心的機能と惑星の3態 ~備忘録的日記~

もくじ

①思考と感情と祈り
②神秘学と心理学
③パーソナル・プラネット
④ソーシャル・プラネット
⑤スピリチュアル・プラネット/ハイアー・オクターブ
⑥唯物的社会の特徴と霊性の向上
⑦スピリチュアル・プラネット・ピープル(SPP)への期待

①思考と感情と祈り

人間が幸せに問題なく生きていく際に必要なこととして、行いに至る以前の思考と感情とを適切にコントロールしなければならないということが、とても大切な課題として意識されています

しかし、一般的に言われる思考や感情を統御することの必要性というのは、それらが行動に直接的に結びつくものであることから、思考と感情の制御によって適切な行動を導くことによって失敗を回避し、自分にとって都合のよい結果を得るというように、利己主義的な目的に結びついたものであるかも知れません

そして、一見合理的とも考えられるこのような考え方は、結果的には自己の利己的な欲望への囚われから、かえって思考と感情の乱れを生じさせるという本末転倒した結果へと結びつきやすいものであると言えます

一方で、より精神主義的な見方からすれば、思考や感情というのは既にそれ自体が世界に影響を及ぼし得る、一定の力を持った実在的なエネルギーとして認識されており、思考や感情を麗しいものとして保つこと自体に、高い価値が認められているものであり、それは自らの人格及び霊性を向上させるための必須的な手段なのでもあります

例えば、新約聖書のマタイによる福音書には次のようにあります

5章28節『しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。』

このようなことは、我々が考えたり想ったりすることが、既に世界に対して見えざる影響を強く与えるという霊的な真実を踏まえて戒めとして、行い以前の思考と感情の段階においても慎みを忘れないようにしなければならないことが示唆されているものと理解できます

また、ルドルフ・シュタイナーの「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) 」におきましても、神秘道を歩むための七つの条件の中の第三の条件として、次のように記されています

『修行者は自分の思考と感情が世界に対して自分の行為と同じ意味を持つ、という立場に立てなければならない。』

もし、思考や感情が世界に対して行いに等しい価値を持つということがないのであれば、祈りというものも何ももたらさないということになりますけれども、実際には祈りには物事に働きかけて現実化させる力を、少なくとも潜在的には持っている訳です

祈りとは、思考と感情を通常よりも意識的な形で、あたかもレンズを使って焦点をつくり出すようにして意識の集中度を高め、意図する現実の創造を試みるものですけれども、不用意に思い抱いている思考や感情と言いますのも、不用意な意図されない行動程度には現実世界において作用を及ぼし得るものです

そして、それらの影響をもっとも強く被るのは他ならぬ自分自身である訳ですから、自らが抱く思考や感情というものに対して、なるべく注意を怠らないように心掛けることは、非常に大切な心掛けであるということになります

普段から世の中や周囲の人々の安寧を願い、あらゆる禍が小さなレベルに留まり、できれば無事息災であるようにと祈ることを習慣としていれば、世の中全体に禍が及ぶような場合でも、その本人だけには災いが事前に非常に小さな形で済まされるようなことがあります

神道では昔から「大難を小難に、小難を無難に」というように祝詞で唱えたりなどしていますけれども、日月神示の中でも、「神は大難を小難にまつりかえているのにわからんか(天つ巻第二十四帖)」とか「大難小難にまつりかえるよう、拝みてくれよ。(水の巻第十五帖)」などと書かれてあります

わたしも若い頃から神社などでは、「世の中の大難を小難に、小難を無難にまつりかえ給え」というように祈るのが習慣になっていますけれども、何かしら自分の身に災いや不幸が降りかかってくるような場合に、少し後になってより規模の大きな災いが世の中の広い範囲で起きてくるようなことがよくあるように感じられます

それ故に、過去2年半の間に自分が被った著しい体調不良の影響などが、よりひどい形で広範に世間に現れて来る可能性があるのではないか、などというようなことが気になっていたりしていますけれども、今年の日本の超過死亡者数は異常な高さを示した昨年を凌いで、少なくとも10万人を越えそうなペースですし、年内に数十万人のオーダーで超過死亡者が出たとしてもおかしくないような状況にあります

