という言葉によって表現されていると考えられます
キリスト教で言えば、「求めよ、さらば与えられん」という言葉が聖書にあります
求めるものは、人間の顕在意識的な努力だけでは得られることはないのですけれども、それでも、求める強い意志を持たないことには、潜在意識もそれに対応する答えを用意することは出来ない、ということです
頑張ることと結果を焦らずに待つという双方の姿勢の中道的な両立があってはじめて物事は成就するということになりますので、そうした感覚を持つことによって、わたしの出生木星ももっとよい形で機能するようになる、ということになりそうです
具体的に言えば、木星に関する事柄で顕在意識が欲した事柄に対して、拙速に行動に移してしまうのではなく、ちょっとした溜を作って潜在意識のチェックを受けてオッケーのサインの感覚を感じ取った場合にだけ実行に移す、というようなことがひとつ考えられるでしょうか
木星はとかく発展・拡大しようという傾向が強いですけれども、適切な抑制や対象の適切な選択ということを度外視して、気の向いたことに夢中になってばかりいると、詰まらない結果しか招かないということになります
しかし、適切な抑制や目標の適切な選択というところさえきちんと押さえておけば、間違いなく木星は幸運の星として輝くことになるでしょう
つまりは、木星を幸運の星とするか否かは、結局は自分の心掛け次第、といったことになるというところでしょうか