風の時代の信仰について ~風の時代のガイドライン~

はじめに

今回は少し話の趣を変えまして、時代が風の時代へ移行していくに際しまして、信仰に関する事柄を中心に考えて見たいと思います

現在のお寺を中心とする先祖供養の形といいますのは、かつての封建時代に武家政権と密接に結びついていた寺院勢力が社会体制に組み込まれる形で成立したものと考えられます

日本人は宗教に関しては比較的ファジーなところが強い民族ですので、常に複数の信仰対象を同時的に受け入れて崇拝している訳ですけれども、現在のように主に供養に関しては仏教が中心となっておりますのは、特に江戸時代を中心に幕府が国民を効率的に管理する都合の上で、上から押しつけられたものと言ってもよい側面があるのではないかと思われます

つまり幕府が租税の徴収などを的確に行う必要上などから、その役割を寺院に一任したということの名残が、現在まで形式的に踏襲されている面がある、ということになります

宗門人別改帳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)は、江戸時代の中期に宗門人別改で宗門改帳人別改帳が統合された民衆調査のための台帳。現在で言う戸籍原簿や租税台帳である。宗旨人別改帳とも呼ばれる。名義変更が遅れないかぎり、宗門人別改帳の筆頭者は検地帳の土地所有者と記述が一致する[1]

江戸時代、幕府はキリスト教禁止令を発布し、やがて寺請制度を確立させ、民衆がどのような宗教宗派を信仰しているかを定期的に調査するようになる。これを宗門改と呼び、これによって作成された台帳を宗門改帳と呼ぶ。

一方、安土桃山時代に豊臣秀吉によって兵農分離が行われると、領主は城下町に置かれることとなり、そのため所領を詳しく調査する必要が出てくる。特に夫役に関して、負担可能な者を調査する名目の人別改が行われるようになり、これによって作成された台帳を人別改帳と呼ぶ。これには年齢や家族構成が記述された(宗門改帳にはこれらの記載は無い)。他にも家畜の所有数を調べる人畜改などがあり、これら人別改は必要に応じて不定期に行われていた。

寛文5年(1665年)に幕府が諸藩にも宗門改帳の作成を命じると、人別帳に宗旨を記述するという形で宗門改帳が作成されるようになり、これが宗門人別改帳となる。寛文11年(1671年)に幕府はこれを法的に整備し、宗門人別改として定期的に調査を行うように義務付ける。後年になるとキリシタン摘発の激減もあって、宗門人別改帳は戸籍原簿や租税台帳の側面を強く持つようになっていく。

現在では家族のあり方や個人のあり方が昔とは大きく異なってきました上に、戸籍や租税などは別に寺院などに頼らなくても管理されていますので、寺院勢力というのはそのような意味においては、その本来持っていた存在理由を根本のところで失っている訳です

そして実際に仏壇やお墓の管理をどうするかということに関しましては、現在様々な新しい形に移行する流れがある訳ですけれども、風の時代という数百年レベルの時代変化の時に際して、直近の江戸時代に成立し、国から押しつけられたとも言えるようなものを土台に考えるのではなく、いっそのこと更に古い時代の先祖崇拝のあり方に回帰するということの検討も、極めて大きな価値を持っているものと考えられます

そのようなことを申しますと、お寺さんは非常に困ったことになる訳ですけれども、宗教というのは常に時の政権の都合でその勢力を交代させてきたものであり、明治時代にも廃仏毀釈ということが行われて、寺院から神社を分離させる流れがあった訳ですけれども、そもそも日本に仏教が導入された際にも、本地垂迹という考え方の下に、神道の神様を仏教の仏に入れ替えるということをしていた訳ですから、お寺さんも今度は反対に本尊を仏教の仏から神道の神様に戻せばよい、ということになりますし、実際に反本地垂迹という考え方も歴史の中では登場していました

本地垂迹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。

反本地垂迹説

鎌倉時代中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。神道側の仏教から独立しようという考えから起こったものである。伊勢神宮外宮の神官である度会氏は、神話・神事の整理や再編集により、『神道五部書』を作成、伊勢神道(度会神道)の基盤を作った。伊勢神道においては、現実を肯定する本覚思想を持つ天台宗の教義が流用されて神道の理論化が試みられ、さらに空海に化託した数種類の理論書も再編され、度会行忠・家行により体系づけられた。

反本地垂迹説は、元寇以後の、日本は神に守られている「神の国」であるとする神国思想のたかまりの中で、ますます発展していった[2]

南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに同調する者が現れた。慈遍は『旧事本紀玄義』や『豊葦原神風和記』を著して神道に改宗し、良遍は『神代巻私見聞』や『天地麗気記聞書』を著し、この説を支持した。吉田兼倶は、これらを受けて『唯一神道名法要集』を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。

このような話は当初書こうとしていた内容とは少し違うものなのですけれども、今はちょうどお盆を過ぎたばかりの時期であるし、来月下旬には秋分も控えていますので、今、皆さんにとっても天界にとっても必要な内容というのが降りてきたのではないかと感じるところです

私事でも、わたしが相続して長引くコロナ禍もあってお参りにも行けずに持て余していた東京の墓について、兄弟から跡取りもできたので譲って欲しい旨伝えて来ましたので、自分の祖先崇拝に関して、神道に宗旨替えをしたいと考えていた私にとっては、非常に都合の良い話と思い快諾したところです

わたしは毎月、現在地の産土神社としている宮地嶽神社に朔日参りを欠かさずにしていますので、こちらで先祖供養も合わせてさせていただければ、実に都合が良く願ったり叶ったりのこととなりますし、わたしの父方の祖先はずっと九州であり、祖父もこの福岡で亡くなっていることも考えれば、すべてが予定調和的な流れと考えることができます