一人の人間がいくら祈ったところで、世の中全体が受けるべき災難というものを消し切れるようなことは到底ない訳ですけれども、そのように祈った当人だけにはきちんと大難が小難に、小難が無難にまつりかわっている、と感じられるようなことは非常によく経験されますので、そのことは祈りや思考や感情というものの影響をもっぱら受けるのが自分自身であり、思考なり感情を発した当人にまず最初にその作用が現れるということは紛れもない事実なのであり、「人を呪わば穴二つ」というような諺にも、人類が経験的に知り得た事柄というものが反映されているということが言えるでしょう

②神秘学と心理学

思考と感情と意志に関しまして、シュタイナーは次のように説明しています

『人間は物質体、エーテル体(形成力体)、アストラル体、自我に区分される。物質体とエーテル体のあいだで、心魂的に思考が生じる。エーテル体とアストラル体のあいだで、心魂的に感情が生じる。アストラル体と自我のあいだで、心魂的に意志が生じる。』(シュタイナー/心理学講義(平河出版社))

このように人間を構成する各実体の間で相互作用が生じることで、人間の心理的な営みが生まれてきます

我々の自我とアストラル体とが、眠りに際してエーテル体と肉体から離れていき、そして目覚めに際してエーテル体と肉体に戻って来た際などに我々は夢を見ることになりますけれども、それはアストラル体がエーテル体から離れたり触れたりして接触したりする際に、感情機能が触発される結果として表れて来るものでしょう

『「夢」:アストラル体が物質的身体から離れていながら、エーテル体とは結び付いている状態で、夢が現われる・・・感情は人体の中に沈んだ夢である。』(「シュタイナー用語辞典」風濤社)

我々は身体の五つの感覚機関を通じて外界と接触し、「視る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る」ことで外界の有り様を知覚しますけれども、物質体とエーテル体とのあいだで生じる思考というものは身体の感覚機能を通じて感覚されたものが何であるかを認識するための心的機能であるということになります

つまり思考機能の第一義的な機能というのは現実を認識するということであり、五感を通じて感じられたものが何であるかを推測して明らかにすることでなのであり、思考機能の持つ知的欲求というのは世界を知ることへの欲求であるというように言えるでしょう

続いて、思考によって認識されたものに対して、今度はエーテル体とアストラル体のあいだで作用が生じて、好悪の感情が生じます

感情機能のもっとも基本的な機能というのは、煎じ詰めれば何かを好むか好まないかを弁別するものです

目に触れた色や形から思考がそれが何であるかを認識した後、それが自分にとって好ましい物であるか否かを感情機能が弁別します

最後に、アストラル体と自我は、認識され、それに対する好悪の別が明らかなものに対して意志の力を作用させて次の行動の段階へとつなげます

意志の第一義的な作用とは、つまり物事を総合的な観点から判断するとともに、行動の可否についても判断するということですけど、そこでは常に自分らしさというものが創造的に表現されることが強く意識されています

一連の作用を連続的に捉えますと、まず目を通じて感覚されたものに対して、思考がそれを自分の家の白い猫だと判断し、続いて感情がそれに対してとても強い好意的な感情を生じさせます

続いて意志の作用が、その自分の家の白い猫に対して、自分にとって好ましい存在であるため、より親しくしようと判断します

続いて自分の好意的感情が意志によって肯定された感情機能は、自分の好意的感情を表現したいと感じ、思考はどのようにすればその猫が心地好く感じて自分自身とより一層親しくなれるかの方法を考え、身体を通じて猫を撫でるという動作をします

単純に言えばそのような流れで各機能が連続的に連携して機能するでしょうけれども、実際には物事はもっと複雑であり、一旦は撫でようとしましたけれども、昨日は猫の機嫌が悪い時に撫でようとしたら引っかかれてしまったことを思い出して、途中で躊躇するかも知れません

より複雑な例としては、テーブルの上に自分の大好きなお菓子が置かれていて、思わず手を伸ばそうとしましたが、最近自分の体重が増えていることに思い当たったので、自分のお菓子に対する好意的な感情を抑圧して、手を出さないぞと意志が判断したりします

