出生月への経過冥王星のスクエア ~天体イベントがもたらす影響~
はじめに
タイトルの冥王星スクエアに関する技術的な記述よりも、副題の「天体イベントがもたらす影響」について幅広く考察したため非常に長文となってしまいましたので、読み返しの際などの便宜上、目次を設定しておきます
・天体イベントが個人に及ぼす影響は必ずしも一様ではない
・天体イベントとは人生を運んでいく風や潮流のようなもの
・影響の及び方
・影響の出方の個人差について
・今回のn☽とt♇のスクエアが与えた影響について
・如何なる外的事象もすべからく内的要因に起因している
・外的処置にも様々なものがある
・結局は愛がすべて
・今回の天体配置の影響が及んだ時期
・今回の天体配置の影響が及んだ範囲
・起きて来る事象はあくまでも自己の内的要因の範囲内
・最後に
天体イベントが個人に及ぼす影響は必ずしも一様ではない
人間の魂というのは地上に生まれ来るに際して、一生の間に起こる天体イベントとその影響のすべてについて予め把握しているものと個人的には考えていますけれども、それらの天体イベントが及ぼす影響というのは、ある意味ではカルマ的な形で、即ちまったく受動的な形において個人への影響がもたらされる部分があると言えるのですけれども、魂の次元で考えれば、人生の所要の時期に起きる天体イベントからの影響に対して、魂は自らの成長のために、ある程度意図的かつ計画的にそれらの影響を積極的に活用している側面があるというように感じられます
また、それぞれの魂が携えて来る今世における課題というのはまちまちなものであるので、どのような種類の天体イベントをどのような程度において人生に活かすのかは、各人の間で異なってくることになるでしょう
分かりやすい表現を使うとすれば、ある人はもっぱら幸運をもたらすような天体の配置からの影響を色濃く受けるでしょうし、また他の人はもっぱらネガティブな影響をもたらしやすい天体配置からの影響を受けやすいというようなことがあり得るでしょう
そして、そうした違いはそれぞれの人が携えてきた今生の人生の課題が異なるがためであるということなのですけれども、より細かに言うとすれば、ある一人の人において、ある特定の分野においてはネガティブな天体配置の影響を受けやすいのだけれどの、別のある分野においてはポジティブな天体配置によって非常に影響されやすい、というような形で個々の人生にその影響が現れてくるのでありましょうし、また、ある年代を過ぎてからそれらの傾向が変わってくるケースというのも考えられるでしょう
そのように、生じる天体イベントによって実際に人生がどの程度左右されるのかという、天体イベントに対する感度というものは、個人間で非常にばらつきがあるものであり、ある人にとっては物凄く効いてくるような天体配置であっても、他のある人にとってはほとんど影響が顕在化ししない、といった場合があるのだというように考えています
天体イベントとは人生を運んでいく風や潮流のようなもの
例えば人生をパラグライダーのようなものと喩えてみたとしますと、吹いてくる風は一様なものではない訳ですけれども、自分がより高く飛翔して大空を長く滑空し、より遠隔地までの飛行を可能にしようと意図するのであれば、飛び立つに際してどの風に乗るのが一番最適なのか、という選択が当然出てくる訳であり、個人間の操縦の技量の違いや目的の違いなどによって、自分が乗るべき風の強さや種類などは異なって来ることになるでしょう
大空を快適に滑空するためには、風を熟知していて風を読むということが出来なければならない訳ですし、大海原の航海においても海流や季節風の向きなどを熟知しているのでなければなりません
占星術のトランシット技法というのは、自分の人生にどのようなタイミングでどのような風が吹くのかを予め知るための手段であると言えますけれども、良い風が来たらそれを最大限に利用して人生を大きく飛翔させるために利用しなければなりませんし、悪い風が吹く時には大人しくじっと辛抱して堪えるということも時には必要ですけれども、ヨットは順風でも逆風でもそれを利用して船艇を前進させることができますので、例えある期間において逆風に晒されるのであっても、そうしたエネルギーを生き方次第では自らの成長の糧として積極的に利用できる側面というのもあることになるのでしょう
しかし、それらのことに先だって、自らの人生に何らかの目的を持っている、ということが何よりもまず必要である、ということが言えるでしょう
目的地を持たないままの状態で空へと舞い上がるのは、突風によって徒に舞い上がったビニール袋が、まったく自らをコントロールする術のないまま当て所もなく宙を漂いながら、まったく予期していない目的地に落下するような結末しか招かないことになるでしょうし、あるいは櫂を失った筏が大海で漂流しながらひたすら誰かに発見してもらうか何処かの島へ流れ着くのをただ心待ちにするしかないような、非常に心許ない状況へと自らを追い込むことになってしまうのでしょう
ですから自分の人生において好機が巡ってきて、大変好ましい星の巡りに遭遇できたとしても、その人が人生を大きく飛翔させるための心の準備がまったく整っていない状態なのであれば、本来であれば幸運を運ぶ風であってもその機会に乗じることは却って身の危険を招くことになる可能性が大きいのかも知れないということが言い得ます
何故ならば、天体配置がもたらすエネルギーというのは、あくまでもそれを自分が利用するべき力であり環境として与えられているのに過ぎないのであって、実際に自分の人生の舵を握りコントロールしていくのは他ならぬ自分自身に他ならないからです
しかし大抵の場合は、幸運に恵まれさえすれば人生が何とかなるというような非常に他力本願的な期待を安直に抱くばかりで、自分の人生の意義を見極めて目標を明確化していくとか、とかく障害の多い荒波逆巻く人生を乗り切っていくための術を身につける努力などについては、意識が疎かになり勝ちだと言えるのではないでしょうか
