ジェンダーに関する精神主義的な見方 ~風の時代のガイドライン~

はじめに

現代におきましては、唯物主義的なものの見方が一層強められる傾向にあり、人間の本体を肉体であると見做すような考え方がどんどん人々の意識に刷り込まれ、次第に人々の中で強固な信念が形成されつつあるように感じられるところです

人間の本体を肉体とみなすことにより、もっとも弊害を受けるものの一つが、今回取り上げるジェンダー問題であるのだとと思いますけれども、とてもセンシティブな問題を含む課題であるため、この数か月間、中々筆を進めることができませんでした

今日は、あまり内容を膨らませすぎず、基本的な事柄に絞ることを心掛けながら、現代の唯物主義的なものの見方がもたらしている、大きな弊害について考えてみたいと思います

1.性別は本性にとっては二義的なもの
2.内側から本質的に見る
3.肉体的特性に基づく経験の限定
4.自然法則としての性と社会的偏見に基づく性役割
5.性別をマーケティングに利用する現代資本主義
6.両性性を育むということ
7.性の混乱について
8.カルマと自由
9.複雑なジェンダー問題への対処の仕方
10.日本人、特に女性に対する期待
むすび

1.性別は本性にとっては二義的なもの

人間の本性が輪廻転生を繰り返す霊的存在であると考える精神主義的な見方からすれば、肉体というのは霊がこの地上におけるこの世的な存在形態をとる際の仮初めの器であり道具であるのに過ぎません

また、性別というのは、単に肉体に付属する特性に過ぎず、我々の本体である霊性には性別は存在しませんので、我々の本性にとって、性別というのは二義的な特性であるのに過ぎないと考えてもいいように感じられます

「シュタイナー用語辞典」(風濤社)の「性」の項目には次のように書かれています

『地球進化期の最初、人間は両性具有であった。』
『両性に分かれたことによって生殖のあり方が変化し、意識の連続がなくなって、生死・輪廻が始まった。』
『現在、男性のエーテル体は女性的、女性のエーテル体は男性的であり、原則的に人間は2160年間に2回、1度は男、1度は女として生まれる(例外はあっても、7回以上連続して同じ性に生まれることはない。)』

つまり、人間が地上における現在のような存在形態で輪廻転生を繰り返すようになったことの発端として、人間が両性に分かれたということがあったのですけれども、原則的に人は交互に反対の性に生まれ変わることになるとされています

我々が地上に転生して来るためには、何らかのカルマが必要となり、釈迦の教えのとおりにカルマが解消された時点で人間はもう地上には転生しなくなるということになります

そして、人間が両性に分かれたこというのは、あらゆるカルマの中でも最も基本的なカルマとなると考えられます

カルマというのは、人間が地上において転生を繰り返しながら魂を成長させる際の原動力のようなものだと個人的には理解しています

人間は女性(男性)として生まれ、女性(男性)として生きることを通じて、次の転生で男性(女性)として生まれるカルマを準備することになります

カルマというのは、常に対極の経験から対極の経験へと人間を駆り立てながら、その反動的な力を魂を成長させる原動力として利用しているのだと、わたしは個人的に理解しています

ですから、カルマに関して一般的に信じられていることというのは、実際には丸で当てはまらないことが多くあるということになるのですけれども、それは人々があくまでも現在の自分というものを基準にして、そこから類似している像というものを類推し勝ちであるということです

例えば、自分と同じ性別の過去の歴史的人物に関して自分の前世ではないかと感じたり、ある人が音楽的才能を持っていたら、前世もきっと偉大な音楽家であったに違いない、というように考え勝ちであるということです

カルマに関するそのような類推の仕方というのは、真実からは最も懸け離れたものとなります

魂というのは基本的には、少しでも似通ったような時代状況や環境の中に再び生まれて来ようとは絶対にしません

魂にとっては、そのように前世と似通った人生を再び送ろうとするようなことは実にまったく無駄なことでしかないでしょう

ですから、前世で一生を通じて何らかの才能を発揮したならば、今世ではそれに関する才能はまったく持ち合わせないことになりますし、むしろ今世において自分で最も才能がないと感じられる分野というのは、実は前世において才能を発揮していた分野である可能性の方がずっと高いということになります

ちなみに、精神的活動としてある才能を磨いた場合に、来世においてはそれは何らかの身体的な能力に転化されると言われており、輪廻転生においてはそのように精神と肉体という対極的な要素の間で入れ替わりのようなことが起きるのですが、性別の転換というのもそのような原則に従って生じてくるものと考えられます

対極的経験から対極的経験へと移ることによって、魂は幅の広い多様な経験を得ることができることになりますけれども、対極から対極へ移るということは、つまり前世に犯した過ちに対する反省を携えながら、人は前世の在り方に対して反動的な在り方をしようとする傾向を持つということになります

おそらくはそのような形で反動を利用するようなやり方というのは、魂が自らの成長を加速させていく上で、もっとも効率的な在り方であるのだろうとわたしは理解しています

シュタイナーによれば、今世の自分が「望まないこと」や「嫌なもの」の中にこそ、自身の前世に深くつながるものがある、というように説明しています

人間は通常は前世における自分の在り方への反省から、前世の自分の在り方に近いような生き方からはできるだけ避けて遠ざかろうとするもののように考えられます

自分が最も嫌って避けているような生き方の中にこそ、自分の前世のあり方に直結した要素があるのだ、そのように理解することによって、皆さんはカルマというものに対する正しい理解を深めることができ、カルマの解消に向けた意識的な努力に向かいやすくなるでしょう

また、前世で女性/男性として生きた結果として今世では反対の性別に生まれてきたのであり、また、今世で女性/男性として生きることを通じて、来世に向けて反対の性別の身体を準備することになる、ということをしっかりと踏まえていれば、あなたのこれからの人生において、性別に関する無用な迷いに踏み込まなくて済むことになるのではないかと感じられますけれどもいかがでしょうか

2.内側から本質的に見る

上で述べましたように、人間の本性にとっては性別というのは二義的なものであり、極論をすれば性別というのは肉体とそれに付随する生理的、本能的側面にしか存在しないものである、ということが、厳密に考えれば言えるのではないかと感じられます