動物にもそのような感情的な葛藤というのは生じ得るかも知れませんけれども、人間の場合のように自我を持っている訳ではありませんので、基本的には自身の欲求に素直に従って生きており、人間というのはより高度な総合的な判断を意志が行うために感情的に非常に複雑な作用がもたらされ、様々な抑圧や葛藤などが生まれてくることになります

また、これらの心的機能には、それぞれに受動的な作用と能動的な作用とがあるでしょう

思考の受動的な作用とは、感覚機関を通じて知覚されたものを通じて世界を知ることであり、それらをより詳しく深く知りたいという知的欲求となりますけれども、能動的な作用としては、自分の意志や感情に基づいて世界をどのように変えればよいかについて、その方法や手段などを考えるというようなことがあります

感情の受動的な作用は、知覚され認識されたものに対して単純に好悪の感情を抱くということですけれども、能動的には好きなものをより一層好きになってより深く長く味わっていたいという所有的欲求であるとか、身近な人とその感情を共有したいという共感的欲求などのように作用します

意志はそれらよりもより一層高度で複雑な機能ですけれども、創造的なポジティブな側面と消極的なネガティブな側面というのがあり、ある物事には積極的にアプローチしようとするし、ある物事に対しては消極的なアプローチ、つまり避けたり抑圧したりするということになりますけれども、様々な基本的欲求を総合的に判断しながら、これこそ自分だと思えるような形で欲求の取捨選択を行った上で、創造的な自己表現へ向けた行動へとつなげます

③パーソナル・プラネット

原初的な心理学であった占星術においては、これらの心的機能が主に個人的天体であるパーソナル・プラネットとして表現されています

最も基礎的な段階というのは月ですけれども、月には無意識的に作用する生存欲求というものが関わっていると感じられます

先ほどの感情との関わりで言えば、自分が安らかで平和な状態でいたいという、生きる上で必要となる生存欲求の充足に関わる感情というのはこの月が持っていると考えられ、食欲や睡眠欲の他、自分の存在レベルに関わる心地よさという感情に関わりますが、人間の持つ非常にネガティブな感情としての怒りや嫉妬、不安などは月の本能心的なレベルの欲求の表れであり防衛機制に関わっているものとして考えられます

これに比べますと、上の項で述べたような感情機能というのは金星が担っており、月というの主には知覚される以前の本能的な部分に関わる防衛機制的な自己保存に関わるような感情欲求であるのに対して、金星というのはそれが一旦知覚された上で、それが自身の趣味趣向という自己人生の創造につながっていくような要素に関連したものであり、意識されている感情であるというように明確に分けて考えた方がよいと個人的には考えています

月は生まれつきの自己をそのまま保存したいという感情欲求、金星は人生において新たに好ましい要素を発展的に創造していきたい願望に関わる感情欲求に主に関係しているといったような感じです

しかしながら、この両者は等しく感情的欲求に関わる機能に関与しているため、互いに密に連動して機能している側面が多くあるため、厳密には区分仕切れない部分があるものとも感じられます

水星に関しましてはそれが思考機能を司っていることは言うまでもありません

そして太陽は意志を担っており、火星は意志の判断に基づいて実際の行動を司っています

金星が持つ感情的な欲求というものは、人間の個性的な在り方を決定づける上で重要な要素ではありますけれども、人間はそのような感情的欲求にばかり一方的に従っている訳でもなく、人生の創造というのはあくまでも太陽の担う自我欲求に従ってなされます

しかしながら、金星と火星とは太陽の両隣の惑星ですので、金星と火星というのは太陽の働きとの緊密な連携がとられており、個人というものが創造的に表現される過程において太陽を中心としたこの三つの惑星というのは互いに緊密に連携しながら重要な軸となって働いているものとして感じられます

これらのパーソナル天体の相互作用というのは、実際的には非常に複雑に入り組んだものであり、人によってある機能が強くある機能は弱いといった相違があり、例えば金星の感情的欲求や月の生存欲求と行動欲求の火星とがダイレクトに連携して機能しているような傾向の人というのも存在し、そのような人の多くは自制心のない我が儘で自己中心的な言動を欲しいままにするでしょうし、水星が金星より強いかあるいは弱いかで、理性的か感情的かといったようなタイプの違いがでてきます

