社会改革の方向性 ~風の時代のガイドライン~
現代社会の問題性の核心
あくまでもわたし個人の主観的な問題意識としてですけれども、この一連のガイドラインにおいても強調されておりますように、西洋の男性原理的で唯物的な文化によって主導されている現代社会におきましては、常に女性性というものが否定されてしまっている、ということがあります
そして、そのような女性性に対する否定に対応するアプローチとして、女性の社会進出の促進というものが試みられているわけです
しかし、男性原理を中心とする社会への女性進出といいますのは、単なる女性の男性化に過ぎず、ここではより一層深刻な形での女性性の否定ということが実質的にはなされているという、愚に愚を重ねるような状況があるものと感じられます
ここで正しい問題へのアプローチ方法というものを考えてみれば、何故そこで女性原理的な社会の構築というものが、まず最初に論じられないのか?ということが非常に強く疑問に感じられるところですけれども、今のところはそんなつもりはさらさらない、というのが世の中の全体的な雰囲気であるように感じられるところです
日本はそのような女性進出に関しましては、非常に後進国的な扱いを受けているところですけれども、そもそも女性原理的な社会基盤を持つ日本においては、男性原理中心の社会への女性進出ということに対して、ひどく不自然な違和感を感じている部分が強いのではないかと感じられます
もちろん、適性を持たれた女性が男性社会で活躍出来る道を拓くということはとても意義のあることであり、日本におきましても江戸時代には別式女という女性武芸者の存在が確立していたし、剣術指南をする佐々木 累(ささき るい)や中沢 琴(なかざわ こと)という剣士の存在などもあり、ここ福岡におきましても高場乱(たかば おさむ)という公的に元服を認められて儒学者として活躍された方や、原 采蘋(はら さいひん)という男装帯刀の女性儒学者などがいました
また、古くは平安時代にも巴御前という武者がいましたし、そもそも自ら男装して三韓征伐を指揮をした神功皇后の姿が記紀には描かれているところです
この問題に対しまして、より根本的なところに要因を探れば、世の中の唯物的な思考においては男性性と女性性というものが二項対立的な概念にて捉えられ勝ちである、ということがあろうかと思われます
唯物的な次元の低い見方を離れ、精神的な次元の高い見方をすれば、男性性と女性性というのは決して相対立するものではなく、相互に補完し合うものであり最終的には統合されるべきもの、として捉えられます
そもそも性別というものは、人間の本質的部分からすれば二義的なものに過ぎず、性別以前に人としてどうあるか、というところに精神主義的人間の関心は向かいます
そのように性別以前の人としてのあるべき様に専らの関心を寄せる方々においては、性差から生じる様々な問題というものに対して、それほど強くは関心が向かわないのではないでしょうか
世の中で唯物的在り方が色濃い人のみが、本質的な人間としての在り方ではなく、男性的在り方や女性的在り方というものに固執し、もっぱら対立概念的なものとして性差に関わる問題について声高に騒いでいるように感じられます
もちろん、性被害をはじめとする実害が生じるような事柄につきましては、それは個々具体的に論じられなければなりませんけれども、そうしたことを除けば、人はまず人としての在り方に注意を注ぐべきなのであり、二義的な部分に囚われているべきではないでしょう
わたしは2歳の時に父親を亡くしたので、毎日仏壇に線香を上げる母親に倣いまして、三つとか四つの頃には神仏に対して手を合わせて拝むという習慣がありましたけれども、その頃のわたしの人生における初の神仏に対する願いごとというのは、「どうか自分を男でも女でもないものにしてください」というものでした
おそらく前世からの影響だと思いますけれども、わたしの場合はそのように生まれつき霊的で無性的な在り方に対するとても強い志向がありましたし、人を男女という対立的な概念で括っている世の中というものをひどく疎ましく感じているところがあり、そうした傾向はそれ以降もずっとそのようであったのですけれども、幼い時ほどそのような感覚が強くありました
そういう人は意外に多くいるのかも知れませんけれども、特に声を上げて主張する必要性もないので、世の中にはいないもののように感じられているだけなのかも知れません
ともかく、現在の世の中においては、人間にとっては二義的であるはずの男性性と女性性に対する唯物的な二項対立的概念によって、極めて大きな混乱が生じている、ということが言えると感じられます
古事記に見る日本的在り方