人間は肉体、エーテル体、アストラル体、自我、というように、複合的な存在形態をこの地上でとっている訳ですけれども、性別を厳密に区分できるのは、ほとんど肉体的レベルまでではないでしょうか

エーテル体は肉体の性別とは反対の性質を持ちますけれども、エーテル体をエネルギーとして考えれば、男性としての肉体を現実化することによって、そのエネルギーのバランスは反対に女性化してしまうのは当然のことになるのですけれども、お分かりになられるでしょうか

見えない世界というのはエネルギーの世界であると考えれば、エネルギーが何かを現実化・物質化・現象化させた場合に、その現実化された分のエネルギーが消失されると理解できれば、何故エーテル体の性質が肉体の性別とは正反対の性質を帯びているのかがよくお分かりになるでしょう

肉体的次元以上の精神的な部分に関しては、人は常に男性性と女性性の双方の要素を併せ持っているのであり、それが霊的な次元に近づけば近づくほど、性別的要素は段々に希薄となり、最終的には存在しなくなるというように感じられます

人によって生きている次元というのは異なりますけれども、低い次元においては肉体と自己というものが認識の中で同一化されているため、より性別に拘った生き方をしますし、高い次元で生きている場合には、真の人間らしさの実現というような霊性の実現の方向にだけ意識が向けられるので、そこではあまり性別に対する意識というのは希薄になっていきます

唯物的に肉体的な次元で生きれば生きる程、男女というのはお互いに相容れない別の生き物だというように感じられますけれども、そのような次元を越えて人間らしさの実現に生きる人同士であれば、男女であってもお互いに人間として相互理解し合える部分が増えることになっていくことになります

3.肉体的特性に基づく経験の限定

私はまず、人間は本性において性別のない存在であり、肉体とそれに付随する性的特性は二義的なものであることを強調して話しました

しなしながら、この地上において肉体を伴って経験するものこそが魂の糧になるのであり、そのような意味においては我々は性別という宿命にとても縛られた存在でもあるのだとも言えます

それは、霊の器であり道具としての肉体を通してこの世で得られる経験というものは、肉体とそれに付随する特性によって限定されたものになる、ということになるからです

最も特徴的なこととしては、男性の肉体を持って今世生まれてきた人は、子供を身籠もって出産するという体験を自分自身で得ることはできませんし、そのように肉体的構造が異なっている部分については、男性と女性ではまったく異なる経験をすることになります

男性においても月の周期に基づく生理的な影響というものは、まったくないという訳ではないものの、それは女性が毎月経験しているようなことをそのまま体験できるという訳では全然ありません

男性に生まれついた場合には、感情的な機能について、それが如何に女性に比べて遙かに劣ったものであるか、ということは女性にはよくお分かりになるのではないでしょうか

男性の感情的機能は女性より遙かに劣っていますので、例えば赤ん坊の泣き声によってその欲求しているものが何であるか、というようなことを直感的に聞き分けるような能力はほとんど期待できないでしょう

その代わりに、別の形で家を守ったり家族を養ったりするような、外面的な活動に関しては、唯物的なあり方をする男性には向いていると言えるでしょう

シュタイナーは、『女性は心魂的、感情的であり、男性には理知的、唯物論的な要因があります。』(「いかにして前世を認識するか」イザラ書房)、というように語っています

女性と男性とを比較した場合に、女性はより霊的で集合的で内面的なあり方をしており、男性はより唯物的で個性的で外面的なあり方をしているというようなことが言えます

このような比較は、日本人と西洋人との比較においてもそのまま当てはまる部分があり、現代は西洋の男性原理型社会が世界のスタンダードとなり、唯物主義的なものの見方を強めるとともに、個人主義的なあり方を広めており、そのことは非常に多くの弊害をもたらしていますけれども、その件については、また今回とは別に記事を書くことにしたいと思います

世の中を外面的で物質的な、つまり主に経済的な側面から眺めますと、女性は男性の所有物のように見えますけれども、反対に、内的で精神的な側面から眺めた場合には、男性というのは女性にまったく隷属している生き物のように見えます

物事には常にこのような両面性が存在しますけれども、現代社会においては、常にどちらか一方に偏ったものの見方しかなされておらず、精神主義的な見方というものがまったく欠落しています

4.自然法則としての性と社会的偏見に基づく性役割

現在の世の中では相変わらず唯物的な次元で生きている人の方が主流であるため、人を男か女かというどちらかに分類するようなものの考え方しかできていない部分が非常に多いことになります

そうしますと、わたしのように比較的中性的な感覚で生きている人間というのは女性的であるとの判断をよくされるのですけれども、世間で考えられている女性性や男性性に関する判断というのは、そもそもかなり的外れな部分が多くあると感じられます

それは、人間をその内側から本質的に見ているのではなく、外見や行動様式などの類型といった外側からしか物事を判断していない、というようなところに要因があり、そのように外側から類型的に捉えた男性性や女性性という枠組みが示しているものは、各人の中で機能している男性/女性原理というような本質的な部分に基づいて内側から観て判断されたものとは、まったく異なるものです

男性性と女性性に関する世間一般の判断というのは、まったく本質から離れていて、女性的/男性的でないものを女性的/男性的であると思い込んでいたりし勝ちです

例えば、女性は花を好むという一般的な傾向は確かに普遍的に見られることですけれども、だからと言って、花を好むことが必ずしも女性的な行為であるということにはならない筈なのですけれども、通常世の中はそのように行動パターンの類型化から物事を外側からステレオタイプに捉えて判断し勝ちです

花を咲かせる植物において、その花の部分には何処かしら精神的で芸術的なものを感じるけれども、反対に根っ子の部分はとても実質的な要素にしか関わっておらず極めて唯物的だ、というような言い方はできるでしょう

植物の根っ子は地中の見えないところで、植物の成長に必要な養分の吸収という、実に目立たない、極めて実質的な物事だけに関わっていますので、とても唯物的であるということができる訳であり、その部分というのは実質的な機能に特化しています

