新春に寄せて 2022年

ご挨拶

皆様、新年明けましておめでとうございます!

今年の初詣におきましては、各地ですっかり例年の賑わいを取り戻せているようで何よりのことと大変嬉しく感じられたところです

ここ九州では初詣は三社参りということに決まっていますので、わたしも元日から翌日に掛けまして、宮地嶽神社、宗像大社、筥崎宮へと参拝させていただきました

また、実に2年半以上ぶりに公共交通機関である電車を利用したり、博多の街中へ出たりということで、2年以上にわたり体調の著しい不調をもたらしていた経過冥王星の出生月に対するスクエアの影響が昨年の11月17日に解けて以来は、徐々に以前の普通の生活を取り戻すことが出来つゝあるところです

政府やマスコミは相変わらず新型コロナの変異種に対する警戒心を解いていないところですけれども、わたしは新型コロナ禍の中において、これまでは危険性がある状況の中で外出して動き回るようなことを一切して来なかったのですけれども、今は特に人中に出ることを躊躇するような気持ちがまったく起きて来ません

わたしはこのような自分の中の感覚というものに対してかなり厚い信頼を持っているのですけれども、今進んで人中に平気な気持ちで出て行かれるというのは、それは既に危険な状況が過ぎ去ったということではないかと理解しているのですけれども、もしかしたらわたしのセンサーが壊れているということも無きにしも非ずですので、是非皆さんご自身の感覚に従って行動していただければと思います

これまでの政府を中心とした今般のパンデミックへの対応というのは、少なくとも我々日本人に対するものとしましては、相当に行き過ぎた過剰な部分があったように感じられますし、新型コロナ禍によって国民にもたらされた悪影響の大半、おそらく8割とかそれ以上の部分は、ウィルスそのものの影響ということではなく、人災だったというように、後年には評価されることになるのではないかと感じられているところです

未だにあたかも故障した警報器の様に、不安を煽り続けるマスコミにしても、きっと後年には手の平を返して政府の行き過ぎた政策への批判に転じるのではないでしょうか

現在の段階において政府やマスコミが喧伝する危険性というものが、一体どれだけの実質を伴ったものであるのか、甚だ不可解な部分が多く、兎に角何でもいいので国民を脅かせる材料を必死に集めてきては、節操もなく危ない危ないと叫びながら、国民の日常生活の回復を妨げることに懸命になっているようにも感じられるところです

ちなみに、新型コロナウィルスに関しましてわたしが自然の摂理から感じて考えていることと、京都大学のウィルスの専門家でいらっしゃる宮沢孝幸准教授が日頃仰っているようなこととは、かなり一致している部分が多く、先生も自然の摂理から物事を考えていらっしゃるのだろうと強く感じられるところです

今年の運勢を気にする前に

皆さんも新年とあって、これから先の一年間の先行きに関して、色々とお考えになられているのではないかと思います

前後数年の社会全体の流れというものを意識した上で、個人としてこの一年をどう生きるのがいいのか、というようなことについて、なるべくはっきりとした指針を得たい、というような気持ちには誰でもなるものでしょう

人生を生きるということはすなわちそれは創造的な行為ですので、あたかも作家が原稿にペンを走らせたり、画家がキャンパスに筆を置いていくようなことと似ていますし、真っ白な原稿やキャンパスに最初に筆を置く瞬間というのは、とても緊張を強いられるものでしょう

作家や画家は創造行為を行うまでに十分に時間を掛けて構想を練るでしょうけれども、いくら綿密に構想を練ったとしても、実際に創造行為に着手する段になれば、無から有を生み出す時に特有の緊張感というものが常に伴ってきますし、その最初の一筆というものに作品の全体というのは結局は強く規定されていくことになります