しかしながら、青年期以降に太陽の持つ自我が健全に発揮されるようになる過程において、それより低次の欲求が剥き出しな形となるような言動というのは為されなくなることになりますけれども、自我が発達せずに動物的、本能的な段階に留まっている場合というのは、自我機能を持つ太陽が機能的に弱いか不全であり、不健全で非建設的な方向にしかその力が使われておらず、より低位の自己本位的な欲求の満足の充足ということに専ら関心の焦点が置かれているということになります

そして、それらの各心的機能の発現の強弱やポジティブさやネガティブさというものは、出生図で確認すれば何れかの配置などで示されているということになるでしょう

思考と感情と意志のそれぞれについて、思考機能が優位的に働く人というのは、現実を素早く正確に把握できるとともに、置かれた状況に対処するための方策に関して知的にアプローチすることが出来ますが、この機能が単独で強く働き過ぎますと、冷静に状況を分析して把握することばかりを好んで独自の視点を持ちすぎるようになり、人や社会から孤立して閉鎖的で冷たい人間となり勝ちとなってしまいます

感情的機能は人生に多くの楽しみを見出し、それを身近な人達と分かち合うことができますけれども、この感情機能ばかりが単独的に強く働く人の場合は、人や物事に入れ込むことばかりに夢中となってそれらに依存してしまい、自らの主体性が損なわれて主体性のない依存体質の人間となっていきます

意志の強さは、力強く自分らしい人生を創造していくために欠かせませんけれども、この意志の力がが単独で強く働き過ぎるような人といいますと、何でもかんでも自分の思う通りに人や物事を動かしたい衝動が抑えられなくなり、権威主義的で暴力的な人間となりやすい傾向を帯びてくることとなります

ですから人間はこの各機能をバランスよく発展させていかなければならず、持って生まれた優位機能ばかりに依存した生き方は、次第に偏った人間性を生み出していき、結果的には人や社会とうまく調和できない、生き難い人生を自ら構築していくことにしかなりません

試みに基本的な心的機能を図示すると下のようになりますけれども、これは皆さんの理解に資する上で便宜的に試みて書いてみただけのものとなります

ここまでは個人的天体によって表現される心的機能のごく基本的な段階だけを示しましたけれども、更に上の段階におきましては木星や土星といった社会的天体との関わりがあり、更にその上には霊的天体であるトランス・サタニアンも存在しています

上の図では基本的な、自己欲求に従った比較的自己中心的な世界観に留まっている段階の人間の心理段階が抽象化されたものが描かれています

④ソーシャル・プラネット

その上の段階では他者や社会というものを踏まえた人間の社会性との関わりが出て来ますけれども、それらは社会的天体であるソーシャル・プラネットが関与しています

木星というのは精神的な成長を促す力であり、それが健全に発揮される場合には高遠な理想の追究に向かい、真理の追究、福祉の実現、宗教的・哲学的な資質の涵養といたように、真善美を人生において実現していく方向に作用しますけれども、これが不健全な方向に働けば、自堕落で無節操な方向に自身を助長させていくような場合もあり得ます

土星というのは自分が守るべき規律性や最終的な目的性を表していますけれども、この部分が適切に機能していませんと、木星の拡大や成長を求める方向性が過ぎたるは及ばざるが如しというような状態となってしまい、調子の良いことばかり言っていてしまりの無いような人生傾向になって行き兼ねません

ルドルフ・シュタイナーは、火星・木星・土星を、「人間を解放する惑星」と名付けることができます。それに対して、金星・水星・月を「運命を規定する惑星」と名付けることができます。(「星と人間」風濤社)』と語っていますけれども、月と水星と金星というのは、過去世における自身の生き方が色濃く反映されたものであり、そうした部分を中心にした生き方というのは、単に規定された運命を惰性的に流されて生きているだけのことにしかならず、今世においてもたらされるべき成長を促す力というのは主として木星と土星によって与えられる訳です