ちなみに、わたしは東京で生まれ育っていて、関東やその周辺の主立った神社へは大抵足を運んでいるのですけれども、明治以降のお寺と神社の棲み分けというのは関東では比較的厳密になされているという印象を持っておりましたので、福岡に参りますと、直方市の多賀神社や北九州の八坂神社などには境内に隣接して大きな納骨堂があったりして、大変驚いた記憶があります

宮地嶽神社でも霊園を経営しているようですし、その他の神社でも納骨堂を持っているケースが複数見つかります

調べみますと神社に納骨堂を設ける例が増えているというようなニュースも見かけたりしましたので、そのようなケースが最近になって増えて来ているのかも知れません

ですから、家代々の墓地を相続するような立場ではない方々が新たに墓地を持たれるような場合につきましては、お近くの崇敬する神社などを選択できるケースもあるかも知れませんので、ご検討されてみてはいかがかと思います

神道の場合ですと先祖供養ということが、日本において古来からの固有の祖先崇拝、つまり人というのが神々の直接的な子孫であるという自然発想的な宗教的観念と深くつながってくることになりますので、より精神主義的な傾向を強く持った宗教的文化として、風の時代にはより相応しいものではないかと感じられるところです

※後日補記
先祖供養に関しまして、宗旨替えのこと等、少々気安く書きすぎたかなと後日になりまして少しく反省をしているところです
日本人であれば古来からの固有の信仰方式に帰った方がよいという考え方自体はまったく変わりませんけれども、祖先に関してあまり自己中心的に軽々しく考えることも問題があるなと思い返しておりますので、皆様におかれましても、そうした点にご留意いただけますようよろしくお願い申し上げます

神社参拝・パワースポットに関する注意点

さて、本来書くつもりであった内容に移りたいと思います

スピリチュアル・ビジネスオカルト・ビジネスといったものが、この不安定な混迷を極める時代にあって、益々隆盛を極めている感が強くあり、皆さんへのネガティブな影響について気になっていたところです

そこで、神的なものに向き合うに際しての基本的な注意事項につきまして、日頃から自分が気づいたり気をつけたりしていることの延長上で考えてみたいと思います

元々信仰心をお持ちで、若い時分から自然に神社仏閣へと足が向かうような方々と言いますのは、実はそれなりに慎重に参拝先を選んでいて、その時の自分に縁があるとか、呼ばれていると感じるところ以外には、やたらに足を向けるということは少ないのではないかと感じます

そして、確かに貴い神霊的存在が感じられる、そして自分と霊線が通じているとはっきり感じられる場合を除きましては、本格的に自分の霊的な蓋を開いて何事かを神霊に託すというようなことはしないものと思います

何故かと言えば、何らかの霊的存在からの介入を自分に対して許すということの裏には、非常に大きなリスクが潜む可能性があるということを、そういう方々は肌で感じて知っているからです

ですからわたしの場合も、馴染みの薄いような神社などであれば、型どおりの儀礼的なご挨拶に留めて、神社の弥栄と氏子地域の安全や氏子さんの幸せなどを祈念することに留めます

そのように何度かサウンディングのようなことをしているうちに、その神社との縁がパッと開ける感覚が得られるまでは、そうした慎重な姿勢を崩すことはありません

もっとも、歴史的に地域や国の崇敬を集めるような神社であれば、多少は安心は出来るのですけれども、それでも神霊存在からの介入につきまして、やたらにそれを許すという態度はやはり問題がある訳です

例えば、あなたご自身が滅多に人には話せないような非常に重要な問題を抱えているような場合に、あなたは自分と縁もゆかりもないような人にホイホイと相談をしたりはしないでしょうし、もし誰かにあなたの一身上のことを相談するとなれば、あなたはある程度その人の影響下に入ることになる訳であり、その人の指示を少なからず受け入れなければならなくなる、つまり相手から自分への介入を許すことを前提としているということになります

またそのような状態にある人につけ込む目的で親切心を装って近づいて来て、自分の意のままに利用しようとするような存在も多くあるので気をつけなければなりません

ですから、大切なことを相談するような場合には、誰に対してなら本当に安心して相談できるか、ということを最初に思い悩むことになるのではないでしょうか

物事の解決方法というのはひとつだけではなく、様々な方向からのアプローチが可能な訳ですけれども、やはり自分にとって安心のできる、馴染みやすいアプローチの方法というものがあり、そのような解決のアプローチ法を示してくれる相手が相談相手としては相応しいのだということになります

神社の神様と言いますのも、そもそもの自分の霊的系統というものがあり、元々縁の強い神霊の系統というものはある程度決まっているようなところがあるでしょうし、また、抱えている問題に対して、受け入れやすい方向から介入してくれる神霊と言いますのは、ある程度は限られてくる訳です

世の中に実に多くの様々な神社と神様が存在するということも、そうしたことの裏返しであると考えることも出来る訳ですし、そのような数多いらっしゃる神霊の中から、わざわざどこかを選択するということは、例えばそれが人の場合であったと考えて見れば、思いも掛けずある人が自分のことを深く信頼し、敢えて選んで大切な相談を持ちかけて来てれたと思えばこそ、自分の貴重な時間や労力をわざわざ割いてでも、その人の力になってあげようと思うものではないでしょうか

反対に、やたらに至るところで相談やお願いをすると分かっている人が自分のところにも相談に来たような場合に、そういうことが事前に分かっていれば誰も真摯に取り合おうとは思わないでしょう

神霊にしてもそれは同じことでしょうし、第一すべて見透かされている訳ですから、やたらに色んなところでお願い事をしても叶う道理はない訳です

そうしますとやはり、自分にとって縁のある産土神や氏神などを中心にして、日頃から崇敬の念を欠かさずに神社の神霊との霊線を太くしておくという普段からの心掛けがとても大切であるということがか分かります