風の時代において標準的となると予想する日本的在り方につきましては、この一連のガイドラインでも度々触れてきたところです
日本というのは西洋とは異なり、非常に女性原理的なものが中心的と考えられます
中国において日本を「倭」と呼ぶに至った由来としては、様々な諸説がありますけれども、わたしの個人的印象によれば、「倭」という字には「女」という字が入っておりますように、従順で大人しいという意味がありますので、正しくそのようにとても女性的な民族であるとの印象を大陸の方々が持たれたのに相違いないだろうと感じています
また、古事記におきましては、その中で男性的原理と女性的原理を中心とする物語が描かれていますけれども、巷の解釈のほとんどはそれを唯物的な二項対立的概念からのみ語っているように思われますけれども、わたしには両者の統合によってこの国(国家)が生まれた経緯が記されているのだというように感じています
まず、イザナギとイザナミによる国生みの段では、本来的な自然な在り方によって次々と大八島国などの島々が生み出され、続いて、海の神、山の神、風の神、水の神などの様々な自然神が生み出されます
その最後にカグツチという火の神を生んだ際に、イザナミは陰(ほと)が焼けてしまいそのせいで亡くなってしまうのですけれども、亡くなるまでの間にカグツチに続いて生まれたのは、鉱山や農業などの人間の初期の文明に関わる神々でした
そのことは、カグツチという文化を生み出す男性原理的な力の登場によって、原初的な女性原理が大きく傷つき損ねられたことを意味するでしょうけれども、イザナミが黄泉国から結局戻らなかったということは、人間が文明を持ったことを契機とする進化というものが不可逆的なものであったことが示されているのだと感じられます
古来の日本というのは、女性原理に基づいた女性を中心とした社会であったと考えられますのは、九州の風土記に頻度高く登場する土蜘蛛というのが女性が首長である場合が多く、女性原理を中心としながらも男性中心の社会を築き始めた大和朝廷に対して、従来の女性中心の社会の存続にこだわった人々であったというように個人的には受け止めています
古事記に話を戻しますと、今度は男性神であるイザナギがひとりで神を生みましたけれども、ここでは安曇連の祖神である綿津見三神や皇祖神である三貴神(アマテラス、ツクヨミ、スサノオ)など、人による国家の生成に直接的に関与する神々が生まれたことが特徴的です
女性原理と男性原理に関しましては、イザナミの死に続きまして、高天原におけるスサノオの乱暴狼藉によるアマテラスの岩戸隠れという段において、男性原理による女性原理の抑圧というものが再び物語られています
しかしながら今度の場合はイザナミのケースとは違い、アマテラスが隠れたことは不可逆的な出来事としてではなく、きちんと岩戸を開いて復帰しているという点で大きく異なっています
この辺の記述からは、男性原理的な文化・文明の誕生により、原初的な女性を中心とする在り方というのが相当に混乱を来したことを物語っているでしょう
大和朝廷の実際の国作りというのは、スサノオの子孫である大国主を中心に行われたとされていますので、国家が形成されていく過程では主に男性原理が中心的に働いたことが分かります
けれども、最終的にはスサノオという男性原理を象徴する系統ではなく、女性原理を象徴すると考えられるアマテラスの子孫へと国は譲り渡されることになります
この辺に日本の社会の特殊性を繙く非常に重要な鍵が秘められているのではないかと個人的には考えているところです
日本においては、原初的な女性原理を中心とした社会から、男性原理を中心とする社会への移行によって共同体が国家的規模にまでに発展することができたけれども、結局は元の女性原理を中心に据えた存在に国を譲り渡す結果となっているということです
一万年を越える長い期間にわたって非常に平和な形で繁栄した縄文時代というのは、女性原理を主体とした女性が中心的存在であった社会として考えられ、その長い期間の間には文化的な発展はあまりなく、ずっと後発の大陸に次第に大きな遅れをとるようになっていったと考えられます
その後、朝鮮半島などに移住していた縄文人の子孫が大挙して大陸の文化を持って里帰りしたことにより、社会に男性原理が強く持ち込まれ、古い社会との間でそれなりの軋轢があったものの、男性原理を中心として国作りが進んで行き、最終的には女性原理を主体としながらも男性を中心に据えた新しい在り方をする存在にすべてが委ねられることになった、というように理解しています
わたしはこうした日本の皇室の在り方に女性原理と男性原理の統合を見る訳ですけれども、皇室の紋章は現在知られている菊花紋章と言いますのは鎌倉時代以降に使われ始めたものであり、元々は日月紋(じつげつもん)という月と太陽を対に象ったものであると言われています(参考までにそれらしいものを自作してみました↓)