新年に際して一年の抱負を思い描くということは、作家や画家が作品の構想を練るようなものですけれども、人生というのは芸術的な創造行為よりも遙かに複雑さを持ったものであり、特に自分ではコントロールできない他者や社会からのアプローチという、まったく事前には察知できない様々な出来事による影響を受けるものですから、余程強い信念を持った人でもなければ、あっという間に日々の出来事によって翻弄されてしまい、自分が思い描いていた抱負などはすぐに何処かに見失ってしまうことになり勝ちでしょう

では、どのようにすれば人生の様々な風雨に翻弄されることなく、しっかりと地に足をつけて着実に自分の思い描いた道筋を進んでいくことが可能となるのでしょうか

それは端的に言ってしまえば、心の平安というものを如何に保ち続けることができるか、ということに尽きるのですけれども、それを反対から言い換えれば、如何にすれば日々巻き起こってくる出来事の一々に振り回されることなく済ませられるのか、ということになります

不平不満の多さというのは、ある意味では現代人特有の習性と言ってよく、それは基本的に世の中が民主的で公平であるのが当たり前だという意識が強いために、理不尽に思えるような事柄の一切を甘んじて受け入れるような辛抱強さというものをまったく持ち合わせないためであるからと言えるでしょう

そして、物事を極めて表面的に、短絡的に捉えるのがあまりにも当たり前になっており、外から来る刺激のほどんどに対して、自分が本来持っている筈の権利を主張することに意識の大半が向けられています

皆さんも日常生活の中における自分の心というものが、外界からの非常に多くの刺激の大半の事柄に対して、如何にオートマティカリーにネガティブな反応ばかりを繰り返してばかりいるか、ということについて、少し冷静になって考えて見ればよくお気づきになられるのではないかと思います

そして、そのように慌ただしく自分の心がさざ波を立てることの原因を、一方的に外から自分に与えられる刺激のせいだと思うばかりで、実際のところは自分の心を錬るという習慣、すなわち自分の心を制御する習慣を失っていることに主因があることに思い至ることが出来ません

江戸時代の大変有名な禅僧である沢庵禅師が将軍の兵法指南役であった柳生但馬守に示した言葉として、心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心許すな』という道歌があります

心というものは、それを制御する習慣を怠れば、すぐに意馬心猿と形容されるような状態に陥ってしまい勝ちなものであり、とりわけ現代のように物事の表層的な上辺の部分だけを見て生きているような時代におきましては、表面的にはどうにか取り繕えてはいても、心の内では常に屋敷の中で躾のされていない野猿が目まぐるしく暴れ回っているような状態になり勝ちであり、そうした意味のないことで、貴重な自身の活力の大半を無駄に消費して疲弊を来してしまっていると言えるのではないでしょうか

人生をよりよく生きるためには、何としても人間の霊性に付属する能力である意志の力というものを顕在化させなければなりませんけれども、そのためには、心を澄んだ穏やかな状態に保っておかなければなりません

そして、心が澄んだ穏やかな状態に保つためには、心をネガティブな反応をしないように躾けていくことが必要となり、常に心が感謝と喜びに満たされているように心掛けることが必要となります

しかし、怒りの感情が湧いたときには、自分の正当性と相手の不当性とをどんどん強調しながら考えて、怒りの炎に薪をくべるようなことばかりしてしまいますし、大抵はそのように湧き起こってきた感情をより煽り立てるようなことばかりをしてしまい勝ちです

心というのは自分が受け入れた刺激に対して、次々と何か類似的なイメージを発展的に連想させる機能というものを持っていますけれども、それは心というものに自然に備わっている固有の能力であると言えます

心にそのような連想によってイメージを発展させる能力が備わっていればこそ、我々人類は様々なものを発明できたり、工夫によって新たなものを生み出せたり、その他様々な価値ある創造的な行為をすることができる訳です