願い事の中身

続きまして、神社などで何をどのように祈ればいいのかということですけれども、家族のことや知人や地域や国のことなど、自分の力が直接的には及びにくい物事に関しましては、特に問題はないのですけれども、肝心なのは自分自身に関する願い事の場合です

基本的には、自助努力をする気のない事柄に関しては、神社の神霊などに加護をお願いするようなことはしない方がよいと考えています

例えば、あなたの下で働いている人がいると仮定してみて、その人が普段仕事に対してろくに真剣に取り組むような姿勢が見られず、極めてルーズに職場で過ごしているような人だと仮定してみて下さい

その人がある時あなたに対して、「ねえねえ課長、そろそろもうちょっといいポジションに昇格させてくださいよ」とか「もっと給料上げてもらえませんかねえ」とか言って来たとしたら、あなたご自身であれば一体どのような反応をされると想像されるでしょうか

きっと、「ふざけんなボケがー!だったらもっと仕事に精出せやー!」と怒り心頭に達してしまうのではないでしょうか

神霊はそのように怒ったりはしないかも知れませんけれども、大愛から本人に反省を促すようなことを戒めとして与えることにはなるでしょう

ですから、自分に関する願い事というのは基本的には「必ずこうします」とか、「こうなれるように頑張ります」、というように誓いのような形のものでなければなりませんし、既に努力する姿勢を持っているような事柄に留めておいた方が無難と感じています

例え話としまして、おじいちゃんのところに孫が遊びに来て、孫が野球を好きで頑張っていると聞いて、新しいいいグローブを買ってくれたとしてみましょう

次に孫が遊びに来た時に、孫が新しい野球道具に発憤してものすごく努力して、補欠からレギュラーになれたよ、と報告してくれたとしたら、おじいさんは大いに喜んで、それでは今度はいいスパイクを買ってあげよう、とか、野球でもっと成績が上がるようになったら、今度はもっといいコーチのいる上位チームを紹介してあげようとか、成果を上げるごとに褒美もどんどんスケールアップしてくることになるのではないでしょうか

おじいさんはもう自分では野球などすることは出来ませんので、孫が自分の代わりに頑張って活躍してくれることが、この上もない喜びとして感じることになります

この世の次元に直接介入する手段を持たない神霊も、立場的には同じようなものではないでしょうか

自分の代わりに様々なことをこの世で実現してくれる人間というのは、神霊存在にとっても不可欠な存在ということであり、こうした観点から考えますと、人というのは神の願いをこの世で実現するために存在しているのだと言うことができます

また別のケースとして、おじいさんが孫にお小遣いをあげて、次に会ったときに、その孫がもらったお小遣いでお菓子を買いまくって食べた挙げ句に虫歯だらけになっていたとしたら、そのおじいさんは今度お小遣いをせがまれても、出し渋ることになるでしょう

神霊の場合はちゃんと先が見通せますので、自分で努力する意思のないだらしのない人間には、戒めを与えることはあっても、甘やかすようなことは絶対にしないと考えなければなりません

ですからわざわざ自分から戒めを受けるために、虫の良いようなお願い事をするというようなことは、はじめからしない方が良く、自分としても誠意を示せるような事柄に限った方がいい訳です

また、神霊というのはそもそも自己中心的で利己的な人間に対してはあまり関心がない、ということを意識しているということも大切なことです

この人によくしてあげたら、きっとその周りの人や世の中もよくなっていくだろう、と感じさせるような人にしか神霊の関心は向かないと考えた方がいいかも知れません

そうではない普通の人々が参拝することに意味がないということでは決してありませんけれども、自分だけのことを考えている人の願いを叶えても、その人ひとりがよくなるだけなのであれば、地域や国などの広いレベルでの弥栄を願っている神霊から見るとまったく意味がないということになります

将来的に周囲の多くの人を助けたり幸せにしたり、世の中を明るく発展させるような可能性のある人に、神霊の意識というのは集中されている、というのは当然のことだと皆さんはお思いにならないでしょうか

ですから、少なくとも自分の身近な家族や知人、自分の住んでいる地域とそこに住む人々に関するお願いを先ず最初にする、ということが非常に大切だということになります

日常生活での注意

神社参拝をして心身共にすっきりと心地好くなれたとして、そうしたいい気分をどれくらい日常生活の中で保てるのか、ということも非常に大切になってきます

神社などの神域でスッキリできれば、日常のストレスからも一旦は解放されることにはなるのですけれども、それが極めて一時的な影響しか与えないのであるとすれば、人生全体に影響を与えるほどの力とはならないと考えられます

また、神域でリフレッシュするという習慣に対して依存的になり、普段、自分の精神状態を自律的に好ましい状態にコントロールすることがほとんど出来ないような場合、その人は神霊にいただいたお陰を穴だらけのザルで受けて持ち帰っているようなことになります

例えば人に何かを差し上げるような場合に、相手がそれを粗末にする、あるいはすぐになくしてしまうということがあらかじめ分かっていたとしたら、その人に価値のあるものをあげようとは誰も思わないでしょうし、それと同じことが神社などのお陰についても言えることになります

反対に、自分で大したものではないと思いながら人にあげたものを、その人が非常に貴んで大切にしてくれていたと後で分かったら、あなたは非常に感激して大きな喜びを感じるでしょうし、その人に対して、もっと価値のあるよいものをあげようと思うのではないでしょうか

ですから神社などでいただいたお陰を如何に大切に保って、決してそれをなくしてしまわないようにと心掛けるということが非常に大切なことになります

そのためには、自分の精神状態をある程度はいつも清らかで健やかなものとして保っているための努力が常に必要となります

一番心配されることは、やたらに神域やパワースポットなどへ行き、そうした神域に対して依存的になり、神霊的存在から何かを受け入れる入口の蓋が緩んで開きっぱなしになっている一方で、肝心のお陰をザルのようにこぼしてしまっているような状態にいると、自分が望んでいたものではない霊的存在からの介入を不用意に受けるようになり兼ねないという、非常に危ない状態に陥り兼ねません