人生において目標を見出したり、よりよく生きるための思案や工夫などの努力を怠るのであれば、幸運期の風はあなたを確かに心地良く上空へと運ぶことにはなるでしょうけれども、それはある期間を心地好く過ごせるというだけのことであり、ただ単に一時的に上の方に浮かんでいられただけのことなのであり、やがては元に居た同じ地面の上に再び降ろされることにしかならず、最も肝心な進歩向上についてはまったく果たされないという結果に終わることになってしまうでしょう
そして、それは最も無難な場合の結果であるのであって、幸運期というのは気を許してしまい無警戒となり勝ちとなり、気も大きくなって案外危険の種を拾ってしまい兼ねないようなところがありますので、目的意識や向上意欲が乏しい場合は、むしろ調子の良い時期には気を引き締めて物事を控え目にして腹八分目で抑えておくような心掛けを持たないと、却ってその間に危険を呼び込みやすい状態でもあるのだと言えるのではないかと感じられます
しかし、人間が自らの目標とするものを携えながら、それへ向けて力強く漸進しようとする時には、レールの上を勇ましく進んで行く機関車のように、多少の小石や枝などの障害物などをものともせずに蹴散らしていくことが出来ますし、独楽も勢いよく回ってあたかも止まっているかの如く澄んた状態で安定していればこそ、他の独楽を力強くはじき飛ばして仕舞うことが出来ます
機関車の場合はレールがひん曲がっていたり途中で切れてしまっていればそもそも走ることすら出来ませんし、独楽もその芯が重心から外れてしまっているのであればまともに回ることすらできないでしょう
機関車が高速で走るためには、きちんとしたレールが敷かれていなければなりませんし、独楽も安定して高速に回転するためには、正しい重心の位置に芯がしっかり通っているのでなければなりませんけれども、それらは人間が人生を生きる前提として、生きる上での目標をしっかりと持つということと極めて似通ったこととなり、それは行動を起こすに際して最初に整えておかねばならないこととなります
人生の目標が確かなものであれば、人間は自分が定めた方向からぶれることなしに、グングンと加速度を増しながら突き進んでいくことがはじめて可能となるでしょうし、そのように人生を勢いを持って進んでいる状態においては、多少の障害というものは簡単にはじき飛ばしてしまうことができ、大して苦には感じられなくなるものです
また、人生には前進すべき時もあれば、何処かの駅にしばらく停車して休息をしながら、石炭や水などの走るための燃料を補給したり車体の点検をしたりするための期間というのも当然必要となってくるものです
影響の及び方
天体イベントにはポジティブな影響をもたらすものもネガティブな影響をもたらすものもある訳ですけれども、もう少し大局的な視点でそれらの影響を眺めれば、ある幸福が先に起こる不幸の切っ掛けとなったり、どん底の不幸を味わった人間が後にはその苦労のお陰で大成するようなこともままありますので、短絡的に様々な天体配置の吉凶だけを取り上げることにあまり意味を見出すことは出来ないと言えるでしょう
そうは言いましても、短期的な視点で捉えれば天体が引き起こす事象には、やはり吉凶というものが存在しているのですけれども、一生に2、3度といった大きなイベントを除けば、その天体イベントに遭遇した個人がそれらから受けた影響に対してどのように振る舞うのか、ということによって吉凶が大きく変わってくる部分が多くあるのでしょうし、そういう意味では基本的には天体イベントがもたらす影響というのは、大局的な視点からは常に中立的な要素が含まれているものとして捉えた方ががよい、ということになります
人生における様々な天体による影響というのは、ほとんどの場合はひとつ上の項で述べましたように、その個人が人生に対して抱いている目標と、それに対して直向きに進んでいこうとする前向きな気持ちがあるか否かによって左右されてくるということになります
ですので、数年のうちに何度も起きるという程度の短いスパンの天体配置の影響に対していちいち神経質になり、それらがもたらす影響というのを心配しているようなことよりは、人生の目標をしっかりと見出したり、あるいはより良い目標を見出すために、必要な心の学びに勤しむことに如くことはない訳です
現代に入って占星術は益々目先の小さな事象に神経質に拘るようになり、非常に短期的なスパンで生じる事象を気にしてばかりいるように見受けられますけれども、水星の逆行やボイドタイム、そして小惑星などの影響はもちろんあるのですけれども、仮にそのような影響の微少な天体配置の影響にすら容易に翻弄され得るような人間なのであれば、より長いスパンで強力にもたらされる天体配置の影響に対して、一体どうやって立ち向かって凌いでいくことができるというのか、ということが問われなければならないでしょう
些末な事象に振り回されている暇があるのであれば、我々は自らの人生に生きることの意義を見出すべく勉めなければなりませんし、そうしたことによってはじめて、我々は自らの意志の力で諸々の影響をものともしないで安心して生きていくことができる訳です
影響の出方の個人差について
比較的唯物的な生き方をする方においては、外的で物質的なイベントに遭遇しやすく、精神的な生き方をするタイプにおいては、より内的で精神的なイベントに遭遇しやすい、というようなことが傾向として表れやすいということが言えるでしょう
ここでいう外的物資的なイベントというのはネガティブな事象の例で言えば、交通事故や怪我、金銭の得失などであり、内的精神的なイベントというのは精神疾患や自律神経の失調を伴いやすいような状況というものを想定しています