にも関わらず多くの人々は、この心に備わっているその様な有り難い特性をネガティブな方向にばかり活用していて、それは本能的な欲求心から独り善がりな妄想を繰り広げたり、やたらと人や世の中を意味もなく批判して憂さを晴らしたり、その他にも愚にもつかない不平不満の類いを並べ立てて自分を正当化しようというような方面にばかりに役立てていて、結局のところそれらのことによって自分を卑しく詰まらない存在に貶める結果に陥っています

そのように不躾な心にしたい放題にさせておくことで、大切な活力をどんどん無駄に浪費させるとともに、本来であれば麗しい花園たらしめるべき心の中をしっちゃかめっちゃかに荒してしまい、役にも立たない不平や不満というゴミを一杯に撒き散らかした状態にしてしまっています

このような状態であれば、運気の低調な時には一層心を乱して益々運気を下げていくことにしかなりませんし、また例え好調な運気に恵まれたとしても、そうした貴重な期間を有意義に活かすことは叶わないことになってしまうでしょう

ですから、この新年に際して一年の運気などが気になったりされるでしょうし、一年の抱負を抱いたりなされるでしょうけれども、こうした最も大切な基本的な事柄というものをよく心に留めて、是非とも清々しい年の初めを過ごせるよう努めていただければと思います

そのような人が増えれば、世の中はそれだけ明るく清らかになる訳ですから、こうしたことは人が最初に努めるべき立派な社会奉仕でもある訳です

煩悩は悟りの資本

若い時分に読んだ松原泰道さんという大変有名な臨済宗の師家(しけ※禅宗で見性して悟りを得て法を正式に受け継がれた方)のご著書を読んだ中に、次のようなエピソードがあったのを今でもよく覚えています

ある在家の居士(こじ※出家しないまま仏道を歩んでいる人)の方が、「自分は長年座禅を修行したので遂にすっかり煩悩をなくすことに成功しました」といったような、非常に思い上がったようなことを仰ったそうで、禅宗ではこういうのを野狐禅(やこぜん)とか生悟り(なまざとり)などといって、本当の禅とは似て非なる邪禅として厳しく非難しています

それに対して泰道師は、「それは本当にご愁傷さまでした」というように返したそうです

相手の方は当然、「一体それはどういうことだ」と慌てながら怒ります

それに対して泰道師は親切にも、「煩悩というのは悟りの資本ですので、それをなくしてしまったあなたはもう悟ることができなくなったので、それで気の毒でご愁傷様と言ったのです」といったように返したとのことです

我々一般の人というのは、悟りというものに対してひどく勘違いをしているところがあって、そもそも自分が迷っているということにも真(芯・心)からは気がついていませんし、悟りを得たらスーパーマンのような超越者になれるというような幻想を抱いています

それは、普段の自分の心の状態を基準に、そこからとんでもなく高い境地に至れるように思いなしている訳ですけれども、実際は現在の状態がすっかり迷いの中に埋没していて、修行によって心についた汚れや垢を落とすことで、本来の心の状態に至るだけのことな訳です

つまり、悟るというのは今の迷った状態から本来の普通の状態に至ることであり、その状態を永遠に保てるよう努力を継続し続けることなのですけれども、それを、今の迷った状態を普通の状態と勘違いして、そこよりもっと高い何か特別な境地に至ることができるのではないか、というような妄想と取り違えている訳です

わたしは若い時に禅関係の色々な書物を読んでいて、それで気づいてしまってがっかりしてしまったことがあります

それは、凡人が悟ってもほぼ凡人のままであるのに過ぎない、ということです

我々が等しく知っているような歴史上の非常に名高い名僧というのは、それぞれが普通に生きていてもはじめから非常に才覚がある天才と言われるような方々ばかりな訳です

悟りを得る以前から様々な高い能力を磨いて得ていた人であればこそ、悟ることによってより一層、自由自在に天分を発揮することができるようになり、それで世の中に対して非常に大きな影響を与えることができたということに他なりません

