タロットの数霊が持つ補完的関係性について
はじめに
伝統的なマルセイユ版のタロットと言いますのは、比較的に純粋なままの自然法則が表されていると感じられます
一方でウェイト版その他のものにおきましては、作者が所属する時代や特定の社会地域、個人的価値観や信条など、あまり普遍的ではない相対的な環境要素というものがどうしても入り込んでいるものですので、ある人々やある時代にはカードの象意が当てはまりやすいということがある反面、時代や地域などを越えた普遍性というものは薄まってしまっている部分というのがあると考えられます
しかし伝統的なマルセイユ版においては、時代や地域、作者の価値観や信条などに関わるバイアスが少ない代わりに、今度はカードによって示される内容が抽象的と感じられてしまい、具体性が乏しいことから解釈に際して難しさが感じらるということがあるでしょう
マルセイユ版のような伝統的カードというのは、そもそも占いを目的として作られたものではありませんので、占う際の具体性に乏しいのは当然のことなのですけれども、占いを目的として作られたものでないからこそ、宇宙や自然の法則がそこに純粋な形で反映されているのであり、魂の向上を目指す者にとっては、多くの智恵をもたらすツールとなり得ているのです
東洋の易でも何でもそうですけれども、その解釈について時代性などを考慮して占い向きにアレンジしていくことは、一定の利便性をもたらしはするのですけれども、その分根本的な真理からは遠ざかり、人間を普遍的な真理へと導く力を失うことは忘れてはならないでしょう
抽象性を具体化しようとする方向にではなく、我々は抽象性の中に秘められている深い原理や法則性というものをより明らかにしていくことで、神秘的なツールを魂と人生の向上とに役立てていくことができるのでしょう
数霊の持つ意味の明確化
タロットカードの大アルカナは、「愚者」というマルセイユ版では番号の振られていないカードと最後の21番の「世界」の2枚、そして1番から20番までの20枚のカードの合計22枚で構成されています
タロットの大アルカナにおいては、一番大きな「21」という数字が、タロットが示す世界の全体性、完成や成就した状態というものを表しています
そして、1番から20番までのカードそれぞれは、それぞれ足して21という全体性に対応する10組のペアとして考えることができます(1+20、2+19、・・・9+12、10+11)
これらの10組はそれぞれがペアとして働くことで部分的な存在から全体性へと回帰する力を得ることができるということであり、それぞれの単独の数字は、ペアとなるもう一つの数字を意識することによって、部分で有りながらも全体的な統一性と強くリンクされ、より完成度の高いものとなり得ます
ペアの数字を意識するということは、お互いの要素を補完的に働かせることであり、その数字に示される内容を理想的なあり方に洗練させることができるということになります
そして、これら10組の数字のペアは、11から20の数字につきましては、数霊的な関連性から、10を引いて1から10までの数字に還元して考えることができますので、1+10,2+9,3+8、4+7、5+6、という、足して11となる5通りの組み合わせに還元させることができます
最初の1から10までの段階の数字と言いますのは、より基本的な原理や法則性を表しますので、この5通りで考えた方が原則性が明確化されやすく、また理解もしやすくなるという利点があるのではないかと考えます
5組の補完的ペア
それでは、単独の数霊を全体性へと回帰させる相互補完の考え方につきまして、1番から10番までの大アルカナで実際に考えてみることにしたいと思います
※以下のタロットカード画像の出典はすべて「CBDマルセイユタロット by ヨアヴ・ベン・ドヴ www.cbdtarot.com」からです
まずは1番と10番のペアですけれども、これは言うまでもなく、「はじめあるものにはすべて終わりがある」という真理を表しています
ちなみに「始め有る者は必ず終わりあり」とは中国の儒家の思想家である揚子という人が『法言』という書物に書き表した言葉として有名です
1番の「大道芸人」はすべての潜在的可能性を秘めた数字であり、何かをはじめることができる状態を表しています
そこにおいて10番を意識すれば、「最後まで全うする覚悟で物事は始められなければならない」ということが言えることになります
最近のように贅沢な世の中におきましては、様々なことを始められるチャンスがある反面、いい加減な気持ちで始めてはすぐに飽きて放り出してしまうような、節操のない習性というものが身につきやすい環境であるとも言えます
最後までやり通す覚悟で物事を始めることや、一旦手をつけたものは最後まで責任をまっとうしてやり遂げるといった心掛けというものが、有意義な人生の創造の為には非常に大切な心掛けとなるでしょう