ではどうすればお陰をよく保つことができるのかといいますと、それは日常生活の中で常に、自分を生かしてくれている宇宙や自然の恵みに対する感謝の気持ちを絶やさない、ということに尽きるでしょう

朝目が覚めた時、そして食事を摂る時、そして夜眠る時などに、宇宙とのつながりを感じてそれに感謝する、ということがもっとも基本的なこととしてあり、最低でもこの3つのタイミングでは、自分を生かしてくれているものへの感謝の気持ちを抱く習慣が大切になります

もしこれまでそのような習慣をお持ちでなかった方は、言葉はそれぞれお好きなもので構わないので、上に書きました最低3つのタイミングでは、天地のみ恵みに感謝します、今日もみ命をいただきまして有り難うございます、というような内容を、宇宙に対してもいいですし、好きな馴染みのある形で唱えるか念じるかしていただくことをお勧めしたいと思います

自霊拝について

そもそも我々自身が霊的存在としての本体を持つ存在であるということの自覚が極めて薄いかあるいは欠如しているような状態におきましては、自分とそれら神霊存在との間に、決して埋めることのできない非常に大きな隔たりが存在していることとなり、神霊存在との間に越えることの出来ない意識の壁を築いてしまっていることになります

お陰目当てでその時は一旦信じている積もりになって一生懸命祈ったとしても、普段の自分が神霊存在に連なる本質を持つ者であるとの明瞭な自覚を持つことがないのであれば、それは現世利益を得たい一心から一時的に自分自身を欺いて利己心から祈りを捧げているだけのことに過ぎないということになりはしないでしょうか

利害損得に敏感で、本心とはかけ離れたような言動を平気でできる人というのも、世の中にはままいらっしゃるものですけれども、そこには誠実さというものが微塵も感じられないものではないでしょうか

そこで、自身の本質が霊的なものであるということを自覚するのに最も適当な行いとして、日本古来から神道で行われている自霊拝というものを行うことが必要となります

正式な自霊拝そのものでなくてもいいので、とにかく自分の中の霊的な部分を明瞭に意識する機会を設けることが必要です

朝目覚めた後には、まず最初に顔を洗うと思いますけれども、その時に鏡に映る自分の顔をよく確かめたくなるということは皆さんにも普通にあることかと思いますけれども、もっぱら肉体的なコンディションが気になって確認をしているのだと皆さんは思われているのではないかと思います

しかし、寝ている間に人間の精神的な部分(アストラル体と自我)は肉体(肉体とエーテル体)を抜け出して精神世界に帰っていて、それが朝目覚める時には戻って来るのですけれども、自分の霊的な部分が肉体上にきちんと戻ってきているかどうかというコンディションを確かめたい気持ちが潜在的にはあるのではないかと感じています

睡眠と目覚めという2つの異なる状態を通じて、日によって肉体と精神のバランスというのは結構変わってくるものですけれども、睡眠時の状態から覚醒時の状態への切り替えがスムースに行かないようなこともままあるものです

何れにしましても、この朝起きて洗面所で顔を洗ってから自分の顔をしげしげと確認するタイミングほど、自分の中の霊的な部分を意識するのに最適なタイミングはないということが言えるのではないかと感じています

その際に鏡の中の自分を通して、その背後にある自分の霊的な部分に対して挨拶をするような習慣が、最も簡単な自霊拝のやり方として考えられるのではないか、と感じています

例えば皆さんが朝職場に赴いたときには、同僚や上司などに必ず挨拶をすると思います

その時に上司は、普段から真面目に勤務して信頼のおける部下に対しては、「ああ○○君、今日の午後上層部の会議があるから準備をお願いね」とか、「今日は一緒に上得意のA社に行ってもらえないか」とか、大事な要件があれば必要な仕事上の指示やアドバイスなどをしてくれるでしょう

ですから同じ様に、あなたが自分の霊に対して朝きちんと挨拶をすれば、あなたをリードしサポートしてくれている霊的な部分が、その日あなたにとって必要な指針をアドバイスしてくれ導いてくれる可能性が高まることになるでしょう

しかし、あなたが怠惰でだらしないような部下であったなら、上司はあなたにそもそも重要な要務など決して任せたりしないし、今日も面倒起こさなきゃいいけどな、と思われるのが落ちでしょう

そのようにもし、素直さと謙虚さと誠実さというものが備わっていないのであれば、まずは自分の霊に対して最低限恥ずかしくない人間となれるように努力するところからはじめなければなりません

一霊四魂

自分の霊を拝むとか挨拶すると言っても漠然としている方もいらっしゃるかもしれませんけれども、自分の本霊、真我、ハイヤーセルフなど、馴染みのもので良いと思いますので、鏡の前で軽く手を合わせて自分の本霊などに対して「本日もよろしくお願いいたします」と軽く頭を下げるだけでもいいでしょうし、後は一礼一拍手ですとか二礼二拍手をして、お好きな祝詞などを唱えるというのでもいいでしょう

しかし、あまり儀礼的に凝ったことをしますと、仰々しいことをしたという達成感は得られるかも知れませんけれども、それを習慣として後々継続することが難しくなってしまうようでは元も子もありませんので、まずは簡便なやり方できちんと習慣づけるところからはじめるのがよいのかも知れません