そのような歴史上の人物を見て、我々は悟りを得たらスーパーマンになれるのだと勘違いしてしまうことになる訳なのですけれども、元々才能を持っていない人が悟ったからと言って万能になれるというようなことは決してない訳です

勿論、悟りを得れればそれに越したことはないのですけれども、凡人が凡人のまま悟ったところで、周囲に与える影響などたかが知れている部分があります

わたしはそういうことに早くに気づいてしまったので、それまでは何とか今世のうちに悟りを得なければという様な非常に焦った気持ちがあったのですけれども、あまりそういうことに意味はなく、人間として生きる上での普通の努力をしながら、その上で心を正しくする心掛けを忘れないようにしていればそれでいいのだ、というように考え方が改まりした

この「煩悩は悟りの資本である」ということを引き合いに出しましたのは、つまり、人として自分に与えられた役割を誠実にこなしながら、気長に心を清めつつ穏やかな状態に保って、次元の低い本能的な欲求心の方に心の手綱を握らせてしまっている状態から、少しでも増しな状態でいられるように心を躾けることに気長に努めていくということが、人生において何よりも最初に意識していなければならない大切なことであるということを言いたかった訳です

そのような心掛けがなければ、運勢が良かろうと悪かろうと、結局は自分の心に振り回され続けているだけの空しい人生を無駄に送るだけということになってしまします

運勢が良いか悪いかということを気にされる前に、まずはその辺のところをしっかり抑えながら、一年の抱負を思い描いていただければよろしいのではないかと思う次第です

最後に、わたしが若い時分に非常に好きになった時宗の開祖である鎌倉中期の高僧である一遍上人の語録に出てくる道歌の一部を紹介しておきたいと思います

『とにかくに まよふ心を しるべにて 南無阿弥陀仏と 申(もうす)ばかりぞ』

これは松原泰道師が煩悩は悟りの資本と仰ったことゝ同じことですけれども、人間というのは迷うものであるからこそそこで修養をする必要というものが出てくる訳です

熱心に瞑想などに取り組んだりした結果として、心の平静さを保つことに対する執着心が生まれてしまうことがよくありますけれども、そうしますと心が乱されるような状況に対して強い嫌気が差してきたりしてしまうものです

人間というのは煩悩の塊なのであり、心というのはとかく迷うものと心得ていれば、それらが萌してきた度に、それを相手にせずにただふいと空じていけばよいだけの話ということです

心の中に湧き上がってくるさざ波に対して、それらを一々相手にしてしまうと、感情というのはどんどん盛んにじゃれついて来て絡み付いてこようとするものなので、南無阿弥陀仏でも何でもいいのですけれども、そういう時に注意をそらす何らかの方法を持っていると良い訳です

あまり神経質になったり拘りなどを持たないようにして、ネガティブな気分が生じてきたら、これはよい修行の機会に恵まれたとむしろ喜んでふいと空じてしまえればよいのだということになります

『みな人の ことありがほに おもひなす こゝろはおくも なかりけるもの』

人々は自分の心に起きた感情に実体があるように思い込んでいて、その都度怒って赤くなったりしょげて青くなったりしていますけれども、心が生じさせるものに実体などはありません

わたしも以前、ひどく感情に囚われてしまったことがあり、でもその日の夜に習慣で瞑想していたら、身が震えるほどの物凄く強い感情だったにも関わらず、知らぬ間にすっかり消え去ってしまっていることにはたと気づきました

その時に、ああ感情というのはあんなにも激しく自分を突き動かしてくるものだけれど、実際には実体など何もない幻のようなものに過ぎないのだな、と深く感じ入ったことがあり、それ以来、自分の心に生じて来る感情を一々相手にすることが馬鹿らしくなってしまい、あまり感情に囚われることが少なくなった、というようなことがありました

 

ということで、今日はほんの新年のご挨拶程度の気持ちで日頃思うことを徒然に書き綴ってみました

本年もよろしくお願い申し上げます

 

 

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