以上は主に1の数霊の立場において、10の数霊の持つ意味合いで補完するケースでした
反対に10の立場から1で補完する場合には、「終わりとは新たな始まりの時である」という意識を持つことが大切となるでしょう
日本の武道におきましては「残心」ということを非常にやかましく言います
残心というのは、自分の技が相手に綺麗に入った後や、相手を倒した直後などに油断をして気を緩めてしまうことへの戒めであり、精神的な緊張を緩めてしまわないで、臨戦態勢をそのまま崩さずにいることを言います
物事をやり終えたり完成させたりした直後というのは、とかくに人の心は緩んでしまい、警戒心を解いてしまい勝ちな訳ですけれども、そこで生じる油断こそが次に敗北をもたらす非常に大きな要因となりますし、倒せたと思った相手が不意を突いて反撃してくることもまたある訳です
「勝って兜の緒を締めよ」とも古来よく言われますけれども、一つのサイクルの終わりに際して、次の新しいサイクルを意識して緊張感を保つことでこそ、人間は終わりをよく全うして有終の美を飾ることができるのではないでしょうか
有終の美とは、「初め有らざるなし、よく終わりあるはすくなし」という詩経に由来する言葉であるとされ、意味としましては「始めがないものというのはないけれども、それが最後までやり遂げられるということは非常に少ない」、ということになります
最後の締め括りこそが最も大切なのであり、やりっ放しの習性というのは是非とも改めなければいけませんね
続きましては2番と9番のペアですけれども、2番の「女教皇」は準備や蓄積ということを表しますし、学習ということにも関係する数霊です
9番の「隠者」は危機と再生に関わる数霊であり、危機を乗り越えるための叡智や導きを表します
2の立場におきましては、学習される知識などの内容について、それを自分の中でよく消化し熟成させて、人生の危機困難においても役立つような真の叡智へと高めなければならない、ということが言えるでしょう
ただ学んだという学びっぱなしの状態では意味がなく、学んだことを通じて自分の人生においてそのことを実際にどのように役立てていくのか、ということを考えながら学ぶことが必要ということであり、自分が何の為に学ぶのかという学習の動機というものが非常に大切である、ということになります
そうでなければ学んだことや自分の中に蓄えたものが、実際に実人生の上で何かの役立つということもなく、単なる宝の持ち腐れとなってしまうでしょう
単に学歴を得る為だけの知識などであれば、そのようなものが実際に役立てられることはほとんどないということになるのではないでしょうか
9の立場から言えば、智恵というのは自分が学んだことを土台にして表れてくるものであることから、常に学び続けることの大切さということが言えるかも知れません
例え教え導くような立場や第一線で活躍する実力者へと上り詰めたとしても、常に向上して学び続ける意欲を持たなければ、訪れる新しい壁や危機というものは乗り越えることはできないということでしょう
真の実力者の称号を持つ者とは、常に学びを怠らない人であるのでしょう
続いて3番と8番に移ります
3番の「女帝」はとても強い生産性を表しますけれども、青年期の発展力というものが、ものを知らないが故に怖いもの知らずで挑んでいけるという、いわゆる無分別さに起因していることに関係している数字です
一方で8番の「正義」は公平さや完全性を表しています
3の立場からは、何でもやれば良いという訳ではなく、無分別な段階ながらも、やはり最低限の自己統制は必要である、ということになります
3の良さというのは、あまり後先考えずに取りあえずやってみようという腰の軽さにある訳ですけれども、そうした軽はずみな行いによって、後で自分自身を困った立場や状況に追い込んでしまうことにはなり勝ちです
8番「正義」は物事を公平に判断するための天秤と、不正なものを切り捨てる剣とを持っていますが、物事が完成に至るためには、物事が正しく行われ、不適切な要素が充分に排除されていることが必要であり、そのための強い自己統御力を持っています
3の段階においても、そのような観点からの最低限の配慮を持っていなければ、発展力というものが破壊的な力として作用してしまうということになります
今度は8番から見ますと、あまり神経質に厳密な判断ばかりをしてしまうと、ものごとの発展力そのものが削がれて来てしまうということになりますので、物事にはある程度の曖昧さというものが常に必要である、ということになります
先の大戦後の食糧難の時代に、闇市の闇米などは決して口にしないで、政府の配給食糧だけを食べていて、結局は栄養失調で餓死してしまった裁判官の人というのが実際にいたという話は有名ですけれども、物事を厳密に考えすぎると現実的にはにっちもさっちも行かなくなってしまうということの好例としてよく耳にします