また、自分の霊的な部分としてご存じのように一霊四魂という考え方もあり、その説明に関しましてはWikipediaに譲りたいと思います

一霊四魂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
概要

一霊四魂説のもっとも一般的な解釈は、神や人には荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま、さちみたま)・奇魂(くしみたま)の四つの魂があり、それら四魂を直霊(なおひ)という一つの霊がコントロールしているというものである[1]。和魂は調和、荒魂は活動、奇魂は霊感、幸魂は幸福を担うとされる[1]

一般に、「一霊四魂」は古神道の霊魂観として説明されるが、実際には幕末以降に平田篤胤の弟子である本田親徳によって唱えられた特殊な概念であり、古典上の根拠は一切なく、明治以降に広められた特殊な霊魂観であり、神道辞典などには一霊四魂という名称さえ掲載されていない。

(中略)

近世になって、一霊四魂は本田霊学系の後継者によって、古神道の霊魂観として重視され、本田親徳や大本教の出口王仁三郎、また出口王仁三郎の弟子らによって、構造や機能が詳述されていくこととなる。

一霊四魂の構造

荒魂には「勇」、和魂には「親」、幸魂には「愛」、奇魂には「智」というそれぞれの魂の機能があり、それらを、直霊がコントロールしている。簡単に言えば、勇は、前に進む力、親は、人と親しく交わる力、愛は、人を愛し育てる力、智は、物事を観察し分析し、悟る力である。

これら4つの働きを、直霊がフィードバックし、良心のような働きをする。例えば、智の働きが行き過ぎると「あまり分析や評価ばかりしていると、人に嫌われるよ」という具合に反省を促す。つまり、この直霊は、「省みる」という機能を持っている。

悪行を働くと、直霊は曲霊(まがひ)となり、四魂の働きは邪悪に転ぶとされる。

四魂の機能

勇 - 荒魂(あらみたま)
「勇」は荒魂の機能であり、前に進む力である。勇猛に前に進むだけではなく、耐え忍びコツコツとやっていく力でもある。行動力があり、外向的な人は荒魂が強い。

親 - 和魂(にぎみたま)
2つ目の魂の機能は和魂であり、親しみ交わるという力である。その機能は、1字で表現すれば「親」である。平和や調和を望み親和力の強い人は和魂が強い。

愛 - 幸魂(さきみたま、さちみたま)
3つ目の魂は幸魂であり、その機能は人を愛し育てる力である。これは、「愛」という1字で表される。思いやりや感情を大切にし、相互理解を計ろうとする人は幸魂が強い人である。

智 - 奇魂(くしみたま)
4つ目は奇魂であり、この機能は観察力、分析力、理解力などから構成される知性である。真理を求めて探究する人は、奇魂が強い。

わたしの場合、頭の中に色々なアイデアが止め処なく湧いてくるようなことがあり、それが激しい時には四六時中常に頭を様々な考えの発展に費やすことになり、寝付きにくくなったり、疲れてきたりしてしまうこともあります

こういう風に文章を書いていたりしても、時間の経つのを忘れて食事を摂り忘れたり気づいたら朝になっていたりということが頻発してしまいます

そういう時に、「こんなに次々に際限もなく色んなアイデアを自分に送ってくるのは、一体誰なんだ」と強く不満に思うことがあり、そうするとふっと自分の顔が浮かんでくるのです

その自分の顔は自分であるようでいて少し雰囲気が違っていて、それは自分の奇魂だとすぐに気づきます

しばらく経つとそのことは忘れてしまっていて、また同様の問いかけをして、また自分の顔がパッと浮かんで、ああそうか、自分の奇魂か、というようなことが何度かありました

そのような状態になってしまうのは、自分の意識が自分の奇魂と同化し過ぎているということを意味すると考えられますけれども、四魂のレベルというのはそのようにそれ自身をコントロールしたり他の魂とのバランスを取ったりはできないものであり、四魂を統括する一霊である直霊が非常に大切ということになります

よく物事を本当に理解するというのは、それを実際にできるようになるということだ、というような事が言われますけれども、通常の理解というのは奇魂による理解であり、いくら知的に物事を覚(さと)ったところで、奇魂には他の四魂を動かす権能はありませんのでそれが実際に行動に反映されることはなく、あくまでも奇魂の知的・理性的な世界の中だけのことに留まります

しかし、一霊である直霊による理解というのは、覚るではなく悟るという一段階上のレベルにおける理解であり、直霊は四魂を統括する立場にいるので、直霊が悟った内容というのはそれを速やかに行動に反映させることができるということになります

また、四魂の働きは人によってその何れが優位かが異なっていて、大抵は最も優位なものが1つあって、更にもう一つくらい次に強く働いているものがあるという感じでしょうか

そのように自分の普段の活動に際して自分の中の霊的な部分というのは常に大きく関与してくれているのだ、ということを自覚していることが大切になります

物を考えるというのは明らかに奇魂の働きでしょうけれども、実際に考えをこのように書くという段になりますと、結構根気や集中力も必要となってきますし、そういう意味では荒魂の力も必要となりますし、読まれる方に得るものがありますようにと思う部分では幸魂が関係しているというように、相互に連携して補完し合いながら働いてくれていることになります

三種拝詞(みくさのはらへことば)

自霊拝ということをネットで調べたりすると、「三種拝詞(みくさのはらへことば)」というものが出てくるかと思いますけれども次のようなものです

天津祓 吐菩加身依身多女(とほかみ ゑみため)
国津祓 寒言神尊利根陀見(かんごんしんそん りこんだけん)
蒼草祓 波羅伊玉伊喜余目出給(はらひたまひきよめたまへ)

上から天・地・人と祓う三種の拝詞ということです

一番下のものは説明が要らないかと思いますけれども、真ん中の国津祓いは易の八卦である「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」を並べ替えたものです

そして一番上の拝詞は古代から継承されている亀卜に関係する呪文とされています

2.吉田神道~兼倶による創出~

(略)