火星という惑星もまた非常に重要でありますのは、単に何を考えたり感じたりしたか、という時点においては実質的には何も変化させることは出来ず、今世において実際に言動を通じて為された物事だけが、自分自身を新たに規定する要素として創造されることになり、太陽が意志したものを実際に行動に移す勇気というものに火星は関わっています

勇気をもって実際に行動に移すことによって、我々ははじめて宿命論的なカルマ的な囚われから脱却して、今世においてあらたな自分というものを創造しゆくことができると言えますので、火星というのはパーソナル的も要素を色濃く持ちつつも実際的にはソーシャル的な要素の方が強いものとなるというか、火星に関してはその力を利己的に発揮するのか利他的に発揮するのか、というところでどちらとも取り得るものとなるというところがあるものとも言えますけれども、自己の生存確保の必要性という観点からは、必ずしも利己的な行動のすべてが否定されるものではなく、中庸的なバランス感覚が常に求められるということになるでしょう

そして今世での成長においても、ただ単に成長するということだけではなく、実質的に何が成果として刈り取られるのか、という部分においてはじめて意味を為してくるということになりますので、土星を人生を通じて最大の統括者として機能させているのでなければなりません

何かしらの分野で著しい成功を収めたような人間が、必ずしも最後まで社会的に評価されるという訳ではないというのは、結局は人生の開拓が木星レベルで終わってしまい、土星の要素が開拓されていなかったことに起因することになるのでしょう

かといって土星の要素ばかりが強くても、今度は自分自身を雁字搦めにしてしまい、偏屈で窮屈な成長の乏しい人間となってしまうことになってしまいます

個人の社会的発展性と基礎的な個人的欲求の充足とは、それぞれバランスがとられていなければならず、低位の欲求の充足というのもある程度は満たされていなければ健全に自己を社会的に発展させていくための原動力が不足してしまいます

何れにしましても、人生がどのように形作られていくかに際しましては、太陽の意志力がどれだけ健全な形で発揮されているか否かに左右されることになり、意志力の顕在化を高めた上で、生きる上での指針となるものを木星や土星に求めて信念として確立し、道徳的・倫理的に価値ある人生を創造していくことが求められます

⑤スピリチュアル・プラネット/ハイアー・オクターブ

基本的には人生は土星までの古典占星術の範囲内でほとんど形成されていきます

霊的天体(スピリチュアル・プラネット)である天王星、海王星、冥王星は、現在の人類の現段階ではほとんど意識的に活用することが難しいものです

これらのスピリチュアル・プラネットは、人間の心的機能との関わりで言えば、通常はあまり意識されることのない霊的な範疇において機能するものです

コラム(土星以遠の天体の呼び名について)

日本ではトランス・サタニアンという呼び方が一般的ですけれども、パーソナル、ソーシャルが惑星の性質の一端を表す呼び方であるのに対して、トランス・サタニアンというのは単に土星以遠という距離を表す概念で呼んでいるというのは些か問題があるのではないかとも考えられます

他にトランスパーソナル・プラネットというような呼び方もあるのですけれども、個人を越えたものという意味で捉えればソーシャルもある意味では既にトランスパーソナル的な要素を含んでいるように考えられると個人的には感じられます

個人的には少なくとも惑星の三段階の階層に位置づけて表現する際にはスピリチュアル・プラネットと称するのが、もっともこれらの天体の性質を素直に直接的に表現しているものと個人的には感じており、それ以外のところではトランス・サタニアンと称しておけばよいかと感じます

物事を把握して知るという水星の知性のハイアー・オクターブとして霊的に物事を把握する霊的直感力を司る天王星があり

物事の好悪を判断して好ましいものに共感しようとする金星の感情機能のハイアー・オクターブとしては霊的な見えない波動レベルでの霊的共感力を司る海王星があり

行動の活力源である火星に対しては、霊的な活力源である冥王星があります

実際的にはソーシャル・プラネットである木星と土星もまた、水星の知性や金星の感情機能、火星の行動欲求の上位バージョン的な機能を持っています

水星というのは現実世界を把握して理解するとともに、自分の意図に合った環境や社会の創造のための手段を見出しますけれども、水星というのは現実世界を外的具体的な形で把握し、唯物的な生き方と関わっており、因果律的、数学的、確率論的、統計学的、遺伝学的といった現代の唯物学的自然科学を生み出す基盤です

