精神と肉体の相関性 ~コロナ禍を振り返って~

はじめに

現時点で「コロナ禍を振り返って」などと書きますと、まだ終わってなどいないなどとと激高される方もいらっしゃるのだろうと思いますけれども、予想していた通りにそろそろマスコミも挙って巧妙な手の平返しを空々しくし始めてもいますので、一旦はこのタイミングでこれまでのことを総括して、次へと進んで行くことを考えなければならないのではないかと感じられます

個人の人生にしても世界にしても、常にその行く手には様々な不測の困難や障害が待ち受けているものですけれども、その中のたった一つの事柄だけに囚われてしまい、その他の危険性に目が向けられなくなってしまっている状態ほど、危険な状態というのもこれはありません

しかし時として人は、一つの不幸な境遇に見舞われた場合に心がすっかり萎縮してしまい、、危険ばかりではなく幸福をも含んでいる筈の将来的なその他一切の可能性というものに目を向けることができなくなってしまい、自分の身に降りかかった特定の不幸にだけ意識を向けながら、自身を悲しみのベールで覆ってしまうようなことをし勝ちなのではないかと感じられます

そのように心が萎縮してしまっている状態において、その人が経験した一つの不幸の意味というのは、おそらくは次のような意味を持っているでしょう

「自分に降りかかる不幸はもうこれ一つでたくさんだ、この先起こりうるあらゆる変化に対して、仮にそこにポジティブな内容が含まれている可能性があるのだとしても、そのことと同様に今以上の不幸に見舞われる可能性というものも含まれている以上は、それらに対して正面から向き合う勇気など最早自分は持ち合わせてなどいない。この一つの不幸だけに拘って、それだけを見続けることによって、自分が今以上に不幸になる未来の可能性から私は守られていると感じられる、だから私はこの不幸を手放す訳になど絶対にいかないのだ」

つまり、既に見舞われた不幸を最大限に強調することによって、極めてネガティブな形で、それ以外のあらゆる新たな不幸の可能性が排除されるように錯覚してしまうような、ちょっと病的で混乱した精神状態に陥ってしまっているような人、つまりあたかも脅威がそのままあり続けてくれることを望んでいるかのような言動をする方というのが、少なからずいらっしゃるように見受けられます

また、そのように失敗や不運などを経験した際に引き籠もり的な精神状態にすぐに陥ってしまうということは、現代では非常によく見受けられることのように感じられますし、現代人の精神性というのが如何に脆弱で不安定な状態に置かれているのかということが分かります

新型コロナに関してだけ危機意識を尖らせて、その他の一切の可能性に対して目や耳を塞いでしまっているような人が多くいらっしゃるように感じられますけれども、こうしたことはまったく正常さを欠いた精神状態なのであり、これほど危険な状態というのはないというのは、少しく冷静になって考えてみれば、これは容易に分かることではないでしょうか

人体の仕組み

現代の唯物的科学におきましては、人間というものをどこまでも物理的、化学的、機械論的な方面ばかりに重心をおいて考え、その結果、精神を涵養するような習慣はあまり顧みられずに、肉体に対する外的な手段によるアプローチばかりが主流となっています

しかし、精神主義的な見地からは、肉体というのはあくまでも精神の下流に存在している道具であり器のようなものに過ぎず、人間の本来性というものはあくまでもその精神や霊性にあるというように考えられています

ですので本来であれば、人間の本体により近い精神の側から、その器である肉体をコントロールすることが主に考えられなければなりませんし、人間というのは本来的にはそのように宇宙によって設計されている筈なのですけれども、現状では、下流の肉体の側から物理的・化学的な外的手段によるアプローチばかりが考えられており、人間の持つ精神の力というものがまったく蔑ろにされてしまっています

人間の心と肉体というのは神経系を通じて互いに密接に結ばれている訳であり、より具体的には感覚神経によって肉体で感じられたものが中枢神経に伝わり、中枢神経は運動神経を通じて肉体を動かすというようになっていますけれども、そこだけを見ますとやはり人間を機械論的にしか捉えていないことになります

肝心なのは、人間の肉体の状態や行動に関して密接な関係を持っている神経系の働きというものに対して、精神の状態如何というものが著しく強い影響力を持って左右している、ということになりますけれども、そのようにな認識に立てば、精神について度外視することが如何に荒唐無稽なことであるのかということが分かります