この話などは、3の数霊によって補完することを完全に拒絶した8の数霊に訪れた末路そのものを示すような実例と言えるのではないでしょうか
次は4と7のペアになります
実は先日、この4と7の数霊のカードを引いた際に、意味を色々と考えている中で、数霊の間の相互の補完的な関係性というものに思い当たり、今回この記事の中で考えてみることにしたものです
4番の「皇帝」は、安定と支配の象徴であり、7番の「戦車」は最も強い能動性の象徴です
4番の安定と支配というものについて、何の為の安定なのか、ということが問われなければなりません
人というのはとかくに安定というものを求め勝ちですけれども、それは動機として安楽さを求めているからでしょう
そして人は長く安楽さの中に留まっていると、見る見るうちに退行しはじめることになります
易経に「治に居て乱を忘れず」という有名な言葉がありますけれども、平和が続く泰平な世の中であっても、危急存亡の時を忘れず備えを怠ってはならない、という戒めです
7番は「戦車」は圧倒的な行動力を持って目的を遂行する征服力を持ちますけれども、4番が内的支配に力が向けられ、7番が外的征服に力が向けられているのは、非常に面白い対比です
4番は常に、今得ている、または得ようとしている安定というものが、その先にもたらすものは何かと自問自答しなければなりませんし、戦乱や災害などで社会が動乱しているというのでなければ、間違っても安定そのものが目的化してしまってはならず、「治に居て乱を忘れず」の心掛けがあってこそ、その安定には意味があるのだと考えなければなりません
今度は7番の側から4番について考えてみますと、先日わたしはこれを新幹線に例えてみる考え方をしました
つまり、如何に早く移動できる乗り物であっても、安全性や快適さが保証されているのでなければまったく意味をなさない、というようなことです
戦車の図柄には箱形の乗り物と、それを引く二頭の馬が描かれていますけれども、この箱形の乗り物は数霊の4が表しているものでなければなりません
7という数霊は9は奇数で有りながら3で割り切れるという偶数的な要素を持った両性具有的な数字であることから考えれば、もっとも奇数的な高いテンションを持った数字です
4は最も日常的な数字であり、7は最も非日常的な数字である、というようにも言えるように思いますけれども、7の強い能動性は圧倒的行動力をもたらしはしますけれども、それによって日常的な安全性や快適性というものは犠牲にされ勝ちとなるでしょう
能動性だけに意識が向かってしまえば、とにかくスピードは出るけれども、事故を起こし兼ねない危険な乗り物となってしまって意味がありません
ですから、安全性や快適さのためには、その能動性も多少は加減して緩める必要性があるのであり、勢いに乗じて物事をやり過ぎてしまうと後で後悔する羽目に陥ることになってしまいます
7の強い能動性というは、ともするとその慌ただしさに心を失ってしまうような可能性もあるでしょうけれども、「忙中閑あり」の諺にあるように、非日常的な状況の中においても日常的な平常心を失わないよう心掛けなければならず、4の持つ安定性や自己支配力というもので補完されなければ、勢いづいた戦車はどこへ向かっていくのか分からないことになり大変危険なところもあるということになります
最後の5と6のペアになりますけれども、このペアは隣り合った番号同士でもあります
5番の「教皇」は、信仰や理想などと関係しており、6番の「恋人」は結合や選択などと関係しています
つまり5で求めたものが6で与えられる、ということが言えそうであり、聖書にある「求めよさらば与えられん」という言葉を想起させます
このペアのちょうど真ん中が、1から10までの数字の折り返し地点になっていて、ここを中心にしてそれぞれのペアが向き合うことになりますけれども、この5と6のペアに限らず、ここを中心にして向き合うことになるすべてのペアの間で、因果関係というものが成立していることを意味するでしょう
先の聖書の言葉は、受け身でいるのではなく自助努力をして自ら積極的に求めることの必要性ということを示しているのでもあるでしょうけれども、何れにしても求めたものが与えられるというのは因果関係を表しているということになります
5の信仰や理想というのは、それを持つこと自体に既に価値があることですけれども、自身が求めたものが与えられることになることを予め踏まえた上で、求めて然るべきものを真剣に求めるということが大切なことのように感じられます
よく世間においては、理想と現実にはギャップがある、こんな筈ではなかったのに、などというような言葉が聞かれます