精神疾患などは唯物的な生き方をする方でもなりやすい訳ですけれども、唯物的な生き方をするタイプの方の精神性というのは、普段は一見強いように見受けられるものですけれども、外的な物事の成否にばかりに関心が向かい心が囚われていますので、肝心な精神性が錬られることが少ないので存外その芯の部分は弱く、一定のレベルを超えたストレスに対しては比較的あっさりと折れてしまうような脆弱性があると感じられますけれども、それは外的事項への関心や執着の強さが禍して、外的状況の如何によって心が大きく振り回されてしまうということであり、周囲の状況に応じて心が上がり下がりするだけの、内実を伴わない空虚な人生となりやすいということが言えるでしょう
一方で精神的な生き方をするタイプの人が経験する精神的な問題というのは、肉体が病を経過することで肉体の完全さを増したり、筋力をつける過程において筋肉痛を経験するのと同様な形で、それは精神的な苦痛を通じて精神を成長させる過程であるのだということができるのではないかと感じられますし、それは外的要因ではなくもっぱら内的要因によってもたらされるものであるでしょう
つまり、心の中に人間が人間らしく生きるためにはどうすればよいのかという精神的な課題が常に意識されており、その課題意識の存在故に悩みや煩悶が生じて来やすい状況というものが生まれやすいということです
天体イベントに伴って起きてくる諸事象に関して総じて言い得ますのは、本人が魂のレベルで望んでいない事象というのは、基本的には起こらない、ということになる訳ですけれども、それはそれぞれの人の生まれ持った人生課題の達成に資するような形でしか、人生のイベントは生じない、ということであり、仮にまったく異なるタイプの人達の間で、外形上はまったく同じ様なイベントに遭遇したとしても、それが個々に与える印象や影響というのはまったく異なるものとして作用してくることになります
また、ある程度人生を歩んで来た中で、自分の人生に対してどのような天体配置がどのような影響をもたらしたのかを注意深く振り返ることによって、自分が主にどのような人生課題を持って生まれてきたのかということについて、少なくともその傾向を明らかにすることができるでしょう
人というのは比較的似通った人生パターンを何度も繰り返して経験しやすいものであるということには、皆さんの経験上からも容易にそのようだと感じられるものなのではないでしょうか
今日の標題にあげた経過の冥王星の出生の太陽や月に対するスクエアという配置は、大変に影響力の著しいものでありながら、それでも尚、その受ける影響に関しては決して一様のものではないでしょう
大分前置きの方が長くなってしまいましたけれども、以上のような基本的な認識を踏まえながら、今回わたしが経験している出生月に対する経過冥王星スクエアの影響と、それがもたらしたものについて、今回は考えてみたいと思いますけれども、わたしの生涯において、最も影響が強かったと思われる個人的な天体イベントは、若い時分に経験した出生太陽への経過冥王星のスクエアでしたけれども、昨年以来現在にまで影響が及んでいる、出生の月に対する冥王星のスクエアは二番目に影響が大きいものとして上げられるものと感じています
今回のn☽とt♇のスクエアが与えた影響について
今回わたしが経験した天体配置がもたらした影響について、それを風に喩えて表現してみるのであれば、さしずめ激しい乱気流といったところでしょうか
暴風という程の派手な力強さがあったというようには感じられませんけれども、何度機首を立て直そうと試みても、激しい乱気流に巻き込まれて自らのコントロールを失い、失速寸前の状態にまで追い込まれる、というような状態がずっと幾度となく繰り返されてきました
夜中に体調不良で目覚め、吐き気や悪寒や痛み、呼吸の息苦しさなどによって、後少しでも症状が悪化するようであれば直ちに救急車を呼ばないと拙いぞ、と覚悟しなければならないようなことが幾度もありましたけれども、若い時分から身体の痛みや不快な症状をコントロールする様々な術を身につけているお陰もあり、その都度自分自身でひどい症状を何とか立て直すことが出来ました
今年に入ってからは次第に小康状態が続いて、夏頃には長めの散歩や軽い筋トレに日課として取り組むことが出来るようになりましたけれども、9月半ばからは再びぶり返し、ギックリ腰などにもなったりしてまともに生活できないような状態になってしまったので、このブログ記事の更新も滞ってしまうことになりました
再び体調が悪化した時に気づいたのですけれども、ちょうど運動をしていた時期に身体にひどいストレスが掛かっていたようで、その時期を示す爪の部分には深い横溝が刻まれていました
その運動のレベルというのは、おそらく日常生活を送っている皆さんの活動レベルの半分にも満たない程度の強度のものだと思いますけれども、それでもその時期の爪の発育に著しい障害が生じるほどの影響が出ていた訳であり、そのような極めて低レベルな活力の状態で、何らかの社会活動を行うどころか普通に日々の生活を送るにも支障が生じがちな状態というのが、二年以上も続いていたということになります
如何なる外的事象もすべからく内的要因に起因している
ここで皆さんは、そのような状態で病院に行くことはしなかったのか、何か大きな病気を抱えていたのではないか、というような疑問をお持ちになるのではないでしょうか
わたし自身もそういう可能性を考えない訳ではありませんし、病院へ行く必要があると感じればそうしていたでしょう
けれども、現代の医療というのは、外的事象にしか注目しておらず、施される物理的、化学的な処置というのは根本治療的なものではまったくなく、極めて対症療法的なものでしかないと言い得るのではないでしょうか
外科医が外科的なアプローチを施す場合を除けば、医者が病気を治すということはありないことであり、結局は自分自身の力で身体は治癒しているのであり、対症療法的な処置というのは大抵の場合は人間の免疫や自然治癒力をむしろ弱めるものでしかないようにも見受けられます
外的な事象のみを見て、目に見える外的症状を物理的・化学的な外的手段によって取り除くという現代の一般的な医学のあり方というのは、外的事象を惹き起こしている内的要因についてはまったく無視しており、それはそのまま放置されるていることになります