この三種太祓は殊に重要な祓えであり、神職の葬儀の際などにも用いられる。三種
太祓の呪文は、
八字祓といわれる「トホカミエミタメ(遠つ神恵み賜え)」という呪文であり亀
卜などに使われるもので古代から伝承されているもの
② 『周易』八卦の字音に由来する「寒言神尊・利魂陀見」
③ 「はらえたまえ、きよめたまいえ」という略祓(中臣祓)で、陰陽道に由来する
などである。③は、陰陽道では「はらい申す、清め申す」と自力祓であったものを、
吉田神道ではこれを正して「はらえたまえ、きよめたまいえ」としたと説明している

(略)

「とおかみえみため」

亀卜(きぼく)を行なう際に、亀甲(きっこう)の裏に刻んだ線の名。「と・ほ・かみ・ゑみ・ため」の五つの線を焼いて表にあらわれる亀裂の形で吉凶を判断した。のち、転じて禊教(みそぎきょう)の祈祷の時に唱える語。

精選版 日本国語大辞典より

この亀卜とは別に、ヲシテという神代文字で書かれた「フトマニ」という古文書に出てくる「モトアケ」という図も関係しているとされています ※こちらでは二つ目の「ミ」は「ヒ」であるとされています

フトマニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

概要

『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』が「歴史書」であるのに対し、『フトマニ』は占術と関係の深い歌集である。『フトマニ』によれば編集者はアマテルカミ(天照大神)である。『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』と同様に、確実に遡ることができるのは江戸時代までである。「太占」と漢字表記することもあるが、「太占」は亀の甲羅をつかった占いであり、ヲシテで書かれた『フトマニ』とは別のものである。

 

モトアケ

フトマニによれば、「モトアケ」とは、古代人の宇宙観の象徴である。同心円を中心から放射状に配された線分で区切ったものに、文字を一文字ずつを配したものである。

モトアケ(小笠原長武写本)。
下部の漢字は伝承中に追加された解説文。

 

フトマニの構造

フトマニは、「モトアケ」と呼ばれる図をもとに占うものである。「モトアケ」は大宇宙をかたどったものとされる。具体的には、アワウタの48音と「アウワ」が円形に並べられたものである。

  • 中央の輪 アウワ(モトモト、ナカミクラ)
  • 1番目の輪 トホカミヱヒタメ(ヤモト、ヤモトカミ)
  • 2番目の輪 アイフヘモヲスシ(アナミカミ)
  • 3番目の輪 その他の音韻(ミソフカミ)

ヲシテ文字を現代表記に直してみますと、次のようにトホカミヱヒタメで八芒星が描かれることになることが分かります

以前の記事におきまして、八芒星や8の数霊に関して詳しく自分なりの考察をしてみたところですけれども、その内容を覚えていらっしゃる方は、占術に関わるとされるこのフトマニの図における八芒星と、わたしの八芒星や8の数霊の象意に関する解釈との間に、極めて緊密な相関があることにすぐにお気づきになられたかと思います

詳しくは「ホロスコープと運命④ ~アスペクトのカテゴライズ①~」の中の<八芒星 ~現世(うつしよ)~>の項目と次の<元号「令和」と八芒星との関係>の項とを参考にされてください

過去記事でわたしが考察して得られた要点につきましては次の通りです

・八芒星はイエス・キリストの生誕を表すベツレヘムの星の象徴であり、天上の神が地上に生まれてきたということを意味する

・八分割というのは、この地上世界におけるあらゆる秩序と規範とを根底部分で定めている原理とも密接に関係しているという(方位盤の八方位と季節の変わり目とされる八節)

・8の数霊はこの社会や人が従うべき規範のすべてを意味する

・八芒星は神的なものの地上への表れや天界の現世(うつしよ)としての地上世界を表す

・令和という元号は、レイ+ワ=○+○と表現出来、縦に重ねることで数字の8を表しその数霊の象意を持つ

・「令」という漢字自体も人がひざまづいて神意を聞くことを表しており、神なるものが地上に降りてくるという意味合いと、それを地上で受けるに際して規範を整え、物事を規範に当てはまるように運用するという意味合いという八芒星の象意を色濃く持つ

トホカミヱヒタメという言葉は占術禊ぎに関係しているということですけれども、占術は神の意志を慎んで尋ねることであり、禊ぎもまた神の力によって身を正すことなので何れも八芒星の象意に含まれる内容です

ですからフトマニの図(モトアケ)においてそれが八芒星を表すように配置されているということは、非常に驚くべきことであり、この図が直接神霊から降ろされたものであるということにはそれなりの信憑性があると感じられるところがあります

実はフトマニの図の中にトホカミエミタメが含まれていることを知らない時点において、直感でこの中にその言葉が絶対に含まれていると強く感じて、それが八芒星を描くように配置されていることを自分で見つけましたので、そのことにわたしがはじめて気づいた人間という訳ではないのですけれども、そのような流れから言って、この図は確かに神霊が降ろしたものと個人的には確信しています

トホカミヱヒタメは国常立神(クニトコタチノカミ)の八御子神を表すとされていて、その八御子神が世界に8つの国を作ったというように解釈されているようですけれども、このことはイザナギとイザナミが国生みをして大八島国/大八洲国(おおやしまぐに)を生んだことと明らかに関係しているでしょう

ちなみに神代七代と呼ばれる地球創造に関係した神々の筆頭が国常立神であり、一番末の神がイザナギ・イザナミというように双方には直接的なつながりがあります

日本の国土を大八島国といいますけれども、古事記と日本書紀では島の名前や順番などが違っていて、八という数霊の持つ意味がここでは重要視されていることが分かり、要するに「天界の現世(うつしよ)としての地上世界」というわたしが考えていた8の数霊的意味が象徴されているものと考えられます