それに反して花の部分には、単に生きているという実質を越えたものが感じられ、単に機能という側面からでは割り切れないものが存在しているように見受けられます

そこには何かしら芸術的な要素が含まれていると感じられますし、それは人間の感情に強く訴えかけて来て、とても華やいだ浮き浮きとした気分にさせたり、陶酔させたりします

けれども、反対に根っ子のような極めて実質的な要素しか持たない機能に特化した部分を見ることで幸せな気分になったり良い気分になるような人というのはほとんどいないでしょうし、そのように人間の感情に訴えるものはほとんど持ち合わせないと感じられます

この様な対比は人間の生活においても、あくせくと食べるために無味乾燥な仕事に打ち込むことと、そうして得られた糧によって、直向きに生きるという生活上の必要事からは迂遠な、芸術や思索といった精神的活動分野に没頭することの中にも見出すことが出来ます

それは一人の人間の生活要素の中にも見出されうることですけれども、男女の相違という観点からは、男性というのはより唯物的な根っ子のような実質的な要素に携わることに生きがいややりがいを見出しやすいところがありますし、女性は花によって誘発されてくるような感情的、心情的要素に関わっていることを好むという傾向は確かに見られます

女性というのは一般的に言えば、やはりあらゆる面で花のような存在になろうというような強い志向性を持っているものと感じられますし、機能性というような実質的な物事からは迂遠な、華やかで浮き浮きするような気分の中で過ごしたい欲求を強く持っているように見受けられます

しかしながら、人間は肉体本位的な唯物的世界にだけ生きているのではなく、もっと次元の高い精神的な世界において、精神的な活動を欲していますし、そこは肉体の性別にはあまり囚われないユニセックスな世界です

そして、そうした精神的活動としての何らかの創造的な仕事というものも、その個人が肉体を通じて経験した事柄が創作の素材として利用されているという限りにおいては、男女それぞれに異なった雰囲気が醸し出されてくることは当然のこととなります

我々は肉体と精神の複合的な存在ですので、そのように性別的に生きている部分とユニセックスに生きている部分とが常に混じり合っています

男性/女性としてあることに対して、そのことが十分に尊重される必要がある一方で、性別に関する類型的な判断に基づく誤った偏見によって、人間の精神的な活動が妨げられることがあってはなりません

私が言及している両性の違いというのは、あくまでも肉体に基づいた自然法則的な天与の性質に関して述べているのであって、主に唯物的な見方から生じて来る様々な歪んだ社会的偏見というものとは異なります

肉体的特性の相違から、従うべき自然法則が異なって来るため、それぞれ別様の生き方が必要になってくるということとはまったく別の次元の話として、社会の歪んだ偏見によってもたらされている性役割に関する意識によっても、我々は後天的に縛られています

そして、この自然法則が作用している部分と、人間が作り出した文化の中で生み出された歪んだ価値基準とが、まったく仕分けられることなく、ごったにして語られていることこそが、性別に関する諸問題に関する混乱というものを非常に惹き起こしている部分があるということについて、まず最初に考えられなければなりません

自然法則から考えて両性がそれぞれ別様の形でこの様にあるべきだ、ということと、社会的規範意識から与えられる性役割という問題とは、まったく切り離して考えられなければなりません

5.性別をマーケティングに利用する現代資本主義

現代においては、相変わらず肉体的特性に縛られている部分も勿論ありながら、生活が非常に便利化してきているお陰で、性役割的な分業の必要性が希薄になってきている部分があります

男女というのは、お互いの肉体的特性の違いがもたらす基本的なあり方の相違をよく踏まえて相互に補完し合いながら、このような時代にあってはより次元の高い精神的な活動に勤しむのでなければならないと言えるでしょう

そうしたあり方が可能となって来ているにも関わらず、現代社会は益々人間に対して唯物的なあり方への強制を強めており、従って肉体的特性である性別に基づいた価値判断により埋没していくような傾向も見受けられるところです

そうしたことが何故起きるのかというのは、それは世の中の総ての仕組みが資本主義的なマーケティングによって支配されているからに他なりません

人々は昼間の社会的活動において所属している組織に奉仕をします

それは植物の根っ子のような生きる上での実質的な要素を獲得するために必要な活動です

そして、本来であれば、昼間の社会的活動を離れた時間においては、人間は昼間の唯物的で実質的な活動によって損なわれた自己本来の人間性の回復に努めなければなりません

ところが、現代では人々の趣味や趣向を含む生活のすべてが、資本主義によるマーケティングによって誘導されています

主にマスメディアを通じて人々にもたらされる情報のすべては、資本主義のコマーシャリズムと分かち難く結びついています

そしてそのことに対して人々はほとんど無自覚なので、自分の行う消費活動のほとんど一切が、資本主義のマーケティングによって巧妙に誘導されたものに過ぎないことに気がついていません

メジャーなSNSにはすべて広告が伴っていますけれども、メジャーなSNSというのが如何に言論統制的な存在であるかということとそうした事柄とは密接に結びついています

つまりすべてのメジャーな情報伝達手段を通じて、世の中のある人々にとって都合のよい情報だけが世の中に広められ、反対にある人々にとって不都合な情報は封じ込まれているという状況が実際にあるわけです

人々は平日の昼間に労働力を提供するという形で搾取されますけれども、それ以外のすべての時間においては今度は消費者として、資本家のマーケティングに忠実に導かれる形で消費行動を行うことによって、二重に搾取されているということになる訳です

こうしたケースの最も分かりやすい形として、仮想空間のゲームにおいて多くの課金をして、唯物的な欲求をバーチャルな形で充足させているような非常に多くの人達の存在というものがあげられると考えられます

昼間の社会的活動っによって得たお金を、唯物的なゴージャスで優越感に浸れる気分になるために仮想空間で消費するような行動パターンによって、それらの人々は内面からも骨の髄まで資本主義にしゃぶられ、極めて唯物的な存在となっていくでしょうし、人間の本来性は虚無的な闇に埋もれてしまっていくことにしかならないでしょう

ブロック・チェーン技術というのは、本来は現代社会の中央集権的なあり方への批判精神から生まれてきたものですけれども、つい2ヶ月ほど前にFacebook社がメタバースを意味する「メタ」へと社名を変更したことからも分かるように、大手資本は挙ってブロック・チェーン技術が可能にするメタバース(仮想空間)に対する本格的な資本参入を行っています