人間の感情の状態の如何によって、神経系の働きには顕著な影響が生じますけれども、我々は感情的な混乱によって容易に自分自身のコントロールの正確さを著しく損ねてしまう結果に至るということは、誰にでも身近に感じられている事実でしょう

しかし、このように感覚神経や運動神経といった末梢神経に関する挙動というのは、どちらかと言えば人間の意識的な行動に関する影響であるために、その影響というものについて比較的よく自覚することができるのですけれども、その働きが無意識下で営まれている自律神経系の働きに対する精神状態の影響というものにつきましては、それと比較すれば格段に自覚し難いものとなっているように感じられます

この自律神経系統というものが、生命の維持ということに関して非常に根本的なところで機能しているということを考えれば、人間の精神状態の如何によって、その影響が如何に甚大に生命維持の働き全体に及ぶものか、ということには殊更に意識が向けられて然るべき問題です

現代医学においてはもっぱら外から与えられる精神的ストレスの影響という、どちらかと言えば外因的な要素の観点から、自律神経の失調について考えられているのだと感じられますけれども、宗教やスピリチュアリズム、自己啓発といった、より精神主義的な考え方の多くにおきましては、ストレスというような外的な刺激に左右されるというよりは、人間の精神の積極的な在り方や思考パターンといった内因的なものの方に、その原因を求める考え方が主流となっています

心理学に関して言いますと、フロイトというのはすべての精神疾患にはその原因となるトラウマが存在するというように、すべての結果にはその原因が存在するという自然科学的な因果律に基づいた考え方をしましたけれども、そのようなフロイトと決別したアドラーは、そのような一般的な自然科学的考え方をせず、すべての問題は自分の自由意志による選択の結果に生じたもの、つまりその個人が自らの目的意識に基づいて行動した結果として惹き起こされているに過ぎないというような考え方をしました

このためアドラーは自己啓発の父というように呼ばれている訳です

人間という精神的な生き物は、本来的には自然科学的な因果律からは超越した部分のある存在なのであり、我々は常に自身の目的意識に基づいて何かを創造する存在なのであり、そのような意味において我々は地上に生きる神としての部分を、その本質部分に宿している訳です

生起する出来事の責任のすべてを外在的な何かの影響に帰することに終始しているとともに、精神の持つ自由な創造性というものをあまり積極的に活かそうとせず、そのために必要となる精神的な訓練を自らに施さないことに、現代人の精神の脆弱性というのは起因していることにつきましては、今一度よく考え直さなければならないでしょう

自然治癒力と免疫力

生命を維持するために無意識下で働いている自律神経というのは、言うまでもなく人間に備わっている自然治癒力と免疫力とを支えてくれている主要な力と言えるのでしょう

この自然から賜っている偉大な力は、何よりも精神の状態との間に極めて密接な相関性を持っていると言えます

つまり、その精神状態がネガティブな状態にあるのであれば、その人の持つ自然治癒力や免疫力というのは、その本来の働きを極めて不十分な形でしか発揮できないということは、考えなくてもどなたにも容易に想像出来ることではないでしょうか

病気などに対しまして、もっぱら自分自身に備わったこれらの力で闘おうと意志する人と、もっぱら医療などの外的手段に依存しようとする人という二通りのタイプの方というのが世の中にはいらっしゃるかと思います

前者は、常に自分に備わった自然の力に感謝し、己自身を鼓舞して勇気づけながら、最大限にその力を発揮しようと心掛けています

これは、自国の領土を敵からの攻撃や侵入から守ってくれる自前の軍隊を、常に怠りなく鍛錬して、その能力を一定以上に高めて有事に備えているのと同じようなものです

しかし、後者においては、自前の軍隊があるにも関わらず、はじめから自分で闘うようなことは露ほども考えずに、もっぱら外国の傭兵や自分を守ってくれる友軍の力ばかりを頼みにしていて、肝心の自前の軍隊に対しては何の期待も抱くことなく、ほったらかしにされています

もし、ある親がいて自分の子供に対して、この子には何もできる筈がない、この子が何者かになれるなんてことはあり得ないと、そのように認識していてまったく何の期待も掛けずに、他所の家の子供ばかりを褒めそやしたり羨ましがったりしているとした場合に、その子供は一体どのような気持ちになるでしょうか