そして内八州と呼ばれる日本の国土を雛形として、世界にも外八州が作られたということになり、そうしたことはシュタイナーがこの地球の頂点は日本であるとしていることとも符合してくる部分があるものです

つまり大宇宙を象ったものとされるフトマニの図の最初の輪は地球のレベルを表していて、次第により大きな宇宙を表しているということになりますけれども、一番真ん中の輪は中心軸(最も大元の神)を表しており、トホカミヱヒタメの輪が5次元、次の輪が7次元、次が9次元、一番外の輪が11次元の宇宙=神霊を表しているのではないかと感じられます

それぞれの間に偶数の次元界がある訳ですけれども、それらは1つ前の次元の裏の次元でもあり、例えば3次元の存在としての人間は、その裏側の隠されたところに潜在意識や夢の世界を表す4次元を持っており、その4次元というのが5次元の神霊を媒介する場となっているという考え方をわたしはしており、その上の次元についても、それぞれ奇数の陽の次元界の間にある偶数の陰の次元を介在させて交流しているというイメージで捉えていますけれども、あくまでも現時点での個人的な考え方に過ぎません

物質の構成要素を解明するモデルとしての超ひも理論におきましては、現在11次元までが理論上想定されていますので、そうするとこのフトマニ図は最高次元である11次元までを網羅している宇宙構造図である可能性があるということになります

以上はフトマニ図をマクロコスモスの視点から考えて見たものですけれども、この図はマクロコスモスを表現しているのと同時に、そのマクロコスモスに照応するミクロコスモスである人間自身を表す構成図なのでもあります

それは西洋占星術がホロスコープを通じてマクロコスモスに照応するミクロコスモスである人間を見ようとすることと同じ様なことということになります

八芒星と占術との相関に関しましてついでにお話をしておきますと、八幡神(やはたのかみ)と言いますのは、和気清麻呂が関わる宇佐八幡宮神託事件でも有名なように、非常に神託をたくさん出される神様として有名です

八幡神

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる[4]

八幡神は北九州の豪族宇佐国造宇佐氏の氏神として[11]宇佐神宮に祀られていたが、数々の奇端を現して大和朝廷の守護神とされた。歴史的には、託宣をよくする神としても知られる

古事記や日本書紀におきましても「八」という数字は非常によく出てくるのですけれども、それはほとんど「尊さ」や「大きさ」などを表現するための美称のようなものと考えられます

一方、八幡神は記紀に登場する神ではなく、元は宇佐地方の氏神ですので、八幡神の「八」は八芒星や数霊の8そのものを表していると考えられ、「旗」というのも神の依り代とも考えられますので、神を降ろして物事を尋ねる占術と深く関係しており、それが日本で最も多く託宣を出した神となる結果を招いているのではないかと感じられます

元々八幡神の性格がそのように託宣を多く出される性質を持っていた部分もあるのかも知れませんけれども、個人的には宇佐地方に非常に優れたシャーマンの家系があったか、あるいは、非常に優れた高度な占術の技法を持った集団がいた可能性というのがあったのではないか、と感じているところです

となえ方について

自霊拝、自身の禊ぎ、占術に際して三種拝詞(みくさのはらへことば)を活用されたいという方がいらっしゃるかも知れませんので簡単に考えてみたいと思います

フトマニ図における「ひ」が「み」に転訛していたり、旧仮名遣いの「ほ」や「ゑ」が混じっていたりしますので、中々判断が難しいところですけれども、パターンとしては次の3つでしょうか

A:現代仮名遣い①「と・お・か・み・え・み・た・め」
B:現代がな使い②「と・お・か・み・え・い・た・め」※「ひ」の転訛を一般的な「い」に留める
C:旧仮名遣い  「と・ほ・か・み・ゑ・ひ・た・め」※ゑの発音=je

この八文字が異なる八神を表すものと考えた場合、み音が重複することは避けたいので、現代仮名遣いの場合でもBの方がよい様に個人的には思えますが、この八文字の起源が相当に古いことを考えれば、Cの旧仮名遣いの「ほ・ゑ・ひ」の発音などは更に違うものであったろうと考えられます

例えば上代にまで遡ると「to・po・ka・mi・we、pi、ta、me」のような感じになるのかも知れませんけれども、わたしはその方面の専門知識はほとんどないのでよく分かりません

ということで、あまり考えても埒があきそうにありませんので、それぞれお好みの形で唱えつつ、次第に自然に正しい発音に収束していくことを期待するしかなさそうです

わたしも今までは習慣的に唱えていなかったのですけれども、何時何処で覚えたのか忘れたものの、三種拝詞のことはよく知っていました

となえ方は確かこのような感じだったと思います

「とー・ほー・かー・みー・えー・みー・たー・めー」、「かん・ごん・しん・そん・りー・こん・だー・けん」

最後の祓えたまえ、清めたまえは上の二行のリズムに合うような感じに唱えればよいかと思いますけれども、神社によってはこの三種拝詞を普段から唱えているところもあろうかと思いますので、そういうところで専門家にお聞きできる機会でもあればいいかも知れませんね

この図の文字の配置を大体覚えて、イメージの中で自分自身とこの図をオーバーラップさせて、自分の周りに配置された文字を追いながらそれが八芒星を描いていく様にイメージして唱えるといいかも知れません

1つ飛ばしで上下左右のスクエアの位置の文字に移ると考えればイメージはそんなに難しくないかと思いますので、「と・か・ゑ・た」の位置だけしっかり把握しておきましょう

そうすれば発音に関する不確かさを八芒星の図形の持つパワーの方で相当に補えることになる筈です

 

こちらの図は最強の図と言うことでアクセサリーであるとかTシャツなどの様々な商品としてネットで売られているようですけれども、お札に準ずるような取り扱いをしない限りは大した効果は期待できないでしょうからあらかじめお断りしておきます