医学的な検査を受ければ今回の不調の原因というのは、更年期障害による自律神経の著しい失調をはじめとして、いくつでも見つかる可能性があったでしょうし、それに対して一つずつ医学的なアプローチを受けたとしても、恐らくは全体的な健康が回復させる見込みはなく、モグラ叩きのように次々と別の新たな問題が生じて来ることにしかつながらなかっただろうと個人的には感じています
唯物的な医学が考えているように、ある時期に人間が不調に陥るという場合に身体に起きていることというのは、何か特定の原因によって局所的な部分が病んでいる、というような事では決してないのであり、局所的なアプローチでひとつの症状を改善させることは、より実質的な問題を単に先送りにさせただけのこととなり兼ねないところが多分にあるというように個人的には捉えています
別に外的手段によって症状を和らげることがよくないことだと言っているのではありませんけれども、外的な症状を外的な手段だけによって取り除いたところで、物事の本質的な部分では実質的には何も解決されないのです
そういうことを我々は知っておく必要がありますし、病状を和らげる何らかの外的処置を行うのと同時に、我々は自身の内面に向き合って、物事を内的に解決するのでなければなりません
内的に向き合うというアプローチというのは、自身の内面に向かっていき、人間の本性である真善美を心の内に取り戻すということです
昔は多くの医者も愛こそが病人を癒やす力なのだということをよく知っていましたし、今でもそのように感じている医療関係者は多い筈ですけれども、世の中の趨勢としてはそうした考え方ではなく、外面的な部分への外的アプローチによって処置することだけに益々意識を集中させていると言えます
例えば癌のような病気についても、ある特定の物質による外的刺激が肉体の局部に病変をもたらしていると考えられ、その病変した部分さえ取り除けば患者は健康になるというような考え方が見受けられます
しかし、再発や転移を繰り返すというその病気の特性から考えれば、そのことはそれが局所的な問題なのではなく、極めて全身的で体質的な病気であるという本質が見えてくるのではないでしょうか
とても不遜な独り善がりな考え方であるとは思いますけれども、もし仮に外科的処置や化学的処置によってそれらの病気が完治するということが起きたのであれば、それはまだその人が寿命を迎えてはいなかったのだということに過ぎず、おそらくは放置しておいたとしても自然治癒で治っていたのではないか、などとも考えたりします
基本的には人間というのは寿命によってしか死なないものなのであり、その寿命というのはその人が生まれ持ってきた人生の課題の達成状況と密接にリンクしているものであるので、意図的に、あるいは半ば意図的に人生の課題を投げ捨ててしまうことで自らの寿命を縮めてしまうような自由というものも人間には与えられているのではあるのですけれども、自分の生まれ持った人生の課題に対して、ある程度の誠実さを持って向き合っている普通の人間であるのであれば、人生課題がある程度達成された時点で訪れる寿命までは、通常は死ぬと言うことは基本的にない、というようにわたしは捉えています
外的処置にも様々なものがある
話が本題からは少々外れているのですけれども、大切なことでもあるので序でに外的処置の色々についても簡単に触れておくことにしたいと思います
医療においては通常は物理的・化学的手段によって病状を和らげたり取り除いたりという処置をとる訳ですけれども、これはもっぱら人間を機械として見なす唯物的な考え方に基づいたものです
我々人類は古来自然の中に、我々を外的に癒やしてくれるものを多く見出しており、それらは漢方やハーブなどに用いられている植物や動物、そして鉱物などの自然物に由来した素材となります
人間というのは創造主によって自由意志を与えられた結果として、自然の枠組みから逸脱し勝ちな存在となってしまったため、人間を構成している鉱物的、植物的、動物的な部分というのは、とかく自然で純粋な状態から逸脱して乱れを生じてしまい勝ちとなっています
一方で自然界におけるすべての存在は、すべては自然が定めた法則に従ってそこから逸脱することが決してないため、それらは人間の場合のように乱れることはなく、生まれたままの極めてピュアな状態を保っていると言うことが出来ます
鉄に磁石をくっつけておくと、磁石の持つ磁場によって間もなく鉄も磁化されるということは小学生でも知っていることと思いますけれども、同様に自然由来の歪んでいない純粋な物質を人体に作用させれば、それによって人間は元の自然的な健康状態を回復することができます
ルドルフ・シュタイナーは、アストラル体に起因する病に対しては、動物からその薬となるものを採取することができ、エーテル体に起因する不具合に対しては同様に植物由来のもの、肉体に起因する病気に対しては鉱物からその薬となるものが得られる、というように語っていたと記憶しています
しかし、もっと身近な例を考えて見ますと、動物と接することによって人間は癒やされるということがあります
これは動物の穢れていない純粋な波動が、磁石が鉄を磁化させるように人間に作用する結果なのだとわたしは考えますけれども、人間が動物によって癒やされるというのは、主に感情的に癒やされる、ということなのではないでしょうか
それはつまり、自然の純粋な状態にある動物のアストラル体が、人間の乱れ勝ちなアストラル体に良い方向の感化を与えて整えてくれるのだ、ということであると感じられます
人間は植物によっても癒やされますけれども、動物の場合では動物が人間を感情的に癒やす、という言い方が相応しいものだと感じられますけれども、植物についてはそれとは少しく別様のものが感じられます
植物はそもそもアストラル体を有してはいませんから当然のことなのですけれども、代わりに、人間の生命は植物によって安らぐ、ということが言えるのではないかと感じられます