この日月紋というのは、正しく女性原理と男性原理との統合の象徴としてあるのではないか、と個人的には考えるところであり、日本という国家のあり方がここに明確に示されているように感じられるところです
実際の変革の在り方
では、現在の男性原理的な西洋型の在り方の社会の中に、どのようにして女性原理的なものを融合していけばよいのか、ということになります
例えば縄文時代のような平和が長く続いた女性原理的な時代における社会の在り方というものを考えました時に、それ以降の富の集積や社会階級などが発生してきた時代との比較で言えば、極めて平等性が担保された原始共産的な共同体の在り方というものが想像できます
男性原理というのは進歩的であり未来を指向していますけれども、その中で必ず優劣が論じられますし、個人主義的な傾向が強まって社会格差を生み出します
女性原理というのは、ある意味で異質性を追求している男性原理とは違い、同質性を求める集合的要素を持っています
遺伝子の違いからも、男性のY遺伝子というのは男系で確実に伝えられるという点で縦方向のつながりが強く意識されるものですけれども、女性のXX遺伝子というのはそれに比べると拡散的で常に標準化されるような形で遺伝する、言わば横に拡がっていく傾向を持つもののように感じられます
ですから男性の遺伝子は家系的であり民族の特質というものを保存的に伝えていくものであり、女性の遺伝子は非家系的なつながりに対して許容的である、とも言えるように感じられるところです
現在の男性原理的な社会を女性原理的な在り方で補完しようとする場合に、さしあたって有効と考えられますのは、やはりユニバーサル・ベーシックインカムの導入です
そもそも、女性の出産とその後の育児の負担というものを考えた場合に、それに対する社会からの直接的な保障はさほど手厚くなされておらず、主として個々の家庭の責任に委ねられているという現状に対しましては、わたしは極めてあり得ない欠陥を社会が露呈していると言いたくなります
子供は私たちの未来だとか宝だとか言われてはいますけれども、わたしの考えでは子供の出産や育児にかかる負担というのは、本来的にはすべて国が直接、全面的に負うべきことが当然と感じられ、その考えによれば現在ではその分を国家が国民から搾取しているのだと見なしてもよいのだとも考えられます
何故なら子供を産んで育てるということは、社会の持続性を最も根底の部分で担保している事柄であるからです
また、哲学や芸術、宗教などの経済的な生産性を持たない精神文化を育む上におきましても、ユニバーサル・ベーシックインカムの導入は、これからの風の時代においては必須のものとなると感じられます
人間の生産・消費活動の飽くなき拡大に伴う環境汚染等によって、この母なる地球及び地球上のあらゆる生命の存続が将来的に非常に危ぶまれているということに関しましても、命をいうものを大切にする女性原理的な考え方を社会におけるスタンダードなものとする必要性というものを感じさせます
現状では、経済的効率性というものが掛け替えのない命を差し置いて重要視されており、こうした恥ずかしくも愚かしい在り方を、そろそろ人類は本格的に見直す時期が来ていると感じられるところです
最後に
新しい時代への移行は今年の様々な混乱によって広く意識されてきてはいると感じますけれども、それでも根本的な在り方を変えようというところまでは意識が及んでいないように感じられます
金融市場におきましても、コロナバブルという状態が継続されており、一連の混乱によってニュー・ノーマル、つまり今までとはまったく違う新しい状況が生まれつつあると認識されている一方で、そうした大きな変革に対してハイテクIT産業は十分に対応できると見込んでいるということのように考えられます
しかし、そのような大きな変革が訪れて世の中が非常に様変わりしていくと感じられている中においても、もっとも基礎的な金融システムの部分は変わらないと踏んでいるということになります
このようなご都合主義的な発想というのが社会全体でなされていて、肝心な部分では頑なに変わろうとしない姿勢というものを世の中は依然として保とうとしているように見受けられます
そうしたものが変わっていくためには、社会によほどのショックが与えられるか、あるいは聖徳太子や空海のようなメシア的な存在の出現にでも期待する他はないのかも知れませんけれども、そうした存在は実際に現れてくるものかも知れません
以上、あくまでも個人的な視点からの考察であり、各方面の専門的知識に基づかない独断的な要素も多く含まれているとは思いますけれども、ご参考になりましたら幸いです