ブランドの高級食器や一張羅の服なども、大事にしていてたまに気分を特別なものにしたいときにだけ使うのであれば、使う人の気分を大いに高めてくれますけれども、それを普段使いものにしてしまったら、次第にそういう特別な気分は味わえなくなってしまいます

このことは、その物の価値がどんなに高くとも、それを扱う人の気持ちの抱き方や扱い方によって、効果が全然変わってきてしまうということを意味します

皆さんも神社などでもらったお札を無造作にポケットに突っ込んだり、家に帰ってポンと机や床に投げ出されたりは決してしない筈です

ですので、おすすめなのはWikipediaなどの図を適当な大きさにプリントアウトして、洗面所の鏡か壁の、目線より上の方に、洗面した際にちょっと視界の端にかかるくらいのところにお札のように貼っておけば、洗顔の度に自霊拝をすることを思い起こさせてもくれるのでいいのではないかと思います

またその際には、上でずっと書いてきたような神霊に対する心掛けや注意について、くれぐれも気をつけるようにされてください(※最も大切な部分は緑色の太字にしてあります)

確かに強力な作用はあるかも知れませんけれども、もし穢れだらけの人がこういう呪文で一生懸命に祈れば、強烈な禊ぎの力で、物凄い戒めの嵐に見舞われることになるでしょう

それでも、放っておけば将来的に大きな禍を招くような性格や行いの歪みを、事前に小さな禍で正してくれているということですので、何が起こったとしてもそれに対して感謝をしておけば大丈夫かと思います

但し、自己中心的で利己的な欲望で他人を損ねるような可能性のあるタイプの人がこのような神聖なものを安易に扱いますと、最悪はその人自身がどうなるか分からないところもあり、その場合も世間にとっては悪いものがこの世から浄化されて良かったね、という結果となるのかも知れません

反対にあまり心の穢れのない人が正しく活用すれば、神霊との間の雲霧が晴れて、上からのメッセージなどを受け取りやすくなるかも知れません

そもそも呪文や図形のようなものがなくとも、自分の本霊(真我、ハイヤーセルフなど)に対して真剣に何かを尋ねれば、経験上は100%答えは返って来ます

ただ、尋ねてその場で答えが返ってくることはまずなくて、そういうことがあればそれは自分の頭で考えた答えであるに過ぎません

質問をしたことをすっかり忘れてしまい、その事に対しては完全にフラットな状態になっていて、それで何かに打ち込んで無心の状態に心がなっているようなときに、無意識を通じて答えがフッと浮かんで来ることになります

また、性急に頻繁に様々な答えを求めるような真似をしますと、巷によくいらっしゃるナンチャッテ霊能者の方々のように、始終訳の分からない霊的な存在とお喋りしているような、普通の人からみればほぼ精神のイカレタ状態に陥ってしまいますので、ご注意下さい

この地上におきましては、人間の自主性や主体性などを決して冒してはならないということが宇宙の大法則としてありますので、正しい神霊はその禁を破ることは決してなく、本人が自助努力をしていることを前提とした上で、最低限必要な助力や助言しかしてくれないと考えた方がいいでしょう

職場などでも上司はやたらに部下の仕事のやり方などに細かく干渉したりはしないものですし、そうしたことは部下本人の成長のためにとても重要なこととなります

もし、何時までたっても特定の部下に付きまとって手取り足取り仕事のやり方を教えようとばかりする上司がいるのだとすれば、その上司はその部下に対して何か下心を持っているのに違いありませんし、最終的には自分の意のままに相手をコントロールしたいという欲心が潜んでいる訳です

ですからしょっちゅう神霊から話しかけられるような人がいらっしゃるとすれば、何かに乗っ取られ懸かっているということになりますけれども、よく芸能人が占い師や宗教家に心酔した挙げ句に最終的に道を踏み外してしまうような例が多くありますように、そのように人に強く干渉してくるような人間に関わりますと、人生を狂わされる結果に陥ることは間違いないことでしょうから、是非お気をつけいただきたいと思います

最後に

今回は皆さんが読んでいて肩のこらない内容を気楽に書こうと思っていたのですけれども、かえって饒舌になってしまったかも知れず、大分削除した部分もあるものの普段よりむしろ長いものになってしまいました

書きましたことはわたし自身が普段気をつけていることばかりではありますけれども、無論実際に身についているとは言い難い部分も多く、まだまだ理想にはほど遠いなとあらためて感じるところですけれども、今回あらためてまとめて書き出してみて、自分の参考にもなるので良かったなという気がしています

今回書きましたようなことは、何れも精神の向上、神道的に言えば身魂磨き(みたまみがき)に通じている内容であり、精神主義的な流れが主流となりゆく風の時代においては次第にこのような考え方がスタンダードとなっていくのではないかと感じられます

世の中は今のところ、まだまだ物質主義的な考え方が主流で、健康や美容は必要なものとは言え、見えない内面を磨くことを放置したまま、もっぱら必要の度を遙かに超えて身体を鍛えたり美容にいそしんでばかりいる、というのではこの先の時代の転換に取り残されることになってしまうでしょう

世の中の人は身体を必要以上に鍛えたり美しくすることによって幸せになれると勘違いしている訳ですけれども、そのように利己的な虚栄心ばかりを太らせていると、かえって不幸の種を多く作る結果を招くことにつながってしまうでしょう

人間の外面ではなく、見えない内面の心を日々美しく磨き上げるとともに、何があっても動じない、つまりやたらに怒ったり悲しんだり妬んだりするようなことのない心の力を鍛え上げてこそ、人生の幸福は確実なものになっていく筈です

 

ということで、今回書きました内容が皆さんのお役に立ちますかどうか分かりませんけれども、最後までお読みいただきまして誠に有り難うございました

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