資本家のマーケティングによって人生のすべてをかすめ取られている現代の人々は、本来であればアンチ中央集権的な分散型社会の実現の可能性を前にしながら、それを資本家が益々人々を唯物的な存在にするための、より一層手ひどい形の搾取を行うための仕組みとして利用しようという企みをみすみす見逃そうとしています

すでに、SNSを通じて発信されるあらゆる情報は資本家によって吸い上げられ、人々を効率的に利用する上で、あらゆる消費行動をコントロールするために利用され、人間のすべての活動は資本家の経済上の利益に結びつくように仕向けられています

ブロック・チェーン技術が可能とするメタバース(仮想空間)において、そのような搾取はより一層手の込んだ周到なものとなり、人間を内面的な世界からもより唯物的な存在としていくことに拍車がかかることになるでしょう

今般のコロナ禍において、如何に為政者やその他の権威主義的な人達が、自分たちの失態や誤りなどは一切顧みることなく、国民に対して一方的で強制的な力でコントロールすることだけに強い関心を持っているか、ということに多くの人々は気がついたのではないでしょうか

大手資本ばかりではなく、国もまた将来的な重要な施策として、ブロック・チェーン技術が可能とするあらゆるシステムを積極的に利用することを宣言していますけれども、国民に対するサービスの充実とは名ばかりのものであり、それは国民を一方的に支配して搾取するためのシステムとして捉えられていることに疑いの余地はまったくありません

我々が人間としての本来性を回復して、精神主義的に生きようと志すのであれば、まずは現代社会がそのような時代を迎えつつあることへの認識がまず必要となります

大変に唯物的な傾向を持つ現代資本主義社会においては、男性の去勢化とともに女性の男性化というようにユニセックス化が推し進められている一方で、本質的な男性/女性原理とはほど遠いところで、類型化された男性性や女性性の枠組みの中に人々を落とし込んでいくようなマーケティングが非常に巧妙化されています

性別の存在に対して一方でその存在を否定するような流れと、反対に性別意識の助長を扇動しながらそのことを通じて経済的な利益を生み出そうとする流れがあり、人々は本質的な部分からどんどん遠ざかりながら、性別に関する虚構的な世界に益々はまり込んでいっています

人々は自らの肉体的性質に基づく自然な欲求に従うのではなく、経済上の目的で誂えられた女性性や男性性を象徴するような商品の消費に掻き立てられているということです

そして、そうした流れは男性に女性的商品を売りつけたり、女性に男性的商品を売りつけたりするなど、まったく節操のない形で行われ、世の中の性別に関する混乱は益々混迷を深めており、そこには唯物的科学の代表である医学すらも大きく荷担しているという有り様です

わたしの個人的な意見を言わせていただければ、少しく極論的ではありますけれども、そもそも心と身体における性の同一性などといったものは厳密な意味では初めから存在しないもの、というように感じられます

それはこれまでに述べてきましたように、肉体においては非常に厳密な区別として性別の違いというものがありながらも、精神においては、常に人は両性を携えていると言えるからです

例えば占星術の場合もそうですし、あらゆる精神分析的なツールというものも、その基本となる原理的な考え方の部分というのは基本的にユニセックスなものでしかありませんし、人間の精神的な部分に対してさえも厳密な性別の区分をもたらそうとするようなことは、ある意味では非常に馬鹿げたことに過ぎないように感じられます

そのようなことはやはり唯物的で画一的な物事の捉え方の弊害に過ぎないと言えるでしょう

性別というものが主に身体構造の差違に基づいていることを考えますと、性別というのはどちらかと言えば肉体本位に考えられなければならないものであるということになります

それ以外の精神的な部分においては、人は如何なる趣味趣向を持とうと基本的には自由であるべき筈なのですけれども、物事を外側から類型的にしか観ないことに基づく社会的偏見に満ちていることによって、人間が精神的に持っている両性性というものが著しく抑圧されており、無用の混乱を世の中にもたらしているのだと感じられます

6.両性性を育むということ

「女子力」というような言葉がありますけれども、「女子力」として認識されるものの中には、女性原理的なものばかりでなく、男性原理的なものが多く含まれていると感じられます

所謂女子力が高いと言われるような、非常に身だしなみの行き届いた女性には、むしろ男性原理が強く働いていると感じられることが多く、例えばとても奇麗な女優さんや水商売をされているような女性というのは、外見上はものすごく女性的な魅力が磨かれているように見える訳ですけれども、ものすごく男性原理的な要素を強く持っているように感じられるところです

ここで男性原理的というのは、それが単に感情的にそうしたいからそうするという内発的な動機以外の、外面的な部分で何かを勝ち得たり優位な位置に立ちたいというような明確な目的意識に基づいてなされる部分についてそのように言っており、それは多分に競争原理的な要素を含んでいるものと感じられます

別に女性がそのように競争的に生きることを否定している訳ではありませんけれども、人より目立とうとか勝とうというような意識が本質的に言えばあまり女性原理的なものではないことは確かなことではないでしょうか

また、ここで注意しなければならないのは、ある女性が非常に男性原理的な要素を活かして生きているという場合に、必ずしもその方の中で女性原理的な要素が弱いのだとは限らないということになります

人間というのは性別が厳密に分かれている肉体的次元を除けば、精神的には常に両性を持ち合わせていますし、その両性のバランスというものがある程度は保たれていることが必要であり、一方の原理的要素を高めるという場合に、もう一方の原理的要素もある程度高められていることが必要であるというように感じられ、それは本来的には人は無性的な存在であるということに関係しているのではないかと感じられます

そのようにある程度の両性性のバランスが取れていない場合には、人は自分と異なる性別の人間に依存しなければならなくなりますけれども、そのようなあり方はあまり健康的とは言えないでしょう

両性のバランスがある程度自分の中で実現されている場合には、より自律的な人生を生きることが出来ますし、異性と依存し合わなければならないような次元の低い生き方ではなく、相互に認め合って自主的に尊重し合う様な関係性、つまり相互に補完し合うようなより理想的な関係性が意識されることになるでしょう

特に、ある程度の社会的活躍をするような場合には、肉体的次元の姓とは反対の性の要素を精神的要素の中で同時的に高めていることは、必ず必要となってくる要素となるように感じられるものです