これは、植物のエーテル体が持つ純粋な波動が人間の乱れがちなエーテル体に作用して、人間の生命力が整って心地好く癒やされるのだ、ということではないかと思いますけれども、人間の気が植物によって整えられることによって生命の安らぎが感じられる、ということのようにわたしには感じられます
最後は鉱物ですけれども、これについては人間は鉱物によって清められる、という言い方が相応しいように感じられます
神社の境内には玉砂利が敷かれており、それは清浄さの象徴ですけれども、塩もまた鉱物であり、こちらも身体や場所を清める目的で古来から活用されています
人間の肉体を構成する最も多くの成分である水というものも、これを用いて禊ぎがなされるというように、鉱物などの自然物の持つ波動によって、人間の乱れがちな肉体の波動が純粋さを取り戻すことについては、癒やされるというよりも清められる、という表現の方が相応しいように感じられます
このように鉱物や水は、人間の肉体や場所などの清めに欠かせない訳ですけれども、水に浸かる入浴というものも、それは身体の垢や汚れを落とすというような物理的な作用の面ばかりでなく、我々の身体の波動を正常に整えてくれる清めの作用があるということが言えるだろうと考えられます
消毒された水道水や、化学肥料や農薬を浴びた食物でさえ、人為的なプロセスを通じて幾らか弱められているとは言え、自然の持つ純粋な波動によって我々を癒やしてくれますけれども、自然の汲み水や川や海の水や、無農薬・無化学肥料の食物は更に純粋な強い波動を持っているので、より強く我々の波動を正常化してくれることは疑う余地のないことです
何故に人間の人為的な手の加わらない自然由来のものが我々にとって好ましく、何故にそれらが我々にとってとても大切であり必要であるのかということは、唯物科学的な物事の表面的な作用だけを観察する仕方ではまったく見えてこない部分である訳ですけれども、生命のある側面を機械的、化学的に捉えることができるからと言って、生命が機械であるということは絶対にない訳であり、それらは本質において大きく隔たっているものです
しかしながら現代の唯物的科学的な見方というのは、生命というものが機械的、化学的要素に還元できるかのような、そのような誤った見方をどんどん強める傾向にあることに対して、我々は注意を怠らないようにしなければなりません
この項の関連事項として序でにワクチンについても簡単に触れておきたいと思いますけれども、ワクチンというのは病気を外的手段によって予防するものですけれども、そのような外的な手段によって病気は予防されるかも知れないけれども、この今の時代において人類が新型コロナに罹ることの必然性の裏に潜んでいる内的な要因については、問題が放置されたままとなっています
ルドルフ・シュタイナーは今から100年程前ですけれども、当時流行していた天然痘に対するワクチン接種に関して、「仕事を半分しかしなかったことになる」というようにそのことを表現しており、「痘毒を体内に有し、天然痘への傾向を持つような特性を除いたなら、来世でなんらかの方法でそれに対応するものをみずから作らなければなりません。天然痘の素因を取り除くなら、カルマの作用の外面のみに注目していることになります。」(「いかにして前世を認識するか」(イザラ書房))と言及していることについて、我々は真摯に考えてみることが必要となるでしょう
ワクチンと言えば、従来型のワクチンというのはウィルスを生物と呼んでいいのであれば一応生物由来のものと考えられるのではないか、と思うのですけれども、現在出回っている新型ワクチンというのは、わたしは詳しく製法等は分からないのですけれども、どうも遺伝子工学的に、新型コロナウィルスの遺伝情報を元にその一部分だけを化学的に合成したものなのではないか、と感じられますので、その点は非常に未知で怖い存在のように感じられるところです
ウィルス自体をその毒性を弱めるなどして安全な形で体内に注入するという従来型のワクチンと、ウィルスの遺伝情報の一部分だけを合成して体内に入れるということの間には、生物である人間の身体にとっては極めて大きな違いがあるものと感じられるのであり、そのことがただちに重大な問題を惹き起こすというようなことはないのだとは思いますけれども、そのような小手先の人為的な行為が幾度も継続的に繰り返された場合に、人間の免疫システムが長期的にどのような反応を示すのか、といった部分には大きな懸念が残っているように感じられるところです
ウィルスを不活化したり弱毒化して体内に入れると言うこと自体が、すでに自然的な感染経路とは異なる人為的なものとなり、我々がもっている第一の関門としての自然免疫がそこでは無視されることになっていますけれども、自然免疫をすっ飛ばして獲得免疫を働かせることよりも、第一関門としての自然免疫を十分に働かせるということを心掛けない限り、人間の免疫力は総体的に強まることはなく、そのように安易な楽なやり方ばかりを選択していると、肉体というのはどんどん機能が劣化して弱くなっていくのが必然的なことであると考えられます
そして、ウィルスの遺伝情報の一部分だけをデータとして身体に注入するというのは、生命というものをコンピューターと同様にデータだけで操り得るものと考える、極めて唯物的な考え方に基づいていることは確かなことであり、そのような偽りのデータに対して、生体はいつまでも同様の反応を繰り返すことはないもののように、自然摂理的なものの見方からは感じられるところです
結局は愛がすべて
ということで人間が生きていく間には、一定の期間において集中的に様々な著しい不調に見舞われるような時期が訪れることがあり、それに対して様々な外的アプローチによって不調和な状態を緩和して苦痛を和らげることができ、そうした外的手段の中でも自然由来のものの方が、我々の本性に対して極めて親和的に作用して好ましいのだ、ということについて思うところを書かせていただいたところです