一方の木星はこれに対して抽象的で概念的な直接的には見えない世界の法則性を体系的に明らかにし、宗教的、哲学的、芸術論的な高度な教養と関わっています

金星の美的感覚や愛の感情というものは、あくまでも主観的であり自己中心的な世界観のものであり、基本的には自己あるいは自己と別かち難い近しい者の欲求を満たし幸福を感じさせるものに過ぎませんけれども、木星の次元においては美意識や愛情といたものが、公共性や福祉性との関わりを持ち、より不特定の広い範囲を対象とした幸福の実現に関わっています

火星と木星との間には直接的な関連性は感じ難いものですけれども、火星の持つ行動欲求というのは自己拡大欲求であるとも言えるので、それが木星の社会的欲求というのは善なるものの拡大欲求であり、善を為す行動欲求であるとも言えます

ここでの土星の働きは、木星が真善美の高い社会的欲求を満たす行動に人間を赴かせるためには、まず自己中心的なレベルの低い自己欲求が適切に規制されなければならず、利己的な欲求と利他的な欲求というのは常に二律背反的に機能するということを考えれば、土星によって小我が適切に抑制・制御されることなしには、利他的な行動欲求が働くことがないことを考えれば理解することができます

「知情意」とは知性と感情と意志を表しますけれども、この意志は太陽の範疇ですけれども、ここで言う意志とは行動と直結するものを意味します

つまり知情意とは水星・金星・火星が太陽の意志に統括された上で生じる人間の心的機能の働きです

この知情意が木星の社会的欲求に関わると真善美へとバージョンアップされますけれども、知情意と同じ並べ方をするなら真美善となります

スピリチュアル・プラネットというのは更に上位の宇宙的なレベルにおける真善美に関わっています

パーソナル・プラネットは自己中心的な世界における真善美の追究であり、ソーシャル・プラネットは地上において社会的に表現される真善美を目指すものであり、スピリチュアル・プラネットは宇宙的真理としての真善美が、人間や社会の都合ということとはまったく別の次元から作用してくるものです

⑥唯物的社会の特徴と霊性の向上

人間が現実的で唯物的な在り方しかしない場合には、その人にとっては主にパーソナル・プラネットの機能というものが重視されており、道徳的・倫理的な生き方をする方の場合はソーシャル・プラネットの機能が重視されていると言えます

精神的・霊的な生き方をするタイプの人間の場合は、スピリチュアル・プラネットが機能している側面が多くなります

人にはそれぞれ生まれ持った役割や課題というものがあり、一概に精神的・霊的なものだけが偏重されるべきではなく、ある人にとっては唯物的な生き方によって世界や人類に貢献するような使命があるというようなこともあるでしょう

また、社会に適応する段階にある年齢層にとっては、パーソナル・プラネットの機能は非常に重要となりますけれども、極めて唯物的な生き方への傾斜を強める一方である現代人というのは、いつまでのその段階に留まって人生における自主自律的な在り方の創造を放棄しています

経済的な効率性を追究する資本主義というのは、労働における人間の在り方を非常に狭い範囲における特化された機械的な作業形態へと仕向けており、そこでは人は単に社会や組織に隷属するだけの部品と化してしまいました

加えて、労働時間以外においても、消費者として飲酒や娯楽だけに明け暮れるような生活様式へと誘導され、自主自律的な人生要素というものからは離れていくばかりとなっています

これは、本来は社会の道徳的価値や倫理的な価値を指し示す筈の社会規範そのものが、本来的ではない次元の低いものに劣化しているということがあり、現代社会の規範に忠実に従えば従うほど、人々は唯物的で愚かな存在となっていくことになりますので、現代社会における社会規範や道徳性の劣化というのは極めて危機的な状況を作り出している訳です

現代の極めて大きな問題点としましては、現代社会が標榜している唯物的・経済的な目標を追従することによって、人間は自身の高次な部分を発達させることが出来ず、自己中心的な低い段階の在り方だけに満足するに留まっている、ということがあります