女性にとって、家事や育児にまったく携われない男性と一緒にいるよりは、そうではない男性といる方がずっと好ましいでしょうし、また男性にとっても、車の運転や家電の扱いなどをある程度出来る女性の方が好ましいと感じるでしょう

自らが自分と反対の性別の特性に積極的に携わることは、相手に対する真の理解と尊重とに大いに役立つに違いありませんけれども、それが相手に強制されるものであることは好ましくないですし、誰でも自分が苦手意識を持つものについて人から強制されることはとても気分を害することになる点には、多いに配慮されなければなりません

また、肉体的次元やそれに近い部分で反対の性別的な生き方を全面的にするということは、肉体に余計な負担を掛けることになる部分があるので注意すべきところがあるのではないかと感じられます

特に、より精神的なあり方をしている女性が、より唯物的な生き方をする男性のような生き方を肉体的次元でする場合には、その弊害が大きく出るように感じられます

何故なら本来的に精神的に生きるように設計されている女性の身体や精神というのは非常に柔軟さを保っており繊細であるからです

一般的に言って、水が高いところから低いところへ流れるのと同じように、精神的あり方をする女性が男性的な唯物的なあり方へとシフトする場合の方が、その反対の場合と比べて容易であると感じられ、反対に唯物的な生き方から精神的な生き方へとシフトするというのは、それが人間の中の高位の次元、霊性への回帰を目指すのだという強固な意志に基づくのでなければ、比較的困難であるということが言えるのではないかと感じられます

特に、現代のように極めて唯物的な方向性を持つ文化を背景に考えた場合には、女性は容易に男性化する流れに乗りやすいけれども、反対に男性が女性化するというのは、それに比べると相対的に困難であると言える部分があるように感じられます

その時に、本来的にはより精神的なあり方をする女性の肉体というのは、男性的な行動様式によってひどくストレスを受けやすく、特に女性特有の器官において障害が生じやすいもののように感じられます(※このことは単に個人的な主観に基づく判断に過ぎません)

そもそも、女性において定期的に訪れる痛みというのは、女性が女性であるためには本来的に内的な生き方をする必要があり、痛みや不快な症状というのは、たいていの場合は人間にもっと内側に意識を向けるようにという信号として送られて来るものです

しかし、人間は痛みなどによって自分の社会的、外面的な活動を止めたくないと考えがちであるので、それらの症状に対して大抵はひどくネガティブな態度を取り勝ちであり、そのことによって逆に信号としての症状が一層強められることになりますけれども、それに対して強引に鎮痛剤などで内側からの呼びかけを無視して黙らせる、そのような悪癖を繰り返すことによって、人間は自分の身体の中に歪みを蓄えていき、将来的な大きな障害の要因を作るようなことにつながっていくことになります

大抵の痛みや不快な症状というのは、むしろ積極的に受け入れて感謝をし、自分の内面に意識を振り向けることによってかなり緩和することが多いものです

それは自分の中でアンバランスが生じていることを知らせてくれる信号に過ぎないので、その知らせに対して感謝をして受け入れて、自分の内側に意識を向けることによってのみ、症状は緩和されうるということになります

わたしは若い時分に最後にインフルエンザにかかった際に、高熱や関節の痛み、強い吐き気などに対して、徹底的に意識を集中して感謝してみるという実験を通じて、それらの不快な症状の一切を天に昇るようなとんでもなく心地好い高揚感へと180度転換することができたという経験があるのですけれども、その時はあまりにも心地がよくてハッピーなので、一生そのままインフルエンザが治らないでいてくれることを本気で望んだ程でした

7.性の混乱について

わたしは性別という区別が厳密に存在しているのは、肉体やそれに付随する生理的、本能的な次元でしかない、と考えています

これは極論的に言えばということなのですけれども、仮にそのような見方に立った場合に、どうして肉体上の性別を否定するというようなことが起こってくるのか、という疑問が起こってくることになります

性別というものが主に身体構造の差違に基づいていると考えると、性別というのはどちらかと言えば肉体本位に考えた方がいいもののように考えられるからです

また、そうしたこととはまったく別の次元の話として、男性や女性がそれぞれ反対の性別の人に特徴的と考えられている趣味や服装などに強く惹かれることや、同性に対して恋愛感情や性的欲求を感じるということは、常に有り触れたこととしてあります

いつの時代においても、また、誰においても、自分の反対の性に対して憧れを持つ要素というのは常に幾分かは存在しているでしょうし、性的な行為なども、人間の場合は本来の生殖行為という目的とは離れたところで、コミュニケーションを深め合うための手段として嗜まれている部分が多いことを考えれば、同性をそのような相手として選ぶことに関しても、一定の普遍性が存在していると考えることができます

人間は自分の生き方のニーズや生まれ持った人生課題のために、自由にそれらを選択して、自分の必要とする何かをある物や相手から得ることができますし、歴史を紐解けばそのような習慣というのはさほど珍しいものではありません

それでは何故、そうしたことがタブー視されているのかということは、偏に言って人を外見からしか判断しない唯物的な見方にその原因があると言えるのではないかと考えられます

異性が嗜む趣味趣向を取り入れたいとする願望や、時に同性との親密な関係を通じて必要な何かを得るという習慣は、人間が肉体上の性別に縛られない精神的存在なのだと考えれば、もっと寛容に受け入れられなければならないことでしょう

肉体上の性別というものには極めて厳密な相違がありますけれども、精神上の性別というようなものは厳密なものとしてはそもそも存在しないのであり、人間の肉体的存在の部分と精神的存在の部分との間における性的な一致などは、そもそも追究すべきようなことではなく、これらはまったくの別物として分けて考えた方が良いのではないかというのがわたしの個人的な感覚としてあります

全西洋文明の発祥地と考えられている古代ギリシアにおいては、公然と男色(少年愛)が営まれ、プラトンの著作にも頻繁に描かれているようですけれども、唯物的あり方をする西洋においては、その後はタブー視されるようになり、キリスト教の影響下では火炙りの刑に処せられるなど非常に厳罰化していったようであり、以来基本的にはタブー視される傾向にあったのではないかと感じられます