そこで病気のことや食べ物のことやワクチンについて触れましたので、念のために申し上げておきたいと思うのですけれども、何れの手段を選択するにせよ、人間にとって何が真実に正しいのかということは、それが論理的に正しいかとか合理的か否かというようなことではなく、それが愛に基づいてなされることなのか否か、といったところで物事の判断をすることが必要となります
これまでにわたしがここで述べてきた内容について、それが如何に正しいとお感じになられたとして、ご自身の食生活やワクチン接種、病気の時に病院にかかるかどうか、といったことは、ご自身の愛に基づいて、周囲の方々との関係性を最も重要なものとお考えの上で、決して周囲との調和を乱したり不安や混乱を投げかけるような結果とならないようにくれぐれも気をつけて選択をなさっていただけますようにお願いいたします
戦後に闇市で調達した食糧を一切摂ろうとしなかった結果として餓死をしてしまった裁判官の話というのが実話としてあるのですけれども、もしその方が、一家の大黒柱である自分が死ぬようなことでもあれば、自分を頼りにするご家族がどんなに狼狽し悲嘆に暮れることになるだろうかと、愛の思い遣りの気持ちで物事を考えたのなら、もしかすると闇市の食糧を頑なに拒むような選択はしなかったのではないか、というようなことを思ったりもします
その方が愛の薄い冷淡な方だったのだという風に断定している訳では決してありませんけれども、自己の生命の大切さということよりも理知的な判断の方を優先させてしまった結果、最も大切なものを失う結果に至ってしまったということは確かなことでしょう
そのように、人間をもっとも不幸に導くことになるのは、正しいとされる道理に従ったり合理的な判断に従うようなことを、愛に基づいて物事を判断することに優先させてしまうような生き方をすることになりますので、わたしのような少し頭でっかちなところのある人間というのは特に慎まなければならないと感じるところです
それにしても、昨今の政府や医療業界が我々に対して行っていることには、愛の心というものが微塵も感じられず、非常に残念なことです
自らの失態や対応の遅れなどはすべて棚に上げつつ、ただ自らの体面を保つ上で国民をコントロールせんがためにだけに、市民の抱える実情に少しも配慮することなく、極めて硬直的な政策を一方的に押しつけてくるようなところには、世の中の唯物的なあり方がいよいよ極まってきていることを強く感じないではいられないところです
今般の人類未曾有の困難に対する、中央政府の対応の仕方には、非常に唯物的な科学的あり方に基づいた、科学的ファシズムとでも呼びたくなるような、非常に硬直的で高圧的な雰囲気が色濃く漂っていたと感じられます
さて、上の項では自然由来の外的処置について触れましたけれども、人間は自身の本来の特性である愛に立ち返ることによって、自分ばかりでなく他者をも癒やすことができます
真善美という宇宙の本質に近い、喜びと感謝の念を積極的に抱くことで、動植物や鉱物が人間の各部分を癒やしてくれるように、人間は宇宙からの感化を受けて自らを清純化することができます
これはすでに外的なアプローチではなく、内的なアプローチとなります
喜びと感謝という、宇宙の本質に近い感情を抱くように努めることによって、自分と宇宙との間に見えない架け橋を作ることができるのであり、するとその架け橋を通じて宇宙の本質的エネルギーがどんどん我々の中に流れ込んで来て、我々をあらゆる次元で正常化し癒やしてくれることになります
通常の世の中では、人間は自らの行いの結果生じた不調和の責任を外部に転嫁しようとして、周囲の人間にイライラした態度をとったり怒りをぶつけたりし勝ちです
そうしたことによって、周囲の人間もまた不愉快な不調和な状態にさせられるだけなのであり、自らの不調和が周囲に拡大されるだけに過ぎないのですけれども、自己中心的になっているとそういう簡単なことにも気づかなくなってしまいます
しかし、宇宙がその本質である真善美に基づいて宇宙の進歩向上を意図しているという絶対的な普遍的真理に対して、自らの不調和を敢えて他人にまで及ばせて拡大させてしまうということは、真善美に反する感情に基づいて世の中に退歩的で破壊的な影響をもたらしたということになりますので、宇宙の原則に反して罪を作ったということになってしまします
そうしますと、そのようにして自らが自身の魂を不完全なものとして表現してしまい、結果として魂を歪めてしまうことになるのですけれども、そうしたことの積み重ねがカルマというものを次第に生じさせていき、来世を含めた将来において、自分が表現してしまった不完全さを補完して、魂の歪みを正すような形で、カルマが人生に矯正的な力として作用してくる、ということになって来る訳です
ですから自分の中に不調和が生じて来るような時にこそ、自分の心を清らかに気高く保つ努力というものを一層心掛けて、自らの清純化を図るとともに、他者にも癒やしを与えられるような自分であるように努めなくてはならないということになります
今回の天体配置の影響が及んだ時期
さて、話を今回経験した天体配置に戻したいと思いますけれども、今回の出生月に対する経過冥王星のスクエアが、どのように生じたかを見てみますと、正確にスクエアを形成したのは何れも昨年2020年の間で、2月中旬、7月中旬、12月中旬の都合三度でした
<オーブ1度以内でn☽とt♇の間でスクエアが形成されていた時期>
①2019年3月14日~2019年6月7日
②2020年1月11日~2020年3月24日 ※2020年2月11日にスクエア
③2020年5月29日~2020年9月2日 ※2020年7月16日にスクエア
④2020年11月5日~2021年1月17日 ※2020年12月17日にスクエア
⑤2021年8月24日~2021年11月17日
まずは、①の一昨年の時期ですけれども5月頃に経験したことのないひどい肩関節周囲炎(俗に言う四十肩、五十肩)になった他、生活が全般的に極めて非活動的になり、はっきりした病症はありませんでしたけれども、無自覚ではあったものの振り返って考えれば既にこの年から生命力が減退する傾向が顕著に見られるようになっていたと感じられます