社会が健全である場合には、社会的な規範に従うことと、個々の存在が人間の高次の徳性を育んでいくということが、矛盾せずに同時的に果たされる結果を生み出しますけれども、現代社会の唯物的な在り方においては、果てしない経済的功利性の追究によって人間性は破壊される一方でしかないので、自主的に高次の徳性を育むことに関心を抱かない人々は、非常に低い精神段階に留まることになってしまいます

⑦スピリチュアル・プラネット・ピープル(SPP)への期待

出生図においてスピリチュアル・プラネットが非常に効いているタイプの人に対して、アウター・プラネット・ピープル(またはパーソン)、略してOPPといった呼び方が出て来ていますけれども、個人的には特段の意味なく異なった呼び方を増やすのも考えものだと考えますので、ここではスピリチュアル・プラネット・ピープル/パーソン(SPP)としておきたいと思いますけれども、このような方々の存在が今後の人類の未来の鍵を握っている可能性が高いと感じられています

コラム(アウター・プラネットについて)

アウター・プラネットという呼称は、そもそも火星と木星の間に位置する小惑星帯(アステロイド・ベルト)以遠の天体を指す用語として確立しているものであるので、アウター・プラネット・ピープルといった呼称には不適切な部分があるのではないかとも考えますけれども、占星術の業界ではトランス・サタニアンと同義の意味合いでアウター・プラネットという用語を使っている場合があるようです。ちなみに日本語でその訳語として外惑星という場合には地球以遠の惑星を指すことになり、また別の概念となってくるなど、非常に混乱を招きやすいところがあるので使用は避けた方が良いもののように感じられます。

このSPPに関しましては、単にこれらの霊的天体とパーソナルな感受点との間にアスペクトがあるとか、そのような単純な類型化によってカテゴライズし得るものではないものと考えており、それは木星や土星などに関しましても、その個人の実際の精神の発達段階によって意味合いが大きく変わってくるものと個人的には考えており、その判断には一定の慎重さが必要であるとともに、霊的直感に基づいて判断されなければならないものと考えています

さて、トランス・サタニアンの中で最後に1930年2月18日発見された冥王星は、その発見から後8年ほどで100年を迎えますが、公転周期である247.7406624年の半分にもまだ至っていませんけれども、海王星は1846年9月23日の発見から176年が経ち、すでに公転周期である164.79年分を過ぎて11年が過ぎました

そして、天王星につきましては1781年3月13日の発見から既に241年が経ち、公転周期である84.25301年に対しては、後3年でちょうど3周分を経過することとなります

現代人はこれらのトランス・サタニアンを意識的に使えるような発達段階には基本的にはいないとわたしは考えていますけれども、それでも天王星については既に3周期分、海王星についても1周期分の年月がその発見当初からは経過しつつあり、次第に人類にとっても馴染みが出て来ているものと考えることが適当だと言えるでしょう

特に、天王星については、その影響が一部の人々には個人的な形で強く表れるようになって来ている可能性が高いのではないかと感じられます

SPPにおいて一つの特徴として言えることは、水星(思考)や金星(共感)などによって表される、人が世の中で生きていく上で基本的な能力が、トランス・サタニアンによって阻害されているように見受けられるという点があるということになります

現代社会と言いますのは、人間本来の可能性から考えれば、未だに極めて低い発達段階にしかないことに加えまして、15世紀以降からの唯物的文化傾向というものが近代、そして現代と至っていよいよ極まりつつある状況の中にあります

このような唯物的な低い次元の価値尺度が優位的である社会におきましては、トランス・サタニアンの個人への影響というのは波長が高過ぎるところがあり、SPPはこの唯物的価値尺度の世の中においては上手く社会に適合することができません

例えば、水星が機能不全的であって、そのハイアー・オクターブである天王星がその代わりに強く機能しているような場合に、その人は余りにも素早く、しかも一時に複数の物事を処理しているのですけれども、そのレベルに社会の方がまったく追いつけないために、結果的にはSPPの方が社会に適合していないと見做される結果となり勝ちです