また、その様な子供がすくすくと成長を見せ、十二分に自分の真価を発揮するようなことが期待できるでしょうか

自分が非力なのであれば、誰かに助けを求めるということは、一概に間違っているという訳では決してありません

しかしながら、自ら努力をする前に、端から自分以外のものの力ばかりを当てにしているのであれば、その人の持つ潜在的な能力というものを、相当に低いレベルまで劣化させてしまうことになることは、火を見るよりも明らかなことなのではないでしょうか

今般のコロナ禍におきましては、世の中においてそのような二つのタイプのグループにはっきりと大きく2分された結果となったように感じられるところがあるように感じられます

天はどのような意図に基づいて、今回このような選別を行ったのか、また、そのことが今後の世の中にどのように影響していくのかということは分かりませんけれども、何かしら大きな意味はあるのだろうとは感じられるところです

わたしは別に現代医療を否定している訳では決してありませんので、その辺は誤解をしないでいただきたいですし、現代的医療を一切受けるべきでないというようなことを言いたい訳でもありません

大切なのはあくまでも人の精神の在り方ということなのであり、安易に外的な手段に頼るばかりでいることによって、結果的には医療が与えてくれる恩恵を遙かに上回るようなマイナスの影響が、自らの精神の在り方の影響によって惹き起こされる可能性があるのだ、ということを強調しておきたいに過ぎません

本当の脅威とは何であったのか

これまでのように人間の基本的な仕組みや、精神の在り方が肉体に与える影響の甚大さを踏まえましたときに、次のようなことが言い得るだろうと思います

それは、「執拗に不必要なレベルで不安を煽り立てた存在がいたのであるとすれば、人間が本来的に精神的な生き物であると考えた場合には、そのように盛んに煽り立てられた不安によって、人々の精神状態は大きく損なわれたであろうし、その結果として著しい自然治癒力と免疫力の低下が招かれたのに違いない」というようなことです

そのように考えました時に、本当に恐ろしい存在とは果たして疫病だったのだろうか、それとも、それにも増して大きな実害を人々に被らせた存在があったのではないか、というようなことも考えられる訳です

人間同士は集合意識でつながり合っていますので、声高に不安が煽り立てられた場合に、その伝染力や影響力というものは、実に想像を絶するスケールと影響力の強さとを伴っている可能性があります

そのような場合に、そうした不安が執拗に煽り立てられた結果として、最も甚大な影響を被るのは、より感情的で心情的な在り方をしている若い女性や子供達となるのは当然のことです

無論、人との接触回数の低下や経済的な事由などの直接的な要因が他にもあったのではあろうけれども、精神主義的な見地から考えれば、より感情的で心情的な生き方をしている若い女性と子供達の多くが、執拗に世間にまき散らされた不安の伝播によって、著しく精神を弱められたであろうこと、その打撃は他の何ものにも増してしたたかにそれらの人々を手酷く打ちのめして、生きる気力さえも奪ってしまったことだろう、ということがある程度確かなこととして言えるのではないかと感じられます

このことにつきましては、いたずらに何かを批判してみたところで仕方ありませんので、皆様にも客観的な冷静な目で、それぞれご自身でこのことに関してはお考えいただけたらと思いますので、あまりこれ以上多くはここでは語らないことにしておきたいと思います

最後に

以上のような事柄を踏まえまして、それでは私たちは今般のような大きな禍に際して、一体如何なることを行えばよかったのか、ということが反省されなければなりません

今回のコロナ禍においては、私自身が著しい身体の不調に悩まされていて、このブログに記事をあげることくらいしかできませんでしたし、そのことも別に大して誰かのお役に立ったという訳ではないだろうと思います

少なくとも、再度同じ様な状況に世間が見舞われた時というのを想像しましたら、少しでも自分を成長させる気持ちを弛ませてはいけないなというようには思いますけれども、果たして一体どのようなことであればできるのか、、、

 

今日はわたしの誕生日でした

折角生まれて来させていただいて、今もなお生きさせていただいていますけれども、未だに自分のキャンパスに何かが描かれたようにも感じられないのが口惜しいところです

最近はすっかり調子が戻ってきて、既に昨年までの何倍ものことを毎日こなすだけの活力も戻って来ていますので、今年は何かしら進展させることができればいいなと思います

 

それでは、何かしらご参考になりましたら幸いです

精神と肉体の相関性 ~コロナ禍を振り返って~” に対して2件のコメントがあります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です