一方で日本においても、非常に古くから同性愛は見られ、一説では日本書紀にそれに該当する記述があるものとされていますし、その後も、各時代を通じて常に盛んな風習としてあったようであり、公家や僧侶や武士などの間では男色は当たり前の文化としてあったように、このように同性愛に対して日本というのは常に寛容で柔軟な捉え方をしていたもののように感じられます

しかしながら、明治以降の近代化において西洋的な価値観が流入してくるに従ってタブー視されるようになったのではないでしょうか

少なくとも日本においては西洋の男性原理的な唯物的文化の影響によってはじめて同性愛に対する差別的な考え方が出て来たように感じられますし、現代社会で語られている他の差別に関する議論の多くは、単に西洋の歴史において起きた事柄に対する問題意識がそのまま輸入されてきているだけの部分が多くあるように見受けられるものです

日本人は他の民族と比較して霊的で集合的なあり方をしていて、肉体とは空蝉の仮初めのものであり、人間の本体は霊魂であると感じており、唯物的な肉体本位の見方をあまりしなかったため、同性に性愛の情を抱いたからといって、自分は反対の性だなどとは思わず、精神的な趣向と肉体上の本能とを混同することなく、自然体でバイセクシャルなあり方をしていたものと感じられます

日本の歴史上の同性愛というのは、わたし個人が思うには多分にプラトニックな要素を持っていたのではないかと感じられる一方で、現代社会においては唯物的な西洋型文化の移入によって、肉体本位的で本能的欲求に基づいたものへと全体的にはシフトしているような印象を持ちます(※これは個人的な偏見に過ぎないかも知れませんが)

性的な営みというのは、それが異性間で営まれるものか同性間で営まれるものであるかを問わず、その主要な動機が本能的次元に根ざしている場合には、卑しく醜悪なイメージで受け止められますし、普遍的な人間愛に基づいている場合には非常に美しいものとして受け止められるものではないでしょうか

ですから、どのような相手を選択するかという外面的な部分にではなく営まれる行為が人間的な愛に基づいているか否か、という精神主義的な部分こそが常に問われるべきであるように感じられるところです

8.カルマと自由

この性別に関する問題というのは基本的には人間のカルマに根ざしている問題である訳ですけれども、東洋と西洋においてはカルマに対する伝統的な認識やアプローチ方法というのはまったく異なったものでした

東洋においては基本的に輪廻転生ということが常に前提として踏まえられていたことから、必ずしもカルマを否定的なものとしてばかりは受け取らず、宿命に対して比較的柔軟な考え方を持ち、宿命を甘んじて受け入れて潔く明るく生きていくような生き方が賢いあり方とし常に教示されていたように感じられます

例えば、「禍福は糾える縄のごとし」「人間万事塞翁が馬」といった諺などの中にも、宿命に対して柔軟に対処することの賢明さということが教示されている部分があると言って良いのではないでしょうか

今世のカルマというのは前世の自分が生きた結果としてあるのであり、今世の生き方次第でそれは如何様にも来世に向けて変えていくことができるものとして基本的には認識されていたと感じられます

しかしながら、輪廻転生を基本的には認めてこなかった唯物的な西洋の伝統的なあり方と、それを全面的に受け入れている現代社会においては、カルマは単に障害であり克服されなければならないものというように、基本的には排除されるべきネガティブなものとして受け止められやすい傾向を持っているように感じられます

そのような現代社会におきましては、性別という極めてカルマ的な存在が克服されるべき障害として意識されやすい傾向があるように見受けられます

ここでカルマと自由に関するシュタイナーの言を引用してみましょう

『わたしたちは自分のカルマを排除することはできません。わたしたちは、わたしたちのカルマそのものだからです。カルマはわたしたちを混乱させません。カルマは、わたしたちの自由な行為のかたわらで経過するのであって、わたしたちの自由な行為をいささかも妨げないからです。』

『もうひとつ、べつの譬えを用いてみたいと思います。人間は歩きます。わたしたちは大地の上を歩きます。自分の足の下に大地があることで、歩くことが妨げられていると感じる人はいないでしょう。それどころか、大地がなければ歩くことができず、いたるところで転落しなければならないということを知るべきです。自由というのは、そういうことです。自由は、必然という大地を必要とするのです。ある基盤の上に、自由は聳え立たねばならないのです。 その基盤というのが、わたしたち自身なのです、自由の概念とカルマの概念を把握すると、その両者を一致させることができます。』(「カルマの形成」イザラ書房)

つまり、カルマに対して抗うような態度を取るということは、すなわち自分自身を罵っていることと実質的には変わりがありませんし、カルマによって得ている自由を自ら台無しにしようとしているのに他なりません

我々が否定して克服しなければならないのはカルマとしての自分の身体性なのではなく、社会的な偏見の方なのですけれども、社会的偏見というのは得てして与しがたい巨大な敵であるように感じられるので、仕方なく自分自身を攻撃するようなことを人々はし勝ちなのではないでしょうか

わたし個人の例で言いますと、わたしは生まれつき肉体的次元の自分や性別という肉体的属性に縛られるということに対して初めから拒絶的でした

自分の本質というのは霊的な存在であるということを、誰かに教わったり本で読んだりした訳でもないのに、ずっと頑なに信じていましたし、自分が男性というカテゴリーで扱われるようなことに対して、自分の尊厳が冒されていることのようにひどく抵抗を感じていました

わたしはそのように相当変わっていて、誰も信じないと思いますけれども、ほんの4,5歳の頃に神仏に対して手を合わせて、自分を男でもなく女でもない存在にしてくださいと真剣に祈っていました

中学生になりますと、女性というのは男性に比べて非常に早熟ですけれども、そのような意味でちょっかいを出されるようなことが増えましたので、わたしはある日を境に女性とは一切口を利かないことに決めて、そのまま高校を卒業し1浪して大学に入るまでの6年間くらいは、ずっと女性と話したり接触したりすることを一切自分自身に禁じていました(※ちなみに男女共学という環境下での話です)

何故かというのはそのように肉体的属性に従うような生き方が、自分の本性である霊性を損なうと信じていたからなのですけれども、そのようにわたしは非常に偏ったところのある人間で、そのような事柄に関しては、余程前世でカルマをこさえてしまっていたのでしょう、つまり前世では相当に肉欲的な問題に肩入れをし過ぎた反動が今世に顕れてきていたのではないかと感じられます