ADHD(注意欠如・多動症)といった医学的に表現される症状というのは、このようなケースの方に非常によく当てはまるところがあることは、比較的容易に気づかれやすいことではないかと感じられます

だからといってADHD=SPPといった単純な図式とははならない点には注意をすることが必要でしょうし、それが単に精神疾患的な症状を示しているに過ぎないという場合もあるでしょう。また反対に、医学的にADHDと診断されないからといってSPPではないという訳でもない点にも留意が必要ではないかと考えられますけれども、それは本人の強い意志力によって多大な努力を払って社会のレベルに適合できるよう自己訓練を施している場合もあると考えられるからです

現代社会において実務的に物事を遂行するという場合には、水星がその機能を阻害を受けずに発揮することが求められていますけれども、SPPはいつでも物事を複層的・多元的に視て考えていますし、分かりやすく言えば物事を現実的な視点と霊的な視点との双方から同時に二重写しで視ているようなものです

そのような人々の頭の中では常に同時にいくつもの事柄が並行して別々に考えられていて、それらの互いのアイデアが相互に結びついたり影響を与え合ったりしながら、ユニークで斬新な発想が次々と生み出されていきます

しかしながらそのような状態は、現代社会における機械的な実務作業においては常にケアレスミスを誘発させることにつながってしまいます

普通の人々が現実的な一つの世界しか視ていない中で、常に多重露出的で複層的な世界を眺めながら生きているSPPは、普通の人々が感知していない世界の中で生きている部分を多く持っていますが、そのことが生かされるような段階にはまだ社会が至っていない訳です

まれに特定の分野で天才的な成功を収めることができるSPPがいる一方で、それ以外のSPPは現実社会に適合するための訓練を自分に強いなければなりませんけれども、それは自身に本来的に与えられている能力に制限を掛けるという方法でなされるため、それはあたかもレーシング・カーを街中や田舎道で走らせているようなものでしかありませんので、非常に窮屈で退屈な時間を過ごさなければなりませんし、心が満たされるようなことには決してならないでしょう

ですからこれからはそのような人々の中で、価値観の合う者同士が連携することによって、新しい文化、新しい社会を創造して、このまったく先の見えない社会の未来を切り拓いていかなければなりません

しかし、未だに世の中はSPP以外の人々が中心の社会に留まっていて、SPPの多くはマイノリティとして分断された状態で孤立して存在していて、自分の本来の力を適切に発揮する機会を得られないままに呻吟している状態に留まっているのではないでしょうか

しかしながら発見から年月を経て、徐々に世の中にはトランス・サタニアンからの個人的な影響を強く受けるタイプのSPPが増えてきており、これからもどんどん増えていくこととなり、ある閾値を通過した時点からはSPPは最早マイノリティではなく、新しい文明の旗手となることになるでしょう

社会の中で孤立し勝ちなこれらの人々を、周囲がサポートしながらその能力を善用して新しい文明を築いていくということが、この新しい風の時代の課題としてあるのであり、新しく発見されたトランス・サタニアンの影響力を意識的に社会のために活用できる人材の育成によって、新しい精神主義的な文明を切り拓いて行くということが、風の時代における人類の非常に大きな課題として意識されるようにならなければならないものと考えています

おわりに

今回の内容は備忘録的な形で個人的な考えを徒然に綴りましたので、読み難く感じられる方が多いかも知れません

世の中は最悪な状態へ向かって突き進んでいますけれども、時代が我々に要求しているものに目を向けて、人類の未来を切り拓いて行くという意識を忘れるわけにはいきませんし、最後の方の内容はそうした展望に関わり得るものとして書きましたが、このSPPに関連する内容につきましては、今後あらためて整理する機会が持てればと思います

では、随分冗長なまとまりのない内容となりましたけれども、最後まで真摯に向き合っていただけました読者の方には感謝を申しあげたいと思います

①思考と感情と祈り
②神秘学と心理学
③パーソナル・プラネット
④ソーシャル・プラネット
⑤スピリチュアル・プラネット/ハイアー・オクターブ
⑥唯物的社会の特徴と霊性の向上
⑦スピリチュアル・プラネット・ピープル(SPP)への期待

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