令和元年の放生会(ほうじょうや) ~「篝火花」・「聴松」に秋の到来を想う~
昨日は筥崎宮の放生会へ行って参りました
これが始まると、もうすっかり秋になるんだなという心持ちになりますね
放生会で毎年楽しみにしている一番のお目当てが、書道家でもあるIKKOさんのぼんぼり献灯です
放生会で最初にIKKOさんの書を観たときに、その美的感覚の素晴らしさというのが伝わってきて思わず軽い衝撃を受けました
以来、毎年一番の楽しみとして拝見させていただいています
今年はシクラメンの別名である「篝火花(かがりびばな)」
シクラメンは冬の花という印象がわたしは強いですけれども、IKKOさんの書道家としての雅号「雅 冬炎(みやび とうえん)」にも通じるイメージのお題ですね
報われるとか成功するとか、そういうことを度外視して、ひたむきに美への探求心を燃やし続けるIKKOさんの生き様とイメージがとてもダブって感じられるものではないでしょうか
ついでにお隣に並んでいたホークスの現監督と前監督のお二人のものも掲載しておきます
文字というのはその人の人柄というものが感じられて大変面白く感じられるものです
境内には池坊の生け花も毎年展示されているのですが、ものすごくレベルが高いように感じられ、いつも見応えのあるものが揃っています
わたしは以前小原流で習っていて、親の介護などもあり続けられなくなり途中で辞めてしまったのですけれども、最近では家で花を飾ることもめっきりなくなってしまいました
最後に気になったぼんぼりがひとつあり、承天寺の神保至雲老大師の書かれたものでした
承天寺は鎌倉時代に聖一国師によって開山された臨済宗東福寺派の寺院であり、博多祇園山笠や博多織の発祥地であるとともに、うどんとそばの発祥地としても知られた名刹です
「聴松」というのははじめて聞いた禅語ですけれども、元々は茶道の言葉で「閑坐聴松風(かんざしてしょうふうをきく)」というものらしく、松風というのは釜の湯がたぎる音をそのように称するのだそうです
意味としては心静かに座して松風に聴き入るということですけれども、これからの季節に大変そぐわしい言葉ではないかと感じられます
「聴松(ちょうまつ)」という語には、閑座して松風を聴くという段階からもう一歩踏み込んで、聴く自分と聴かれる音との間の区別がなくなった主客未分の不二の境地というものが端的に表されているように感じられるところです
瞑想の方法におきましても、蝋燭の炎や図形などを対象に一点を注視する方法や、何らかの音に傾注したり、あるいは念仏やマントラを唱えるなどして雑念や妄想をなくす方法がありますけれども、閑座して松風を聴くというのは、正しくその様な手段としてのものでしょう
朝晩の瞑想だけをいくら一生懸命頑張っても、日常生活の中において刹那せつなに心を空じる習慣というものが身についていませんと、中々人生の質というものは変わっていかないものですけれども、この閑座して松風を聴くというような心境に、日常の至る所で立ち返ることのできる工夫というものがとても大切であると痛感するところです
来週には秋分を迎えますし、そろそろ夏至を頂点とする肉体を中心とする陽の半年間から、冬至を頂点として霊的な部分が中心となる陰の半年間へと移行します
キリスト教ではこの時期に聖ミカエル祭を秋の収穫祭として祝うということですけれども、悪魔退治の大天使であるミカエルが関係するのは、現実的世界から霊的世界への回帰の起点となるこの時期に、人の心が恐れを感じやすいことと関係しているとか、そんなようなことを以前ルドルフ・シュタイナーの本で読んだ記憶があります
シュタイナーの著作「魂のこよみ」の秋のはじめの週の詩文というのは次のようなものです
「(第23週) 秋の中で 感覚の興奮が鎮まる。 外光の輝きの中に 霧の暗いヴェールが 拡がる。 遠くから冬の眠りが 姿を現す。 夏は 私の中に すっかり身を委ねた。」
わたしは冬生まれですので、秋になってやがて訪れる冬の到来が予感される時期になりますと、心が非常に浮き浮きして嬉しく感じられるものです
皆さんも是非、地元の神社の秋祭りに出向いて、今までとはすっかり異なる秋の季節に向かっていくに際して必要な心構えに、思いを致してみては如何でしょうか