5と6というのは、正しくこの理想と現実という因果関係的な対比であるのですけれども、何故世間一般ではそれが成立し辛いことのように言われているのでしょうか
それは通常、人が理想だと思って思い描いているのは、実際には、こうなったらいいなというような手前勝手に抱いている単なる願望もしくは空想に他ならないからです
理想や信仰というものには、必ずやそこに到達せんという意志や信念というものが介在しているのでなければなりません
イエス・キリストが「求めよさらば与えられん」と言っているということは、それが宇宙の法則であるということである訳ですから、本当に心の底から希求しているのであれば、それが与えられないということは決して起こりえないことなのです
5においては、無闇に物事を信じることの危険性を示している、ということも言えるのであり、それは後に結果として現実化してしまうので、純粋で高潔な心で正しい理想を思い描かなければならないということが言えるでしょう
6におきましては、実際に何かと出会ってそれと結ばれたり、あるいはそれらの目の前に表れた複数のものの中から一つを選択しなければならないことになります
その時目の前に現れてきたものというのは、それが気に入ろうと気に入らなかろうと、それらはそれまでに自分が求めて来たものに他なりません
それまでに高い理想を持って、敬虔で真摯に生きていたのであれば、それこそ理想的な何かと出会って結ばれることになるでしょう
しかし、大した理想も持たずに、ああなったらいいな、こうなったらいいなというような手前勝手な空想に耽りつつ、実際の生活態度としては不平不満だらけで自堕落な生活を過ごしてきたというのであれば、やはりそれに見合ったものとしか出会うことはできません
しかし、それでもその結果の原因は自分自身に他なりませんので、出会ったものの中から選択するしかありませんけれども、そのように失望させるような出来事に遭遇するのは、元は自分自身がその直接的な原因を作っていたのであるという点を反省し、心を入れ替えて正しい理想を持つように努力するしかありません
まとめ
以上、非常に簡単に見てきましたけれども、何れのペアも相反的内容とともに因果関係的な関係性を相互に持っていると感じられます
わたしはホロスコープにおきましても、相反する位置にあるサインや度数の間の補完関係によく言及しますけれども、相反する内容を対立的と見てしまうのではなく、相互に受け入れて補完することで、全体性とつながったより完成されたものとしていくことができると考えています
そして今回考えてみた考え方は、ホロスコープ全体に働く原理としてではなく、30度あるサインの中の閉ざされたテーマに関して、各度数が持つ補完的関係性を考えることができるということで、そのまま原則を適応させることができます
一つのサインの1度から30度の中で、足して31となる組み合わせが15個あります(1+30、2+29、3+28、・・・13+18、14+17、15+16)
そして、これもタロットの場合と同様に関連する数字をまとめてしまうと、やはり同じ5組のペアに還元してしまうことができます(1+10,2+9、3+8、4+7、5+6)
これはホロスコープの持つ全体性ではなく、一つのサインの中で、そのサインの持つ完全性を発揮するために、それぞれの度数が持つ意味についてペアとなる度数の意味で補完するということになります
数霊の解釈と言いますのは、単独で示されると中々取っ掛かりが見つけにくいものですので、その数字の前後の数字以外にも、今回のような考え方を用いることで、より深みのある解釈をし、実生活の中で役立てることができるのではないかと思います
ちなみにルドルフ・シュタイナーは、人間の人生を7年周期で考えており、7年×9期の63年で完結するというイメージを持っていたようなのですけれども、幼少期の出来事が中高年期に影響するということをよく言っていて、63年の人生を真ん中の32歳辺りで折り返して、今回考えてみた数字の対応と同様の形で、影響が及ぶと考えていたようです
つまり最初の7年間(第1期、0~7歳)に起きたことが、最後の7年間(第9期、56~63歳)に強く影響し、同様にそれ以降も、第2期(7~14歳)に起きたことが第8期(49~56歳)に、第3期(14~21歳)が第7期(42~49歳)に、第4期(21~28歳)が第6期(35~42歳)に及ぶということになります
ということで、今回の考え方は神秘学的に考えても的を得た考え方であると言えるものかも知れません
今日は閑話休題的にこのテーマを書くつもりだったのですけれども、かえって普段よりも少し長めなものになってしまいました
以上、多少なりとも参考になりましたら幸いです
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