②から④に掛けての昨年の時期というのはコロナ禍が始まった時期とも重なりますけれども、年が明けて間もなく経験したことのないひどい中耳炎に罹り、それが3か月くらいで引いた後には今度は外耳炎となって毎日膿と出血があるという状況も含めますと、半年以上にわたって片方の耳がほとんど聞こえない状態にあったことに加えて、慢性的なひどい湿疹(もしくは蕁麻疹)によって、ほとんどまともな睡眠を得ることができなかったとともに、間歇的な微熱がずっと続いていましたし、体の中のどこかに絶えず炎症的な症状がありました
今年に入ってから、基本的には変わらない症状のままながら、程度としては大分和らいで来たのですけれども、根本的には治っていないので、症状が何時ぶり返してくるか分からないような状況ながら、7月に入ると軽い運動などを始めることができるようになりました
ところが、2か月ほど過ぎた辺りから再び体調が悪化して今に至っているのですけれども、これは半年振りにオーブ1度未満のスクエアが形成されたことの影響が出ていたと感じられるところです
スクエアが正確に3度形成された昨年に最も強い影響力があったということは言うまでもなかったのですけれども、今年以降に関しましては、オーブ1度以内でのスクエアの形成による影響が、果たしてどの程度のものになるのかはっきりとは分からないところもあるため、今年に入ってからはあまりこの天体配置の影響については考えないようにしていましたけれども、それは影響があるだろうと意識してしまうことによって、影響力を不要に呼び込んでしまう恐れがあると考えていたからでした
しかし結果から言いますと、オーブ1度以内のアスペクトは、正確にアスペクトが形成される場合と比較して、その影響力においてほとんど遜色のないものだった、というのが率直な感想です
④の時期が過ぎてから、ちょうど半年間くらいの期間はオーブが1度以上に開いたため、天体配置の影響力が大分弱まったので、その隙に体力の回復を志して努力してみたのですけれども、9月に入りますと運動が相当しんどく感じられるようになり、9月半ばくらいからは再び不調になって、10月から今月に掛けては、昨年までの状況がすっかりぶり返される感じで体調が悪化していました
先週の17日を最後に、天体配置の影響から漸く解放されたことになりますけれども、このような長い期間にわたって強い影響力をもたらす天体配置に関しましては、その期間中に惹き起こされた事象に関して、自分の中で十分に消化できていない場合には、その後も長ければ数年程度引きずってしまうような場合もありますので注意が必要となります
実際に自分が19歳から20歳までのちょうど1年間の間に、出生の太陽に対する経過冥王星のスクエアを経験した際には、その時期は自分が生きているのか死んでいるのかよく分からなくなるようなひどい離人症的な感覚に陥っていて、1浪して入学した大学の1学年の時に、次の学年に進級するのに絶対に落としてはいけない単位を落として早々に留年が決まってしまったのですけれども、そうした影響を後年にも随分引きずってしまい、その後も2回留年を繰り返すなどして、最早自分が大学を卒業できるとも思えなくなって、本当にどん底のような精神状態に長く陥っていました
ちなみに、そのように留年を繰り返し、わたしはストレートで上がって来た人と比べて同じ学部卒でも四つも年齢が嵩んでいる状態だったのですけれども、何と就職ではそのことがむしろ好い方向で作用しました
と言いますのは、まだバブルの名残がある時期で、新採の人達が他のもっと給料の高いところに移るためにすぐに辞めていってしまうので、その年は敢えてわたしのように年を食った人間が多く採用されたようで、人生というのは何が幸いするものかというのは本当に分からないところがあります
今回の天体配置の影響が及んだ範囲
まず二十歳前後の頃に経験した、経過冥王星がスクエアを形成した際の出生太陽について考えますと、人体で言えば心臓に照応する太陽は地上世界における生きる意志というものを司っていますけれども、冥王星という人間が抗うことのできない強制的な力によって、生きる意志が挫かれてしまう様な状況にずっと見舞われていて、先にも述べましたように自分はひょっとして死んで幽霊になってしまっているのではないだろうか、という錯覚にもしばしば捉われてしまうほどに、わたしの場合はまったく生きる意志というものを喪失しているような状態にありました
今回の場合は出生の月が経過冥王星からのスクエアを受けた訳ですけれども、人体で言えば脳に照応している月は内的世界の象徴であり、自律神経系の働きやホルモン分泌系に深く関わっていますけれども、わたしの場合はおそらく更年期に伴う男性ホルモンの低下とそれに伴う自律神経系の著しい乱れがずっと続いていたことが、主な要因のひとつと考えています
神経系統との相関性は水星の方を取る考え方が多いと思いますけれども、わたしの場合は神経系統のインフラ構築には月が関わっており、水星というのはそのインフラを利用して情報伝達を行う運用に関わっているというように明確に仕分けています
水星というのは知性の基礎的な部分を司りますので、それは知覚を伴う顕在意識的な世界と相関していて、これに反して自律神経などは完全に潜在意識的な世界との関わりしか持ちませんので、やはり月の状態に左右される側面が大きいことになります
月はまた記憶や習慣といったものが蓄えられる場所であり、記憶というのはそれが顕在意識の上に浮かび上がるまでは潜在意識の倉庫に眠っていますし、習慣というのは意識的な行動が反復された結果、それが無意識下で自動化されたものですので、やはり無意識的な世界を司る月によって支配されているものです