そのようなわたしですけれども、それでも男性としての肉体的な自己に対して否定的な感情を抱いたことは一度もありません

わたしは非常に中性的な性質で、男性的な趣味にも女性的な趣味にも等しく惹かれますし、ネットなどでの交流では大抵は女性と見なされてしまいますし、今の社会の性別に関する偏見の方に合わせるのだとすると、わたしは女性として振る舞った方が自分でも自然でいられるので、ネットなどでは大抵は女性としていることの方が多く、その方が疲れません

そのようなわたしにおいても、肉体的な性別に関する混乱というのは一切経験したことはないのは、世の中の物の見方が偏見に満ちていることをはじめからよく理解していることと、自分の本性は肉体的特性には縛られないところにあると認識しているので、自分の肉体的特性にあまり拘りを持っていないからでしょう

別に自分が男でも女でもどちらでもいいのですけれども、ただ、男性としての肉体を授かっている以上は、男性の身体性を通じてわたしの霊性を表現することになりますし、物事を外側から類型的にしか観ない現在の世の中の価値基準からすると、わたしには女性として判断されるような多くの資質があるように特に女性からは言われますけれども、実際には内的に本質から眺めればわたしの中で働いているのはもっぱら男性原理なのであって女性原理ではありません

世の中の自分の性別に反対している方々というのも、社会的な偏見の基準に従って反対の性別として振る舞っているからといって、内側から働いている原理的な部分から見ますと、必ずしも反対の性別の原理に従って生きている訳ではないケースの方が多いように見受けられるものです

そのように足掻いてみたところで、人間は自然が拵えた性別に逆らって、人為的に反対の性別になるということは絶対にできませんし、せいぜい外面的に似せながらそれらしく振る舞うことができるというだけに過ぎません

別にそうしたことを批判するような気持ちは少しもないですし、その人が生きやすい生き方というのを、この偏見に満ちた歪んだ社会の中で見出すことはある意味ではとても賢明であると言える部分も多くあります

ただ、造物主が拵えたような形で、我々人間の力で性別を作り替えるようなことは将来的にも難しいでしょうし、肉体的な部分におけるカルマを否定しようとすることは、魂の正常な発達を阻害する要因にしかならないことだけは、踏まえておいていただいた方がよいように感じられます

9.複雑なジェンダー問題への対処の仕方

これまでにわたしが書いてきた内容によりまして、皆さんの中に大きな混乱を生じさせる結果になっているのかも知れません

それは性別に関する事柄について、ある部分ではそれは人間の本性とは無関係なものに過ぎないと言ってみたり、また他のところでは性別は我々を身体のレベルでは宿命的に縛っていて、それぞれの自然法則に従うべきであるとしていますし、それとは次元の異なる話として、我々は性別に関する社会の偏見によって後天的にも縛られているけれども、それらの多くは好ましい影響を与えない可能性がある点に言及していたりということで、この問題に対して非常に複層的に物事が述べられているからです

これらのことは偏に人間という存在が多次元的で複合的な存在形態をしているからというがまずありますけれども、そのことに加えて、現代社会が余りにも唯物的な方向に進んでおり、物事を表層的で一面的にしか捉えない現代人の習慣というものが、諸問題の理解を一層複雑にさせているからである、と言うことが出来ます

そこで、この問題に対する何か分かりやすいアプローチ方法というものが示されることが必要になってきます

これらの総ての問題について、すべての人が一様に実施できるような一律的なアプローチ方法というものが示されなければならないでしょう

まず一つ目のこととして、自分が女性であるか男性であるかの前に、一人の人としてどうあるべきなのか、ということが考えられなければなりません

自分の人生に横たわるあらゆる課題に対して、自分としての人間らしさを表現するという観点から、物事が考えられなければなりません

また、二つ目のこととしては、すべての人に対して、性別や年齢などの相対的な属性からではなく、単純に人としてその人を見ることが必要になります

我々はこの唯物的な社会にあって、とかく自分や他者を外在的な価値基準で判断することを知らないうちに刷り込まれてしまっています

しかし、どのような対人関係であっても、結局のところは自分と相手の人間性の如何ということが、あらゆる対人関係の間に起こる事象のポジティブさとネガティブさとを決定づけています

我々は特に異性に対しては、色々と期待をしてしまい勝ちになりますけれども、それも世の中全体が唯物的な次元の欲望に対する関心と欲求とを不自然に煽りすぎているからである、ということができます

異性に対して何かを期待するということは、ただ単に自己中心的な理想や欲望を独り善がりに相手に投影させて考えているということに過ぎません

その結果として、期待と異なる対応をされた際に、失望をしたり腹が立ったりということが起きてきますけれども、それらは単に、自分が勝手に思い描いた期待に振り回されているのに過ぎないということでしかありません

すべての人をフラットな目で単純に人として見た場合には、皆さんは変に独り善がりな期待をするような気持ちにならないで済みます

自分にとってポジティブなものが返ってくるか、ネガティブなことが返ってくるかというのは、その相手の人の人間性如何にしか関わっていないので、性別に関する偏見というフィルターを取っ払って人間そのものを見るようにしないと、無用な対人関係のストレスに振り回され勝ちになってしまうことになります

物事を男女という相対的な価値観の枠組みに基づいて語ることの多くは不毛な結果しかもたらしません

人間は人間らしくあることだけを心掛けていればよいのであって、それ以外の価値基準を持ち込むと物事は複雑化して混乱するだけです

そうした人間的な高い境地に立った上で、人間愛に基づいて性別に関する諸問題にアプローチされるのではなければなりませんし、そのように考えた時に女性の出産や育児や生理に関して生じる費用負担などは国家が全面的に保障するべき問題であると感じられます

また、世の中に非常によく見られる間違いとして、現在の男性原理が主導的な社会をもたらしているのが男性であるというような大きな誤解があります

現在、世の中が男性原理的なあり方をしているのは単に歴史的に必然的な過程であるというのに過ぎませんし、そのような社会をもっぱら男性が望んでいるというのもひどい妄想であると言えます

世の中の男性が等しく男性原理中心の社会を望んでいる訳でもないですし、女性だからといって現代のような唯物的な男性原理型社会を望んでいないという訳でもありません

むしろ、社会進出して成功している女性というのは、非常に男性原理型の社会に固執している様が見受けられますし、ベーシック・インカムなどの制度に対して批判的な姿勢などもそのような人において一番目立っていたりする印象が感じられるものです