ですから、その月に対して経過の冥王星がスクエアとなる時には、それまでの生活習慣や無意識的に出てしまう自分の癖のようなものが、大きく改められるような作用が出てくることになりますけれども、要するにこれまでのようなやり方や生き方をしていても一向に何事も上手く行かないようなことになって来ます
わたしの場合も、これだけ長期にわたって体調も生活もすべてが上手く行かない時期というものを経験する中で、自然とこれまでの自分の生き方や在り方などを深く反省して、改めようというような気持ちに何度も繰り返してなった次第です
この2年間でわたしの生活の中で外面的な物事について進展させられたものは何一つありませんけれども、脱サラをしてから2年ほどはゆっくり過ごそうという気持ちで過ごしていた後、そろそろ今後の生活について、収入面を含めて本格的に動きださなければならないというタイミングで、このような期間を2年も過ごす羽目になった訳ですから、普通であればその精神的苦痛は相当に大きなものとなっていた筈です
しかしながら、時を同じくして世界全体がコロナ禍に巻き込まれ、世の中全体が異常な時期を過ごすと共に、非常に多くの人々が生活上の困窮や精神上の問題に苦しむということになっていましたので、そのせいでわたし自身が本来であれば感じることになったであろう精神的苦痛というのは、何分の一にも和らぐ結果になりました
もし、世の中全般が普段通りであったとすれば、自分の身に生じている不調と、それによって何の活動もできない状況に対して、どれほど焦りの心が生じて苦しい思いをしたことになったことでしょうか
それを考えましたら、今回の個人的な大きな不調期が地球規模で社会全体が困難に遭う時期とが重なって生じましたことは、わたし個人にとりましてはとんでもないレベルの幸福であったと言うことができます
起きて来る事象はあくまでも自己の内的要因の範囲内
一見、あたかも天体の配置によって惹き起こされているように見える様々な事象というものは、そのように見えてはいても、実際にはすべて自己の内的要因に従って事象が表面化しているのに過ぎない、ということを知っておくことも非常に大切です
特別な天体配置の時に、何らかの事象を惹き起こす要因というものが自己の内部にないのであれば、何も起きることはありませんし、起きてくる事象というのはすべて内的要因に従って必然的に生じて来るものになります
しかし、現れ方としては如何にも天体配置の影響で現れているように感じられるのですけれども、確かに現実的に物事を表面化させるという意味では、天体配置のエネルギーが作用しているのであり、自己の内部に要因のある出来事について天体配置のエネルギーがそれを現象化させる、ということはできるのでしょう
それがネガティブな出来事だとすれば、ある天体配置の時というのは、その人の借金の返済期限が来たようなものですし、ポジティブな出来事に関しては、定期預金の満期を迎えたようなものと言えるでしょうか
しかし、我々が借金をしたり貯金をしているのは、天体配置に関わりのない普段の時期に行っている訳です
つまり、ある天体配置の時にどんなことがどれくらい起きるかということは、それとは関係のない普段の日常の過ごし方が深く関与しているのであって、天体配置のタイミングというのは、それを精算する時期が来たということに他ならないと言えます
しかしながら、前世から持ち越して来ているカルマの作用の部分などもありますので、その総てが身に覚えのあることという訳ではないでしょうし、そういうことは親が死んだと思ったら実はその親には多額の借金があって、そのことを何にも知らされてなかった自分が急にそれを相続する羽目に陥ってしまった、というような理不尽な出来事として感じられる部分があるかも知れません
それでも、我々は自分自身に起きてくるすべてのことをギフトとして受け取るのでなければなりません
自分の身に生じたことを他者や環境のせいのように考えている限りは、何事も進展せず物事は決して良い方向には進んでいかない訳です
宇宙は絶えず万物を完全にあらしめようと働きかけているので、如何に辛くとも心の何処か隅っこの方では、このことは自分を成長させて完全さに至らせるために起きているギフトなのだと考えるように心掛けることが必要と考えます
最後に
大分長くなってしまいましたので、そろそろこの辺でお終いにしたいと思います
今回は、天体配置がもたらす影響についてやや多角的に考えをまとめてみましたけれども、如何だったでしょうか
占星術は人生をよりよく活かすためのツールではありますけれども、人生をよりよく生きるための学びということが基本に据えられていないのであれば、如何にツールの活用を試みたところで、何一つとして有意義なものが得られることはなく、かえってその知識や情報によって右往左往して振り回されてしまうだけのものとなってしまうでしょう
また、スピリチュアリズムによって得られた知識というものも、それが自分の中で真に深められて、それが信念にまで高められない限りは、一時的に宗教のようなものにかぶれて単に形式主義的に何となくよさそうと感じられる生活様式を実践しているだけのことに終わってしまうこととなり、そのようなレベルの認識に留まっているのであれば、いくらたくさんの知識や情報を身につけようとも、それでもって人生を実際に好転させていくような力と為し得ることはできないでしょう
これから時代はますます唯物的な方向へと傾斜していくことになると考えられますけれども、そのことは、我々人類が精神主義的な生き方へと回帰していくための切っ掛けとして与えられている試練のようなものとなります
そのような中で、自分の生き方や世の中のあるべき姿というものを、世間の有り様に振り回されることなく、精神主義的な形で見出していくことに、一人ひとりが真剣に向き合っていかなければならない時代になってきていると感じられるところです
それでは、このように長たらしい饒舌な文章を最後まで辛抱強くお読みいただけまして、誠に有り難うございました
“出生月への経過冥王星のスクエア ~天体イベントがもたらす影響~” に対して1件のコメントがあります。