男性というのは女性が思っている以上に、社会の中でひどく雑な扱いを受けています

徹底した序列に基づくヒエラルキー的な男性原理型の社会構造の枠組みの中で、多くの男性は非常に苦しい思いをしていますけれども、比較的して女性は守られている部分も多くあるのではないかと感じられます

我々が目指すべきなのは男性原理的型社会であったり女性原理型社会であったりするのではなく、人間の高い精神性(徳性)に基づく人間らしい社会でなければなりません

そのような人間らしい社会の中で、人間らしさの担保という観点から、男性性も女性性も共に保護を受けることが必要です

10.日本人、特に女性に対する期待

少し長目にシュタイナーの言葉を引用してみます

『男性の身体においては女性の場合よりも、内的人間が根本的に物質のなかに生きており、物質に結びついています。女性はより精神的なものを保ち、非肉体的なものにとどまっっています。女性はそれほど深く物質のなかに生きておらず、身体を柔軟に保っています。女性はそれほど霊的なものから分離していません。自由な精神を保持し、そのために物質に関わることが少なく、とくに脳を柔軟に保っているのが女性の特徴です。ですから、女性が新しいもの、とくに精神的な領域において新しいものに対する傾向を持っていることは驚くにあたりません。女性は精神を自由に保ち、新しいものを受け入れることに抵抗が少ないからです。精神的なものに関わる運動に男性よりも女性のほうが多く参加することは偶然ではなく、深い法則性に基づいたことなのです。』(「いかにして前世を認識するか」(イザラ書房))

現在の唯物性を強める一方の風潮の世の中にあって、新しい風の時代における精神主義的な人間のあり方について、女性や日本人というのは、非常に貴重な存在であることは明らかであるように思われます

女性は男性のように単純で短絡的な存在ではなく、精神的であるとともに集合的、つまり共生的に生きている多くの人とのつながり意識というものが常に意識されています

男性は目先的な自分の個人的な欲求にほとんどの関心が集中しており、そのことが唯物的世界においてタスクをこなす高い能力というものを与える結果につながっています

そのような意味において、男性というのはむしろ視野が狭くて単純で馬鹿な方が役に立つのだと言える一面があります

女性というのはあらゆる局面において、自分とつながりのある総ての人との関係性というものを同時的に意識の上においていて、あまり自分だけ身勝手な行動をして、自分がコミュニティーから浮いてしまうようなこと、すなわちスタンドプレーと見なされるような行動を避けたい欲求があるように見受けられます

そのような点について女性は集合的であるとわたしは表現していて、女性というのは似たもの同士で集まりやすく、似通ったファッションを好む傾向があり、男性は多くの点でそれとは反対の個性的な方向に向かいやすい部分を持っているように見受けられます

男性原理的な要素の強い女性というのはそのような抜け駆け的な行為ばかりするので、大抵は多くの女性にとっては敵として見なされることになりますし、そのような女性は自分が幸せになる、というより自分の目的を達成する能力には秀でているものの、人を幸せにするような力はあまり期待できないでしょうし、せいぜい飾り物として表面的な美しさを繕うことができ、そのような外面的な価値しか持ち合わせないということになりやすいかも知れません

ともかく、女性の生き方というものを具に観察しますと、女性が如何に精神的な負担の大きい環境下で生きているかということが分かりますし、女性が占いなどの相談に依存しがちであるのも仕方がないと言える部分があるものと考えられます

わたしは本当によく、わたしの持っている価値観や考え方は、女性の中でも最も控え目で保守的な女性のそれであるというように何度も女性から言われたことがあるのですけれども、実際にはわたしは女性のような集合的な生き方というものは一切していません

ゲームなどで女性のキャラクターを使っていると、わたしは男性の心理は手に取るように分かるので、面白いように多くの男性をコロコロと気を惹いて靡かせることが出来ます

わたしはそのように女性の振りをしながら男性と女性の双方を俯瞰的に眺めて観察しているのですけれども、そうすると女性特有の行動原理というものが、わたし自身の行動原理とは如何に根本的に異なっているということがよく分かるのです

日本は男女の平等性において後進国だなどと言われているのですけれども、男性原理的な社会における女性の登用という単なる表面的な数合わせによって実現されるのは、男性原理的な社会構造を今後も維持していくための詰まらない誤魔化しに過ぎないものと感じられますし、現在のような社会はもっぱら女性の男性化にという形で、本来の女性性を否定していく方向性しか持ち合わせないように感じています

そのような中で我々日本人がその本来の霊性をどのような形で発揮しながら今後の社会作りをしていくのか、ということと、女性性を健全な本来的な形で守りつつ、男性原理的な社会にそのまま組み込まれていくのではない形でどのように社会の中で位置づけられればいいのか、ということは今後の世の中の非常に大きな課題であると感じられます

むすび

はじめの予定とは異なりすっかり長くなってしましました上に、大変入り組んだ分かり難い内容になってしまったかも知れません

ジェンダーに関して精神主義的な観点から日頃から気になっている点についてざっと触れてきましたけれども、センシティブな問題に触れる部分もありますし、わたしが大して識見を持たない分野に関する言及などもあるので、あるいは読者の方に不快な思いをさせたり、不興を買ってしまう部分も多いのではないかと危惧する次第です

わたしとしては偏にこの問題に関して皆さんがお持ちである混乱に対して、精神主義的な考え方を主柱に物事を整理することの一助になればとの考えに過ぎませんが、至らない部分がありましたらお詫び申し上げたいと思います

今回の課題はわたしの手に余る部分もあったのかも知れませんし、この問題に関してわたしがそれを語る適者であるなどとも毛頭思いませんけれども、このような長ったらしい纏まりのない内容ではありながら、幾らかでも皆さんのお役に立つ部分がありましたら幸いです

また、最後までお読みいただけた奇特な読者の方には、御礼申し上げたいと思います

それでは皆様、よい新年をお迎え下さいませ

ジェンダーに関する精神主義的な見方 ~風の時代のガイドライン~” に対して1件のコメントがあります。

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